昨日、今日と、2夜連続で放送されたドラマ「氷点」を見た。
きちんとドラマを見たのは何年振りになることだろう。テーマは「罪」と「赦し」。
カトリックの信者であった原作者、三浦綾子さんの代表作。
その中の更なるテーマは「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉。
この物語の色んな人間関係のもつれは、
ひとつの殺人事件から姿を現していくけれど、
きちんと偶然を重ね、再会や、巡り合いを織り交ぜ、
本来なら直接会えないはずの人間に会える。そこで赦しを請うこともできる。
物語として何も起こらないと前に進まないからそうさせたのだとは思うけれど、
それならもっと余韻が欲しかった。
なので、原作がどんなふうな時間の流れを感じさせるのか、
やはり読んでみたいと思った。
なぜなら、登場人物はみんな業を背負って生きていて、
その辛さは筋書きとしてわかるけれど、
あまりにも早いジェットコースターのような展開で、
詰め込みすぎのようで違和感を覚えたのと、
映像があるのに種明かしのような言葉が多すぎる気がしたから。
もっとゆっくり見せて欲しいところが省かれ、
飛ばしてもかまわないところを入れられると(エラそうだな)
正直、もう少し丁寧に作って欲しかったなあ、と思う。
壮大なロケとか美しい景色とか、そういう意味ではなく、
人間の心の「とまどい」の部分を。
説明がへたなので、あらすじはどこかで読んでいただくとして(横柄?)
赦して欲しい人間に対して面と向かうことができる。
そして「赦して」と言える。それはまだ幸せだと思えるのです。
物語のエピソードがどんなに残酷なものであっても、
事実は小説よりも地味で、もっと暗くのしかかる。
そこがうまく伝わらなくて途中から私はこのドラマを少しつき放して見てしまったと思う。
特に今日の2夜目は。
昨日の中途半端なままの方がまだ真実味があったように思える。
憎いものを憎んだまま終わりを迎える方が多い気がするから。
◆ ◆ ◆
現実の私をふと思うと大きな恐ろしい事件に遭っていない、というのは恵まれている。
けれど、生きているだけで、常に痛みを抱え、誰かにも抱えさせていると思う。
そして、赦しを請いたい相手は既にどこにいるのかわからなかったりする。
その事実は本当に人を躓かせる。
現実の方が、絶対的に人の歩幅を狭くさせ、時には立ち止まらせてしまう。
私は身近にいる存在を否定できる立場ではなくても憎んでいるかも知れない。
そう感じさせるその存在を見たくない、と思う。
けれど、どうすることもできない。それが現実なのだ。
私には相手を変える権利などないのだから、どこかで自分の中で答を見つけ、
折り合いをつけなければならない。
ただ、こんなふうに思うのも平和だからなのだ、とも思う。
「氷点」の中で人の心を大いに揺さぶり、
人生をも変えてしまうひとつに「天災」もあった。それだけは人間の範疇じゃない。
けれど、そんな状況にまでならないと大切さがわからないのもまた人間で、
愚かでもあり、ある意味、柔軟性があると思う。
ドラマは、だからそれでいい。私は批評家じゃないしフィクションなのだから。
長編であるこの物語を4時間ほどに絞ることは容易じゃないし、
その物語とテーマが伝わり、登場人物は新たに人生を歩むことができる。
それで充分だと思う。どうしても物語を作る身として、つい言葉の端々だとか、
場面の転換なんかを見てしまったけれど見ることができて良かったドラマだと思う。
痛いほどの寒さの中で、感情を出すようなシーンが何度かあったけれど、
あの場面は個人的に胸が痛みます。人間の感情の中で一番強烈なのは怒りだと思う。
そこから憎しみなどに派生していく。その憎しみは胸の中に消えない炎を作る。
そして憎まれ、赦しを請う想いもまた炎を作る。
どちらの炎もずっと胸に抱え、それを感じた時、人は寒さすら忘れる。
特に今回、舞台が北海道だったこともあり、
私も経験しているのでその寒さは想像できる。
ささやかな怒りごときであの中に放り出されたら、
一瞬で我に返ってしまうという冷たさ。
その冷たさを、凌駕してしまうほどの炎を、私は自分の中に見る。
もう二度と見たくない。そう思っても思っても見てしまう。
それは、怒りも憎しみも越えたもの。絶望というもの。
いっそのこと、諦観できればいいと思う。
自分を一切、コントロールできなくなる絶望感は、
人間として生まれて、とてつもなく辛く重い業のように思う。
***
ところで、私の鬱状態は未だ続いていますが、
その渦中で大事なひとがブログを閉じてしまった。
その時、私は鬱のせいにして最後のコメントを残せないままだった。
明日入れよう、などとのんびり構えていた矢先で私はとても後悔した。
けれどそのひとは、新しいブログを作り、
そのURLから私のブログを見に来てくれて解析結果から新ためて行くことができた。
パソコンでしか繋がりのないそのひととは、
そのひとの歩み寄りがなかったらもうほどけていただろう。
だからこそ、本当に歩み寄ってくれて良かったと思う。
そのひとは私が本当にショックを受けたり、鬱のひどい時に、
言葉で抱きしめてくれたひとだ。
そのひとがブログを閉じてしまった時、
そんな大事なひとをないがしろにした罰だと思った。
本当に失っていいものと、そうではないもの。
きちんと自分の中でわかっていなければ、と痛感した。
大事なひとを傷つけてしまった時、赦してなんて都合が良すぎる、
と、ずっと思っていたけれどそれはやはり私にはできない。
私もやはり、赦しを請う「人間」なのだ。