First Kiss

幸坂かゆり Weblog

カテゴリ: Love Life

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昨年の私は「散々」と「しがらみ」いう言葉を筆文字で書き、
藁人形に打ち付けたいような年でした。

しかし今年は何故だか大晦日からわくわくする感覚が沸いて来て、
まだ見ぬ2019年がとても楽しみに思えたのが驚きでした。
別段何をした訳でもない。そこで思う。

年が変わるというのはただ日付をまたぎ、今日から明日になるだけではないのだと。
確実に何か目に見えないものがしっかり息づいているのだと思うのです。
もちろん、だからと言って今年に入り、
いきなり悩みごとの元が断たれる訳ではなく、未だ継続しているモノもある。
けれど突如芽生えたその「わくわく」という気持ちひとつで物事の捉え方に変化ができ、
少しずつと言うよりは強引な形で幸せへと進んでいます。
昨年失くしたものがあった分、心の器には他のものを受け入れられる余裕もできました。

それがとても神秘的に感じたので神社だけは参拝に行かなければと思い、
初詣に出かけ、今回もしっかり勢い良くお賽銭をバーン!と投げ、
神様に昨年の感謝とお祈りをしましたが、今年は少し図太く言わせてもらった。

「私は精一杯がんばる。だから神様、困った時には助けを求めるから救え」

そのように伝えた。もちろん意訳だ。
そこまで神様に啖呵を切ったのだから、
私は今年、そして来年再来年と、1年だけではなく自分自身をきちんと見つめ、
自分以外の人間が抱える問題を自分と混同しないことに気をつけ、
幸せを目標にしようと本気で思う。
私自身を大切にする。
そんな私という人間を、
自分を大切にしようとしてちいさな手を合わせる誰かを、
神よ、
どうか救いなさい。


◆ ◇ ◆

この文章は自分の過去ブログにも載せましたが、
最初は「She is」というサイトのエッセイの公募に向けて書いたものでした。
そのときのテーマは「ハロー、運命」ぴったりだ!と膝を打つほどだった、が、あいにく掲載にはなりませんでした(笑)それでもこの時に感じたこの心の動きを3月に入った今も大事にしております。ちなみに上の画像は私の足元と凍る玄関前です。

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今年初めての更新になります。
もう1月中旬に入ろうとしていますが、新年明けましておめでとうございます。そして寒中見舞い申し上げます。今年も11日と日付は遡るのですが北見神社に参拝に行って参りました。おみくじは昨年同様「末吉」でしたが、何となく書かれていることに希望を感じたので結ばず、そのまま持ち帰って来ました。

1月早々反省の弁なのですが、わたくし、本気で年賀状の存在を忘れておりました。
友人知人に何枚かいただき、それではっとした次第です。申し訳ありません…。という訳でブログの方で新年の挨拶と代えさせていただきます。毎回毎回本当に平謝りでございます。いただいた年賀状は大事に保管させていただいております。はい。

昨年は「散々」という言葉がぴったりの年でしたが、今年は大晦日からわくわくする感覚が沸いて来てまだ見ぬ2019年がとても楽しみに思えたのが驚きであり、嬉しくもありました。確実に年が変わるのは日付けをまたぐだけではないんだ、という何か目に見えないものがしっかり息づいているようでした。そこまで神秘的に感じたので神社だけは参拝に行かなければと思い、今回もしっかりお賽銭をバーン!と投げ、神様に昨年の感謝とお祈りをしました。今年は少し図太く「私は精一杯がんばる。だから神様、困った時には助けを求めるから頼んだ」(意訳です)と伝えました。私の座右の銘でもある聖書からの言葉「求めよ、さらば与えられん」を意訳で伝えた訳です。

色々なことに悩まされた昨年。今年になっていきなり悩みごとの元が断たれる訳ではなく未だ継続しているものもありますが気持ちの捉え方で解決策が見えたりして、少しずつ、と言うよりは強引な形で光の見える方へと進んでいます。昨年失くしたものがあった分、心の器には他のものが入れるよう余裕ができました。そこに私は今年、そして今年から来年再来年と、1年だけではなく自分を大切にし、きちんと見つめ、自分以外の人間が抱える問題を自分と混同しないことを目標にしたいと思います。

もちろん、大変な人を放っておくということではなくその人の問題をその人自身に帰依させる、というのを自分の中に持ちたいのです。そうでなければ私まで惑わされてしまう。今までがそうであったから私はおろおろし続け、結果的に自分の意見も出せないまま終わることが多かった。うまく行かせるかは場数を踏まないとわからない。だから積極的に色々なやりたいと思うことには関わって行こうと思います。おみくじ裏面の「神の教」が印象に残ったので書き出しておきます。
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「神の教」

なさけこもったその一言に死んだ心も生き返る
優しい一言がどれほど先方の胸に暖かい光を与え、力を添えるか。言葉には魂があり、
力がある。常に神様と御一体になって、暖かい心を養ない、良い言葉、優しい言葉で
人を慰め、人をいたわり、明るい世の中を作りましょう。とげある言葉は人をきずつける。

◆ ◇ ◆

写真は昨年のものです。今年はどんど焼きの日と重なって混んでいたため撮影を断念しました。北見神社は天照大神様を祀っております。

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さて、2018年振り返り記事です。
大晦日に突然重い話から始まりますが、必要だと思うので書きます。

私は子供の頃、家族と縁の薄い少女だった。家でも学校でも落ち着かず不登校になっていた私が誰よりも安心して身を寄せた音楽があった。それがタケカワユキヒデさんだ。彼は周知の通り、ご結婚もされたお子さんがたくさんいてお孫さんもひ孫さんもいらっしゃる。彼は家族というものを愛し、愛されている。昔から。そんな当たり前のように差し出される愛に溢れた作品を私は子守唄にして生きてきた。学校に行けなかった日は情けなくて仕方がなかったが真夜中に彼の歌をヘッドフォンで隠れて聴いた時間だけは自分を許してあげられる唯一のものだった。

時は移り、現在です。
2018年9月17日、平成30年、手稲神社秋季例大祭。私はその日を一生忘れないだろう。

昨夜書いたように5日深夜、胆振東部地震と名づけられた地震が起き、道内でも遠い道東地方ですら被害があった。その約2週間後の17日、タケカワユキヒデさんのソロライブが手稲神社で行われるのを友達が教えてくれた。札幌は本当に同じ道内でも北見との距離がかなりあるので、大概のライブなどはスルーしてしまう。同じ遠方に出向くのなら友達がいる東京や大阪に行った方がいいと思えるくらいだ。
そんなぼんやりした考えでいた時に地震と停電が起こった。しかも道内全域のブラックアウト。私はその時も灯りのつかない中で、ああ、これはもう手稲へは行けないな、と半ば諦めて道順なども調べるのをやめた。しかし手稲神社の公式サイトやFacebookなどで秋祭りの準備が進んでいると知った。ようやく私は往復バスの予約をし、色々と準備を進めた。決めてしまうと準備はあっという間に整った。しかし前日ベッドに入る前に思った。

何しに札幌に行くんだろう。

あまりにも淡々と物事を進めて明日に迫っているという日に思ったのはそんなことだった。心に感情が入っていなかった。眠れなかったがバスの中で眠ればいいだろう。でもそこまでしてどうして、と心に問いながらその日が来た。私ひとりだし仮にバスをキャンセルしてキャンセル料を取られるにしても自分が悪いのだから全額支払う気でいた。でもここまで来て行かないのも変だ。何だったら札幌に着いたら駅ビルでぶらぶらして好きなカフェもあるし、そこに行ってそのまま帰って来よう。そんなことも考えていた。

しかし、あれよあれよと言う間に時間が経ち、通常通りの電車に乗ると手稲神社に着いてしまった。ライブの始まる時間は19時45分だったが私が着いたのは17時だった。まだ時間があったが席は座ったもの順だったので空いてる席を確保したあと、動けなくなってしまった。通路が隣にある一番端の前から4~5番目の席でスピーカーのまん前。ライブ前のお稚児さんの舞や風雪太鼓を観た。そわそわしていたけれど芸術が大好きなので感激した。心にじわりと笑みが広がるようになってきた。

19時45分。タケカワユキヒデさんがステージに現れた。斜めからだと遮るものがなくてものすごく近い位置でよく見えた。彼が出て来た瞬間、やはり気持ちが高揚した。そして歌い始めると慣れ親しんだ声と人懐こい笑顔にこちらもつられる(眼鏡をかけたのでよく見えた)。今書きたいのはライブ内容のことではないので細かいことは省きます。今回は一人きりで感動も恥ずかしさも享受できたことが大事なことだった。誰かと分かち合うことも大事だけれど私は数年の間、肝心の私というものがおざなりになっていて他人の人生を生きているような錯覚に陥っていたので、私自身を喜ばせてあげたかったのだ。「一人で」他のお客さんたちと盛り上がる。私の人生を楽しむことを思い出す。それがきっと手稲神社に来た意味だったのだと思う。

ライブ後、サインと握手と軽くお話ができる機会があったにも関わらず私はお礼以外何も言葉にできなかった。そこだけがもどかしい。まだまだ自己肯定の低い私はうまく喋ることができなかった。上手いというのは芸人さんのようにというのではなく、自分の話したいことを相手に伝えられるかどうかだ。その時に必要なのは自分の感情と決意だ。自分ではない誰かばかり見ていたら一人になった時躓く。口から出る言葉が本当に自分の言いたいことなのか相手を気遣っている言葉なのかわからなくなってしまうのは自分をきちんと見てあげなかったからだ。今ならあの日言いたかったことがわかる。それは「こんな大変な時期に来て下さってありがとうございます」という感謝。それだけだ。いつかきちんと自分の言葉を話せる機会があるだろうか。だとしたらその時までに自己評価を通常まで引き上げておきたい。直接会えて、あなたの歌を聴けて良かった。本当に良かった。

帰りも迷子になりまくったけれど、結果的に色んな人に道を尋ね行きたい場所へと辿り着けた。そしてなぜあそこまで道に迷ったのか、それは札幌がまだ地震直後という状況だったので節電のため普段目印にしているものの照明が消えていたという理由もあった。帰りは夜行バスで5~6時間揺られた。夜なのでそこでも照明は消され、スマホも手書きもできなかったが私の心は感情に溢れてすぐにでも何かに書きたかった。この感情を書くまで死ねないとも思った(笑)明らかにこの日を境に私の中の何かが変化してきていた。もちろん感情に上下はあったがそれでも。一人きりになって充分自由に思考できることが重要で、そこで私は改めて自分を取り戻せたのだと思う。時折感情の波に押され、躓きながらも一度手に入れた大切な自由はこれから芽吹くことと思う。

そして今日は大晦日。
やっと心から微笑できるようになった。しがらみとの決別。仲違いしていた古い友達との仲直り。色んなことが私を前に進めて行く。今年、私が初詣で引いたおみくじは末吉だった。確かに1年として考えると散々だったと思うけどやはり散々さにも最後が訪れたようだ。もう来年はとっくに目標に突き進んでいるだろう。最後に、ライブの動画を上げている方がいらしたのでお借りします。

『ガンダーラ』
いきなり1曲目からでした。

『銀河鉄道999』
ラストの曲。ものすごく盛り上がりました!
 
今年の最後、この気持ちを来年は行動に移して行きたい。
長くなりました。今年は本当に厄年かと思うほどの1年でしたが大晦日にその呪縛から逃れそうです。もう全身で空気が変わるのを感じている。来年への課題もある。そこへひたすら向かうのみ。来年は良い年になりそう。長々とつき合わせてしまいました。皆様、来年もまたお会いしましょう。良いお年をお過ごし下さい。

さて、少しだけ今年のことを振り返りたいと思います。
何度でも言いますが今年は私にとって精神的に大変多忙な年でした。
その中でも日常を脅かす2018年9月6日胆振東部地震は非常に大きかった。地震は深夜でした。例によって宵っ張りの私は起きていて、それほど動揺はしなかったのですが直後に起きた停電が長引いたことが色濃く残っています。そして皮肉にもこれが私に様々なことを1から再始動させるきっかけとなった。もちろん電気が点かないのでPCも電池残量が気になるスマホも消した。その時はとにかく夜だったし、明るくなるまで待とうと義父と話し、怖がって私にくっついてきていた愛猫、みみちゃんとななちゃん(当時)が落ち着き、朝になるのを待ってから寝室に行った。

電池残量が気になってスマホを開くことをためらい、メモ帳を取り出し、気がつくとあれこれとその時の状況…と言うよりも自分の感情を書きなぐった。つい最近それが見つかったので読み返してみると案外忘れていることも多かった。そしてそのメモだけ見ていると最近人にも言われたがやはり私はどこか呑気なのだろうか、とも思った。書き出してみますね。

◆ ◆ ◆

※9月5日 深夜
ビールを飲んでゆったりしていたところ、いきなりの地震。突然の停電。ブレーカーを確認したらそれじゃない。窓を開けるとすべてが真っ暗だった。ああ地震はうちだけじゃないんだと思った。スマホでの確認は必要最低限に。何と全道全域だそう。不謹慎だけど漫画「ドラゴン・ヘッド」を思い出した。あれは電車が止まって真っ暗で地震ではないけれど動けない状況が続き、日が進むにつれ、食べ物も傷み出し、人の気配もまったくしなくなり…書いていて気が狂いそうになった。そして現実の話、冷蔵庫の中身。刺身が…牛乳が…。

※9月6日 午後15時15分
停電中だけど近所の子供達が元気に遊んでいて救われる…気温は30度になり、エアコンは使えないけど窓から風が入るので涼しい。自然な風は呼吸をさせてくれる。滑らかで流れの決まりごとの一切ない気ままな風。ありがたい。

※9月6日 午後15時45分
砂川市は電気が復旧した様子。ガスと水道は使えるので今日はこのままカップラーメンだな。ツナ缶に穴を開けてロウソク代わりに、という知恵もあったがうちは猫たちが騒ぐので却下。

※9月6日(時間記入なし)
陽が暮れてきた。懐中電灯の電池もばっちり。けれどそわそわと時が空く。そんな時手に取って落ち着くのが写真集だった。特にかわいい動物の本はホッとする。みみは割と落ち着いて周りを観察しているのだけど、ななは敏感なので体のほとんどを私にぴったりと預けたままでいる。大分外は気温が下がってきた。

※同、17時~
近所のコンビニ(徒歩2~3分)は閉店。電池等売り切れ。

※同、18時~
懐中電灯の明かりだけで書くと不思議だ。自分が羽ペンなどを使用していた時代の人になったように感じる。外はどこも暗い。時折ふくろうのような声が聞こえてくるほど静寂。

※同、19時~
ほくでんの車が通る。「今日中に復旧の目処が立ちません。」だけ聞こえた。避難所も用意されている。私は家にいる。ここまで暗くなるとジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」を思い出す。あれは計画停電で男女の物語だったけれど。

※同、20時~
窓を見ると星が非常に鮮やかだったので懐中電灯を持って外に行くと満天の星空!幼い頃に見たままの星の姿だ。星にも命があるけれど風景は変わらない。人間の作る電飾が増えて見えなくなっていただけだ。星はいつも静かにそこに「在る」。

※同、20時半~
何とか冷えを保っていたビールを飲む(笑)もちろん深酒は禁物。
それでも思う。夜は、眠るか、お喋りするか、愛する時間。

◆ ◆ ◆

メモはここで途切れていて、私もさすがにこの日は早々に寝たのだろう。結果的に停電は2日間で済み、私の住む道東地方の被害は少なかったが母のいる施設は断水までしたというのだから深刻だ。なんでもなくて良かった。義父はテレビっ子なのでテレビも音楽も何もない2日間は叱られた子供のようにしょげてしまって気を使った。実はそれが一番疲れた。電気が復旧してつけたテレビからは被害が酷い地域の画面が映し出され、3月11日の震災を思い出し、具合が悪くなった。あまり見続けてはいけないと思った。私は妙に共感性が強く人より疲労を感じやすい。

この日から約2週間後、私は札幌に行こうと計画を建てていたのだけど、この状態じゃ行けないだろうか、それより目的であるイベントそのものが中止になるんじゃないか、と思い、頭が真っ白になった。2018年は運気がめちゃくちゃだったので諦観する気持ちもどこかにあった。
あれから3ヶ月経ち、最後の避難所も閉じ、住民の皆さんは帰宅したり、仮設住宅に移った。北海道は元気にやり直そうとしている。仕事をしている人のはきはきとした声にとても救われたのを思い出す。彼らは仕事だから率先して客を導く立場にいるが当然彼ら自身も被災していて、停電の時は家に帰ったら電気のつかない心細さは一緒なのだ。なのに勝手なことを言う人間がいる。思慮の足りなさが一番恐ろしいと思った。

そして、私は先ほど書いた札幌のイベントを迷っている最中でした。なんてことだ。大晦日なのに書ききれないぞ(笑)また明日改めて。

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昨年、私はごく普通に人を好きになった。
ただその人はネット越しで会ったことがなかったから、好意を持っていた、というのが妥当だろう。最初は仲間内のTwitterのDMで少数グループを作り、わいわい好きなアーティストのお喋りをしていた。筈だった。そのうち、仲間から離れてふたりだけでDMをするようになった。とても楽しくて久しぶりにわくわくする毎日だった。ひとつ気がかりなことがあったのを除けば。

私は早々にその人に好きだと言ったが、その人はあらかじめ、恋はできない、と私に返事をした。私も、それでいいよ、ただ好きだと言いたかったのだと告げた。DMでのやり取りだけの友達がいたっていいじゃないと思っていた。その人は自分のことをほとんど話さなかったけれど、同い年だとは言った。私はそれを丸ごと信じて話を続けた。こうして7ヶ月毎日DMをしていた。なぜDMか。メールは危険だからだめ、スマホを持っていないからLINEはできない、と断られたから。スマホを持っていないことについても疑うことなんて微塵もなかった。ガラケーが使いやすいという人は私の周りにもいるからだ。クリスマスも互いにDMで「メリークリスマス!」と言い合い、年末も年明けの挨拶も、愛猫が亡くなった時も慰めてくれた。とても救われた部分だ。

しかし先に書いた気がかりとは、彼が微妙にマウントを取ろうとしている部分だった。
わざと私の特徴を挙げてそういう人が嫌いだと言ってみたり、嫌いじゃないと言ってみたり。最後の方は私がTwitterに書いた言葉を否定された。もちろん、恋はできないと言っていた彼のことを恋に似た気持ちとしてツイートしてしまったのはいけなかった。でもいや待てよ、と。誰が私たちの関係を知ってるの?と。そんな誰が誰に言っているのかわからない広いTwitterの中のちいさなつぶやきひとつを拾って、やめてください、と遮られた。そこでもう一度だけ、好きになれないのか確認したところ、文字で注意された。つーか怒鳴られた。「!」マーク付きで。男の人に怒鳴られるのは苦手だ。ものすごく怖いから。それに理不尽さも感じた。どうして好きだと言う気持ちをやめろと言われなくちゃいけない?人の心を支配なんてできないのに。そこでもうだめだと思った。その人のことは相変わらず好きだった。けれど自分の経験が、もうこの付き合いはやめなさいと忠告してきたのだ。そこは実際に会わなくて良かったと思う。ひとりで考えて答を出せたから。

もしも私がまだ10代だったら、きっと彼が一言でも、きつい言葉をかけてごめんね、なんて言ってきたら、ほだされて許してずるずるしていただろう。そしてマウントを取られ続ける演技をして疲れ果ててどちらにしてもだめになっていただろう。私が彼に「あなたの言葉はモラハラです」と言った時、私はスマホ越しに泣けてきた。決定的な決別の言葉になるとわかっていたからだ。どれだけ相手に惹かれていてもマウントされる存在になるのは嫌だったから。49歳になるまで職場で数々のモラハラ、パワハラ、セクハラなどに遭ってきた。そのせいで心の均衡まで崩した。けれど今はそれが非難される時代だし、そのことに私も賛同している。現に私はそんなに気軽に扱われていい人間じゃない。そもそもそんなことされていい人間なんて男女問わずいない。だからこれからの私のために最後の言葉を言った。彼は多分、言葉の丁寧さとは裏腹に非常に憤っていたと思う。乱暴に自分のアカウントを削除してしまった。ただその時も「責任を取るために辞めます」と言ってきたので「自分が辞めると決めたんだから人のせいにしないで」と言った。

心臓が痛くて死ぬかと思った。…もうね。三半規管も弱まってるし、この年になると恋愛って生死に関わると思うんですよ。今だからこうして少し笑えるけどその時は泣きながらだったし、相手がTwitterという唯一の繋がりから消えてしまった時、相手が死んだみたいに悲しくて空しかった。その後、それからは現実の人間たちの中でネット恋愛について話してみた。詳細ではなくてそういうやり取りから始まる恋に対してのこと。要約すると。

・あなたはそんなのに引っかかるとは思っていなかった。
・詐欺に遭うよ。
・どうせネットでしょ。
・現実で結婚相手を探したら。

多分すべて正論だ。でもね。そんなことすべてわかってるの。
失恋と呼んで差し支えなければ、それは初めてじゃない。けれどその痛みはわかってる。一度心から懸命に関わろうとしていた関係を失うのは体が引きちぎられるような辛さがある。詐欺に遭うというのだってネットだから相手が見えないことだって、言われなくても私本人が一番わかってることだ。だから口惜しくて悲しくて仕方なかったのだ。そして胸だって痛いままだった。みんなそこを放置してああしろこうしろ、とうるさかった。傷をほっとかないでよ。膿んで血が出てる人を前に正論を言ったって止血になんてならない。更にムカついたのは既婚者で友達だと思ってた男から「ショックだ」と言われ、慰めてくれるどころか、聴いてもいないのに、ま、俺にはもう大事な人はいるしね、と真正面から止めを刺された。もうほんと、みんな私を殺す気だったのか…。ちなみに上の正論でひとつ当てはまらないのは、私は別に結婚相手を探していた訳じゃないというところだ。

私は好きだったその彼を詮索などはしなかった。あれ?と思うような人から鍵付きアカウントでフォローされたりしたこともあったけど放っておいたし、おすすめユーザーに明らかに彼とわかる人がいても見に行かなかった。それはYouTubeなどでもそうだった。私の動画にコメントを入れてくれた人に対して又しても、おや?と思うことはあったが(事実彼だったのは後でわかった)やはり見に行かなかった。ただね、こちらがどれだけ見ないように心がけていても私以外の人もこの世の中にいるのだよ…。何となく知ってるかな、と思い知人に「もしかしてこの人って…」と話したところ、どうも知らなかったのは私だけだったようで、今までの疑問が繋がっていたと知った時は唖然とした。

彼は同い年でもなかったしスマホも持っていた。
新しいTwitterアカウントも知ってしまった。彼の新たなアカウントは今までの彼と同じ人なのか戸惑うくらい違っていた。そっちが本当の姿だったのだろう。私は思わず「あの人とこの人が同一人物だったとは…」と言う類の、誰のことを言っているのかわからないような言葉をつぶやいて、仮に彼の言葉がTLで流れて来たら嫌なのでミュートをしにもう一度彼のアカウントを見に行くと既にブロックされており、見られなくなっていた。私が見たのは「池沼(知的障害の略で知と障を合わせ、漢字を変えたネットスラング)の中年女性に粘着されたから」アカウントを変えた、という部分だけだ。知人もその人の本当の年齢などを知り、そっとしてあげたいという気持ちから私が気づくまで一切教えなかった。けれどその言葉遣いを目にしてからはそういった擁護の気持ちを失くしたそうだ。その時の知人の心遣いにとても感謝している。こんなふうに本当の大人は人を傷つけないものだ。

それから、私に放ったモラハラのような言葉はとある物語、と言うことにしておこうか。すべてはそれらに出てくる台詞だったのだ。そして私と毎日やり取りしていた期間の内、同い年の人たちと砕けた言葉でやり取りをしていたらしい。最後の数ヶ月が被っているからもしかしたらバカにされていたのかもしれない。それは既にもうわからないし知ろうとも思わないけど。途中、本当に立ち直りかけたのに後から後から出てくる彼の虚像だったものに私は縛られて、再び落ち込んだ。その時もどうしたら良いのかわからなくなった。

そんな時に起こった胆振東部地震。しかもブラックアウトで全道停電。
私の住む場所での停電は2日で何とか済み、被害も少なかった。だから言えることだけど電気が使えずネットから完全に隔絶できたのは私には安定剤のような役割をもたらしてくれた。ただこれは本当に被害が最低限で済んだから言えることで未だ仮設住宅どころか、避難所暮らしの方もいます。ここは個人の話ということで心に納めてください。

ちなみに彼が言った「知的障害」という部分ですが私は彼にその話をしたことはない。
しかし私は現在、病院通いをしている障害持ちだ。治るものではないからうまくつき合うために最低限の薬物治療と医師との会話により現状維持を保っている。そしてその細かい話はごく僅かな人しか知らない。これも他者にとっては秘密になるだろう。隠しておきたいことは誰にでもある。おそらくは彼の身近にそういう障害の人がいないのだろう。だから気楽にそんな言葉を吐けるのだ。しかしそんな私が今、自分でどうにかしたいのは「紳士的だった彼」の幽霊のようなもの。あの幻影にうなされていることだ。ただこれも時間の問題でうなされている悪夢ならいつかは醒める。その醒めるまでの時間は何とか平和にしていきたいと願っているのだ。多分私の希望はそれだけなのだ。だからどうかもう私を責めないで。正論で私を殴った人たち、あなたたちは大切な友達がオレオレ詐欺や結婚詐欺に引っかかったとしたら、まず誰が悪いと思う?
私が苦しんでいるのはそこなのです。

◆ ◇ ◆

平成最後日記です。
既に1年経とうとしている事実に驚愕しながら書きました。これはうだうだ思い悩むより大きな出来事だったので書いてスカッとした方がいいだろ、と思い極力情報は出さずに書いてみました。震災があった9月6日から約10日ほど経ち、私は札幌へと出向きました。それは私を支えてくれるとても大きな出来事でした。その話については今後。長くなりました。

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ずっと大好きなモデル、アドリアナ・リマが20年継続していたVictoria's Secret(以下VS)のランウェイを11月で終わらせました。まず彼女の話をする前に長い前置きがあります。私自身が好んできた道からお話します(笑)

私はブログを始めてから、セクシーな女性に憧れているということに気づきました。
今までそんなこと知らなかったのですが、PCを2002年に購入し、大澤(誉志幸)さんを筆頭に色んなサイトを見ていると、まー!出てくる出てくる美女軍団!(笑)そういえば、と思い出したのは、PCがなかった頃から私は雑誌で見ていたスーパーモデルと呼ばれる女性たちが大好きで、彼女たちを撮影していたピーター・リンドバーグなどの写真集が欲しくてすぐにPCにて探しました。

90年代、クリスティ・ターリントンの清涼感を失わないエロティシズムや、挑発的でありながらどこか遠慮が見え隠れしたクラウディア・シファー、かと思えば自らの家を撮影場所に提供して、ドレスのままシャワーを浴びるという大胆な撮影をしてしまう小悪魔のようなカーラ・ブルーニ(ニコラ・サルコジ仏大統領夫人)他にもたくさん大好きなモデルさんがいた。ある日、雑誌を読んでいると海外で下着のショーが開かれると話題になっていた。そこでVSというランジェリーカタログを知ったのでした。その頃はステファニー・セイモアがどのページにも載り、細い体ながらとても挑発的で美しかった。そこから私は海外からこのカタログを取り寄せるようになりました。間もなく、とても若いレティシア・カスタがページの端に載ったのですが、無造作な金髪とグラマラスな肢体、この上ない美しさは端だろうが目を惹き、あっという間に表紙を飾るようになりました。ほんと、あっという間だった。

そして運命の出会いがあったのです。
私はまだ紙媒体でしか彼女たちを見たことがなかったのですが、PCではVSのファッションショーを動画で閲覧できました。そこで、驚くほど挑発的な瞳を持ち、豹が人間になったのではと思うほどの、しなやかな細さと手足の長さを持つひとりのモデルさんに出会いました。ここまで長かったですね。

そう。彼女がアドリアナ・リマでした。
最初に見たときには既にデビューしてから何年も経っていたものでしたが、遡って見ていくと初めてVSに載った自分を見て嬉しくて本を抱きしめるところなどを見つけ、しかも非常にセクシーな下着なのにそれを見る彼女はまるで子供なのです。社長さんも喜ぶ彼女の頭を自分の娘のように撫でているのです。とても不思議な光景でした。そんなアドリアナ・リマ、私はリマっちなんて呼び方をして、たびたびブログにも書いてきました。彼女がVSのファッションショーを勤めたのが、なんと20年だそうです。途中、驚くほど体型が変わってしまったりして非難を浴びた時期もありましたが、彼女なりに健康な痩せすぎではない体を目指しカポエイラやボクササイズを始め、どんどん美しく健康的な体を作り上げて行きました。

今まで写真でしか観たことのないリマっちが動いたことの感動ったら!
手前味噌ではありますが私のGIF専用ブログにてリマっちカテゴリがあります。そこにたくさんの魅力的なリマっちがいますのでぜひ! ご覧ください! ぜひ!
http://blog.livedoor.jp/beatrice/archives/cat_27074.html
94020290
2005
2013
2016
2016_1
で、2016年のリマっちが可愛くてねえ…画像見てたら見とれたよ(笑)


彼女のショースタイルは非常にユニークで、そこが通常のファッションショーとは違うところでした。服を見せるためにただ淡々と歩くのではなく、よそ見して目をつけた観客を指指したり、歩き方、ポーズの決め方、すべてが独自でとても楽しかったです。彼女の独自性はVSでも群を抜いていたと思います。そんな彼女が今年2018年、とうとうVSのランウェイを終わりにする日が来ました。

彼女がVS最後のランウェイとなるステージに出てくるとき「Thank you Adriana」と書かれた扉が用意され、真ん中から開くとジュエリーを縫いつけた豪奢なレースを纏ったアドリアナがランウェイを歩きました。いちばん最後、笑顔を欠かさなかった彼女が一瞬だけ顔を歪めてしまいました。うん。そうだよね。感極まっちゃうよね…と思いながらも彼女はすぐに笑顔に変え、さっといつものように早いスピードで鮮やかにランウェイを歩ききりました。画面越しではあったけれど、惜しみない拍手を私も送りました。あなたがいなかったら人生の面白みに欠けていただろうな、型破りな美というものを考えずにファッション誌に流されて個性も何もないスタイルになっていただろうな、なんて思い返しています。

しかし、リマっち自身はあくまでもVSの仕事を終えたということで、まだまだ彼女は色んなことに挑戦中です。Instagramではボクササイズ風景や、超きれいな素顔などの投稿が多くてこれまた眼福です。
adri_training
Pumaのアンバサダーにも選ばれておりますし、これからどんなリマっちの人生の一部を私たちに見せてくれるのだろう、とわくわくしています。噂ですがVSと契約中だと他ブランドとはなかなか組むのは難しいとの話も聞きます…。しかし! リマっちはこれまでもこれからもリマっちだ! 応援するよ!

◆ ◇ ◆

少し早いですが2018年の振り返り記事になります。
今から振り返り記事を書かなければ、平成最後に間に合わない気がするくらい、2018年は私にとって心身ともに揺れ動いた年でした。あと1ヶ月残っているのに過去形で書いているのは、もうここまで振幅の大きな事柄などが起こらないように、との願いを込めています。

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2018年10月15日、
突然、21年一緒に暮らした愛猫、ななちゃんが逝ってしまいました。
お腹に毛玉が数個できていて、ここ最近の粗相も酷くなっていた。
14日昼、突然足腰がふらふらし出したので、これはおかしいと思い、
この日は日曜日だったから明日お医者さんに行こうね、と、
話していた矢先だった。ひとつ飼い主側の勝手で救いになったのは、
苦しまず、眠ったまま逝ってしまったことかな。
場所も、ふかふかでななちゃん仕様にしていた座布団の簡易ベッド。
たくさんのお気に入りのタオルと枕、暑くも寒くもない空気の通る場所だった。
まだ土の柔らかい時期だったのでそのままおうちの庭に眠ってもらいました。
お気に入りのタオルにくるりと巻いてカリカリも一緒に。

ななちゃんはうちに来た1番目の猫、くろちゃんの娘で、
唯一、妊娠しなかった子。生まれた時からどの子よりも体が小さかったけれど、
気位だけは高くて、人も猫も寄せ付けようとしなかった。
私も本気で叩き合いのケンカをしたことがある。
けれど、そんな彼女でもなぜか私は一緒にいると楽だったんだなあ。
気が合ったんだろうなあ。他の家族や猫たちにすら威嚇する子だったけど、
頭が良くて、ななちゃんが決めたことにはみんなが従うほどだった。
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そんな一匹狼(猫)ななちゃんでしたが、くろちゃんやろでちゃんがいなくなってから、
急激にらむ子さんに接近し始め、ついには一緒に眠るまでになった。
多分、誰よりも驚いたのはらむ子さんだと思う。
らむ子さんはよその子、というのが抜けなくて人間以外に懐いていなかったので、
ななちゃんの態度にはほんとうに驚いた。けれどらむ子さんの優しい性格は、
すぐにななちゃんを受け容れてくれた。
結果的にそんなふうに仲良くなったふたりを見て警戒していたみみちゃんも、
らむ子さんと眠るようになった。らむ子さんがうちに来て最後に心から安心できたのは、
ななちゃんの行動力のおかげだったと思う。

体が小さかったから機敏で細いところもするりと入り、
どんな扉であろうが、らくらくと開閉した。若い頃はそこに悩まされた(笑)
年を重ねてからは眠る時間が増え、私の膝に顎を乗せて眠ったり、
甘えた仕草を見せてくれて赤ちゃんのようになり、ひたすらに可愛かった。
今年は1月2日にらむ子さんを亡くし、今年のうちにななちゃんまで見送ることになるなんて、
と、呆然として唐突過ぎて涙は出ないかなと思った。
けれど土に返す前、用意中、タオルにくるんだ彼女の後頭部にちゅーをすると、
私の熱もあったのだろうけど、まだ柔らかくて暖かな被毛で、
私はちゅーをしたまま、そのまま彼女を手放したくなくて抱きしめて泣いた。

しばらくはななちゃんがいなくなったことに実感が湧かず、
実は10月最後の今日になってもまだ隣に寝ていたり、足元をうろついている気がする。
まだいてくれるのかなあ。夢に出てきていいよ。夢でたくさん遊ぼう。
ななちゃんは、私のベストフレンドなのだから。
おさかなに目がなくてななちゃんを避けながら歩いてごはんを食べたりもしたけど(笑)
あれほど何に対しても真面目な子は、ななちゃんだけだったと思う。
怒るのも遊ぶのも、甘えるのも。

…… いや、ほんとにまだ実感が湧かないのだけど、
そんなこと言ってちゃいけないよね。きちんとさよならは言わなくちゃね。
ななちゃんと一緒にいられたこと、ずっと忘れないから。大好きだよ。
ずっと一緒にいてくれてありがとう。
IMG_1231
そして、この次の日またGoogle Photosが自動生成で動画を作ってくれました。
ななちゃんの愛らしい姿がたくさん収められています。最後にこの動画を貼りますね。

2018/10/16 @Google Photos

※この文章は、とあるWebの公募に応募したものです。落選してしまいましたがこの日のことは今でも瞬時に思い出すことができます。ひとつの思い出としてブログに残しておこうと思いました。
uchi_sora
20代後半の頃、現在のカフェのような軽食喫茶に勤務しており、
仲の良い女友達が仕事帰りに時々寄ってくれた。その日もそうだ。混雑した昼も過ぎて客の減った店内で私は少々疲労があったが、何かを言いあぐねているように見えたのでしばらく自然に任せて黙っていた。やがて彼女の方から口火を切った。

「あたし、結婚することにした」

彼女とは小学校から高校に入るまでずっと同じクラスだが性格は正反対だ。私は内向的。彼女は好奇心旺盛で行動力がある。そんな私たちは行動範囲が違うので一緒にいることは少なかったがなぜか気が合い、ふたりで旅行などに出かけた。20代になると彼女は同じ職場でアルバイトをしている大学生の恋人ができた。彼とは喧嘩と仲直りを繰り返しながらも続いていたが大学卒業後は実家のある街に帰ると言う。彼の実家は海を越えた遠い場所だが彼女に一緒に来て欲しいと言った。つまりプロポーズされたのだ。しかし彼女はこう答えた。
「結婚なんて考えたことなかった」
私と彼女の気の合う部分に、結婚に憧れを抱いていないという点がある。そのため、他の友達が婚活などの話を始めるといつも饒舌な私たちが困って黙り込んでしまう。それが突然現実として彼女の眼前に迫っている。私はただ彼女の戸惑いや葛藤を聞くことしかできなかった。

そして彼女が考え始めてから数週間経ち、出した答が先ほどの言葉だ。私はメレンゲが溶けていくようにまろやかな気持ちになり、瞬時に『おめでとう』と口に出していた。海を越えた街で暮らすことを選んだ彼女に、心から幸せになって欲しいと思った。彼女が店を出た後、スタッフに『先を越されたな』と冷やかされたが、もしも言われたのが私ではなく彼女なら辛辣で的確な言葉を返すだろう。彼女は彼について行くのではなく彼と一緒に暮らし、一緒に何かをしたいと考えたから決めたのだ。そこに先も後もない。
そこから双方の話はすぐに決まったが出発にかなり日にちがあったので『少しの間ここでバイトしない?』と話を持ちかけると彼女は喜んで提案を受け容れた。

ところが、同じ職場で終始一緒にいるようになると、元々の性格の違いが炙り出されたように彼女は信じられないほど感情的になった。普段何を言われても冷静に言い返せる彼女が雑誌の占い如きに涙ぐむようになり、同様に普段気にしないようなことに怒りを爆発させた。感情の波が激しくなった彼女のどこをどうなだめたら気持ちが落ち着くのか把握できず、私はしばらく彼女を友達だと思うのをやめた。毎日は殺伐としたものとなり、気軽に一緒に働こうなんて誘ったことを悔やんだ。そのままで彼女のバイト期間は終わった。

すると、憑き物が落ちたように私たちの仲は元に戻った。何の理由もなく突然に。私は彼女にバイト中の様子を伝えると、彼女も自分の何かがおかしいと感じながらどうすることもできなかったのだと教えてくれた。そこからはふたりで反省し合い、歩み寄り、きちんと話をした。彼女だって感情の起伏くらいある。それは私にも言える。今回のことで私たちは初めて苦い経験を味わった。けれどもう何のわだかまりもない。そしてあれはマリッジブルーだったのかも知れないと今なら思う。

出発当日、私はあらかじめ見送りはしないと彼女に伝えて店にいた。しかし突然彼女が店にやって来た。
「え? どうしたの? 飛行機の時間大丈夫?」
「皆さんにもお世話になったから」
彼女はスタッフ全員に挨拶して回り、私の前に来たところで立ち止まった。
「今度......」
彼女が改まって言葉を止めた。
「うん」
「遊びに来て。いつでも気軽に」
彼女は私の手をぐっと握ってから店を出た。窓から彼女の後ろ姿を目で追うと何度も振り返って手を振ってくれた。私も彼女の姿が見えなくなるまで手を振り返した。

その後、彼女は離婚したが帰ってこなかった。とても住みやすくて面白い街だからと言うのが理由だ。現在40代になった今も私たちは飛行機に乗って互いの住む街に会いに行く。変わらずに話は弾む。おまけに年齢を重ねて話題も増えている。遠い街でひとりになって歩く彼女は世間と言う遮るものを素早く翻し、とてもしなやかだ。いくつになっても楽しく笑い合える女友達。沢山の経験を踏まえた私たちは絶対これからの方が楽しくなる。そう確信している。

※ ※ ※

信頼のおける「おんなともだち」を持つのは宝だと思っています。それは心から強いものです。その強さは常識をアップデートしない人たちの言う「女は強い」という概念ではなく、竹のようにしなる臨機応変さだと思うのです。「me too」運動も起こる昨今、時代は見えないところで変化しています。
「おんなともだち」は細やかで勇気があります。
時にきつい真実を投げかけ、時にそっとしておいてくれる。そして私からも発する彼女たちに対する細やかさや伝えたい言葉も受け止めてくれます。年を取った時、自分で稼いだお金、保てるだけの健康、おんなともだち、と言う三種の神器が存在してくれれば、鬼に金棒、基、悔いなく笑ってあの世に逝ける気がしています。そんなことを自らの経験から今回のテーマで書いてみたいと思いました。

niwa2 niwa1
気づくと5月も最後。
3月から何も書いていないのも驚いたが、それほど時間が経ったように感じないことにも驚く。今の時期は家の庭がいちばん色づいていて活気がある。つつじ、さつきが満開。チューリップは2本だけ。なぜ2本だけなのか。数年前、雹(ひょう)が大量に降り、それは屋根にもダメージを与え、チューリップの土の場所にも直撃してしまった。その辺りには鉢植えのミニバラも植え替えていたのですがそちらも見事にやられてしまった。雹は時期を選ばずに降るから困る。時期を選んだとしても困るが。それでも毎年2本、可憐にその姿を見せてくれて嬉しい限り。

4月から5月中旬にかけては自分の書いた過去の掌編小説の推敲と言うか、手直しをしていた。
主に2004年から2006年にかけての小説に絞って行っていたが、これほどまでに今と文章の書き方が変わったのかとそこでまた驚いた。そして推敲、手直し、と言うより物語そのものを変えてしまったものもあった。そこまでしなければ現在の自分が過去の自分に説教したくなったためだ。もちろん、そこまでしてもだめなものはやはりだめで完全にボツ扱いにしたものもある。そちらの方が多い…。
それから困ったのは過去の小説ばかり見ていると妙に気が滅入ってしまった。そこは意外だった。なぜそのようなことをしているのかと言うと、以前使用していたブログを閉鎖して現在主に使用している小説ブログに統合しようと考えたから。そこでどうせ引っ越して載せるならきちんとしたものにしよう、と思い、当初は誤字脱字や三点リーダー、登場人物の言葉使いを直すことになると思っていたのが、おおごとになってしまったのです。いやはや。この作業はもう少し続きます。

これが終わったらとうとう「32のお題」の32作目に取りかかります。
アイディアは既にあって、どのように動かしていくかという段階なので近日公開になると思う。どうぞお楽しみにお待ちください。いえ、どうか待っていてください。

5月29日は家で最初に飼った黒猫、くろちゃんの3回忌でした。別にこれと言ったことはしませんでしたが、元気にはしゃぎ回り寝そべったりした姿の写真を見ては思い出にふけった。3年前のことなのに今でも思い出す景色は鮮やかなまま眼前にせまる。美しかったなと思う。今はくろちゃんが産んでくれた、みみちゃんとななちゃんの姉妹がいる。彼女たちも21歳という高齢になり色々と健康面に問題も出て来ているがそれでも可愛くてたまらない。私にできる限りの安心感を味わって日々のびのびと暮らして欲しい。

そんな訳で、久しぶりに書きました。
こうして書かないといけませんね。簡単にものごとが過ぎ去ってしまう。四季は毎年忘れずにやってきているというのに。明日は私の住む地方に大雨警報が出ています。暑くなったり寒くなったりなかなか情緒不安定な天気ですが、私も天気のことを言えたものじゃないのでまたこうしてちいさなことでもここに記していこうと思う。長いこと更新しなかった自分を省みています。

最後に載せる動画はGoogle Photoに自動生成されたものですが、そこには、くろちゃんもろでちゃんも、みみもななも、らむちゃんも、他にもたくさん家に来ていた猫たち、そして猫たちを可愛がる健康な日の母も写っていました。ほんの少し感傷的になりました。短い動画ですので観ていただけると幸甚に存じます…

Cats Photos @ Google


みみちゃんとななちゃんは元気!
miminana

2017 4 23 monkey magic compilation

(2020/09/08更新)

新旧ゴダイゴを取り混ぜて作らせていただいたものです。よしなに…
なんて時間が経つのが早いのでしょう。
昨年1月27日。私にしてみると大冒険であったゴダイゴライブのための大阪紀行。
血肉になっているのとは裏腹に、現実では既にもう過去の出来事になっている。

昨年、ゴダイゴやタケカワさんのことをおもいっきり喋りまくろう、と思い立ち、
2017年3月、専用のTwitterアカウントを作りました。
現在は閉じましたがとても楽しかったです。
何より会話が普段のアカウントと違ってものすごく多くて、
ひとつつぶやくごとに反応があるので、アドレナリンが出るほどわくわくしました。
ただ段々と思考の乖離が出て来てしまったのも事実で…

昨年2017年は、小中学校以来聴いていないゴダイゴのアルバムを探すことから始まりました。
タケカワさんのソロアルバムなんて知らない作品が10枚以上あって、
そのほとんどが廃盤になっていたので探すのも大変でしたが何とか入手して聴けました。
ゴダイゴの音楽と言うとヒットしたものがもちろん有名ですが、
少し浮世離れしているというか、スケールが大きくて、
通常の、例えば恋愛などに関しての曲は少なかった訳ですが、
タケカワさんの初期のソロアルバムではそんな恋愛的要素を思いきりフィーチャーしていて、
ゴダイゴ解散後、出したアルバムのタイトルはそのままずばりの「I LOVE YOU」だし、
ストレートな恋やそれにまつわる出来事なども描かれた作品が多く驚愕しました。
順を追って聴いていくと、恋に始まり、家族ができて、子供が増え、
その子供たちを励ますやさしい歌へと変化していったように思います。

私はそれが、彼が模索した中で完成した音楽のテーマなのかな、と思っていたのですが、
それを拒否する人が多くて辟易してしまって。もちろん感想は人それぞれではあるけれど、
「アーティスト」自身が取り組んでいる音楽的要素を否定されると、どこか私の本能が痛むのですよ。
そのうち、盛り上がっていた彼の体型やら声の変換について話すのが疲れてきてしまった。
そんな話はどうでもいい、と。

嫌なら見るな、とは簡単に言うけれど人間て、話をしてみないとわからないじゃないですか。
それまで仲良く話していた人が実は考え方の全く違う人だった、ということだってある。
その考え方の違う人を否定するほど私は偉くもないし、権利もない。それこそ人それぞれ。
元々考え込むタイプの人間なので段々悩みが深刻化してきてしまい、
そのアカウントもそろそろ潮時かなと思い始めました。
そして、一昨年9月くらいからライブの計画を建て、
実現したあとに報告してアカウントをやめようと考え、実行しました。

削除一日前はひとりでお祭をやっているかのごとくたくさんつぶやきました。
もっと本音を書いても良かったかな、と思うくらい。
私の考え方の譲れない部分として、
「完成されたものへの否定」というものがあります。たらればですとか。
そこを侵害されるとやはりその中にはいたくないな、と思うのです。
何かのファンになる。それは何でもいいのですが彼らの仕事内容に関しては、
素人であるファンが口出しをしてはいけない領域だと思うのです。
ファンが支えているからアーティストが活動できるのではなく、
アーティストが続けてくれるからファンは応援できるのです。
そこを履き違えたくないといつも思うのです。

どうしても夢中になったものの専門の話になっていくと、
狭量な世界になってしまうのだなとアカウントを作って実感しました。
要するに濃厚すぎた。説教のように知識を教えられるのも面倒だった(すまん)
そして、ちょうど四季もひとまわりして区切りが良いところで終わらせることができました。
けれどそれじゃあ印象が悪いのかと言うと、そんなことはなく、
とても勉強になったな、と思っています。
風通しの良い空間をどれほど自分が切望していたか思い知らされた。
アーティスト自身を嫌いになることはないけれど、もう深入りはしない。
そう決意させてくれた別アカウント体験でした。
と、まあこう書くと皮肉じゃないけど皮肉に聞こえるな(笑)

それと正直に書くと、
元々、私が大好きな大澤誉志幸さんとゴダイゴって逆の立ち位置にいるようですよね。
大澤さんはもう見える範囲では「気楽に行こうぜー。ゴーゴー」てな感じですが、
本来はめちゃくちゃ情熱的なアーティストで勉強家。でもその部分を見せない。
悲しみを悲しみで表現しないとか、逆説的な作品もたくさんある。
私はそういう思考の影響も多分に受けているし、大澤さんのような人を知るからこそ、
アーティストが持つ複雑さは到底素人にはわからないと思うのです。
作品という形になってやっとそれは姿を現すものだと思います。
そこを批評家気取りしてみたってもう作った本人は先を見ています。
だからこそ、尊重がまずありきでなくては。

でもそれとは違って、精一杯愛したな、とも実感しているのです。
どこか言い過ぎのひとに対して冗談を交えて否定を試みて、話題を変えたり、
とにかく会話に頭を使いました。ここまで愛せたらもう思い残すことはない。
今でもそのアカウントから交流のある方はおりますが、
皆さん、風通しの良い考え方の持ち主です。
こうしてできた縁は大事にしていきたいと思います。

※ ※ ※

そんなわけで、普段どおり、また本と献立と猫、好きな意見をリツイートするという、
本来の地味な幸坂かゆりアカウントひとつに統一したわけですが(笑)
なんだか以前にも増してとても楽になりました。
社会不安というものを抱えている中で、私よくやったなと思います。
おかげさまで関わる楽しさを知り、以前からの友達と話すのも緊張より楽しさがあります。

そして、忘れていた感情をよみがえらせてくれた出来事もありましたが、
そこは物書きなので「懐かしい痛み」として、
しっかり感情を記憶して美化して利用させていただくとします(笑)
ご清聴、ありがとうございました!

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