First Kiss

幸坂かゆり Weblog

カテゴリ: Love Life

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お久しぶりです。
2月からまた随分時間を置いてしまいました。
ここ最近、普通に紙の日記帳にペンで書いています。
「マイブック」という新潮文庫から出ている、
本当に文庫本と同じ作りで、中身は日付けだけが印字してあって、
そこに文庫本と同じ形式で縦書きにつらつらと書いて1ページ。
毎日続けて12月31日になったら1冊完成する、というもの。

2002年にもこの日記をつけていて、
とても役立ったなあ、と思い返し、
2月の中旬辺りに購入して中途半端ですがそこから書いています。
ほぼ、スケジュール帳のように使っているので、
みみちゃん(愛猫)が通院した日のレシートや、
いただいた手紙やお菓子についていたシールなどを貼って、
ますます思い出を具体的な形にしていっております。
毎日1ページ、という量もまた続けやすいのだと思う。
どんなに遠慮なく書いているようでもSNSはいくらか気を使うので、
あけすけに書けるものがひとつでもあるのはいいものです(笑)

さて、そんな今日ですが、
お知らせは特にありません(笑)
あるにはあります。とびきり大きなお知らせが。
しかししばらくブログを書いていなかったので、
今日はとりあえず、PCで文字を書く練習ということで。
(小説とはまた違って緊張するのです)

令和元年末、まるで中世時代のように感染症が発生し、
現在、世界中を覆う勢いで蔓延し、連日報道されています。
ロックダウンなんて言葉も突然発表されましたが、
普段聞いたこともない単語なので時折忘れます。
「都市封鎖」という意味らしいですが、
日本はそこまでの意味ではなく「外出制限」と言うに留まっています。
漫画や映画の中でしか聞かなかったような、
パンデミックという状況に陥っており、死者も多数出ております。
発生した感染症(新型コロナウイルス)にはまだ治療薬がないため、
私たちが気をつけることは、ウイルスを体内に侵入させないように、
手洗いを念入りにして、急な用事以外はなるべく家にいて、
うつされないよう、またキャリアにならないようにすること。

私自身は普段から家のお仕事なので、
それほど困ることはないのですが、
それでも自らの意志で外出しないのと、
外出できない、というのは全く違うのでとても窮屈に感じます。
きっとたくさんの人がそう感じているでしょう。
世間ではマスクの他、なぜかトイレットペーパーが品切れになるなど、
昭和時代のオイルショックのような出来事が起きていて、
ドラッグストアには連日長蛇の列ができていました。
そのような職場で働く友達に聞いたところ、
品切れしたマスクを求める客によって、殺伐とした空気だったようです。
令和に起こった感染症パニックは思ってもいないところで、
人間の浅はかさが思いがけず掘り起こされたように思います。
けれど落ち着かなければ。せっかく人間なのだから…。
今年開催予定だった東京五輪も延期になりました。
様々なイベントも中止です。

それでも生きていかなければ。私にはみみちゃんがいる。
今も彼女は隣でまあるくなって眠っています。
現在の発表ではペットに感染しない、とのことなので、
何となくそこだけは安堵していますが、どうなるか判らないのも事実。
どうかこのまま収束に向かってくれれば、と願うばかりです。
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心を落ち着けるには、
みみちゃんと一緒に飲む一杯のコーヒー。

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それは記憶もおぼろげな幼少時代。
元々、左ききだった私ですが、直されてから絵を描くようになった。

それからは絵を描くことが大好きになり、
ちょっとした「隙間」を見つけるとどこにでも絵を描いた。
紙の上以外でも、チラシの裏、ダンボール、シールの余白、壁、アスファルトの上、鉛筆で、チョークで、十勝石で、軽石で、土で。

それを見ていた、当時パルプ工場に勤務していた父が、
本来なら処分される、何にも書かれていない紙を大量に持ってきてくれた。
何の見本もなく描いた人物の顔は長四角だった。
幼稚園になる頃には、とにかく気に入ったものを模写し続けた。

ある日、父が紙をまとめてホチキスで綴じ、本の形態を作ってくれてから、
鉛筆でコマ割ををし、セリフを書き入れるということができるようになり、
「ベタ」と呼ばれる背景の黒い部分も鉛筆で塗りつぶし、自分だけの本を作った。

ただ、私が幼い頃はどんな大人も、漫画というとすぐに否定された時代だった。
そんな中で、唯一否定せず、絵を自由に描く場を提供してくれて、
何も見ていない振りをしながら、実は一番評価して見てくれていた父。
色んなことがあり、今はどうしているのか判らないけれど、
その部分だけは本当に感謝してやまない。

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上の文章は私がウェブサイトを開設した当時「指先のプロフィール」と称して載せていた。
今は雰囲気を替えた仕様にしたので、省いてしまったけれど文章は手許にある。

なぜいきなりこの文章を出したか。
この間、Twitterにてふとしたこと、本当にふとした出来事から、先に書いた小学生時代読みふけっていた漫画家さんのお名前をお見かけしたからだ。

小林博美先生。大好きな「夜の雪がやさしい」という漫画。
いくつか年上のいとこのお姉さんからもらった雑誌に載っていて釘付けになった作品です。繊細な線、ただ大きいだけではない深さのある瞳、躍動感、情熱、そして美。そのすべてを備えた宝物のような漫画。引越しの多い幼少時代、どんな時も雑誌からその漫画だけ切り取り持っていたけれど、とうとうどこかで失くしてしまった。その後、成長し、パソコンを購入してからも覚束ない指で検索をしたが、その雑誌自体が高値になっており手が出なかった。何よりネットでお買い物をしたことがなくて、戸惑っているうちにそのサイトが消えてしまっていた。

もういちど読みたい。
心から思っていたその漫画が、なんと直接先生の下に届き、その後、DM(Twitter機能のひとつ、ダイレクトメッセージ)にてお話させていただき、なんと、コミックスに収録されていた(知らなかった!)その「夜の雪がやさしい」を送ってくださったのです!

おそるおそる、傷つけないよう袋を丁寧に開封し、懐かしい絵を目にする。ああ、亜子ちゃんだ、嶺(れい)だ、と最初は本当にただただ絵を追った。深呼吸をし、心を落ち着かせ、改めて読んでみた。

あらすじ:主人公の亜子は元気一杯の16歳だけれど、実はよくできた姉妹と比較され、孤独感を味わっていた。そこへ隣に人が越してくる。しかしその隣の庭にある特殊な生え方をした木は亜子のただひとつの居場所だったことから、そこにいても良いか許可を取りに行き、その隣人、髪の長い26歳の美しい男性、嶺と少しずつ言葉を交わし、心を打ち溶け合って行く。彼もまた孤独な悩みを抱えていた。とあるきっかけで亜子がどれほど普段感情を抑えて来たのか、木の隠れ家がどれほど亜子の感情を包み込んでくれたのかを知る。嶺は更に亜子をいとおしく思うようになる。けれど無常にも亜子の両親は亜子自身を認めてくれず、絶望した亜子は家を飛び出す。後で誤解だと知った亜子の家族と共に事情を知った嶺は亜子を探す。木の隠れ家に亜子はいなかった。それ以外なら一体どこに…。嶺はいちど二人で行った海を思い出す。亜子は海の中にその体を沈めようとしていた…。

私は当時いくつだったろう。
小学生か、中学生になったばかりだったか。不登校をしていて毎日何も解決しない日々、ただ学校へ行け、と怒鳴る両親。優秀な姉。私自身、なぜ不登校になったのか当時は理由が判らなかった。いつも昼間は居場所がなかった。けれど、心細い昼間とは反対にひとりきりの深夜は安心した。夜は私に優しかった。この本の亜子ちゃんほどきちんと言葉で伝えることはできなかったけれど、この本のラストのように何とか私の問題は解決した。そして今の私がいる。今でもつい先ほどのことのようにあの頃の感情が蘇る。私はこの本を読むことで自分で自分をセラピーしていたのだ。それがあの時、あの日々の中での存在だったのだろう。

読んでいて何度も涙を堪えた。当時は身近過ぎたため、そこまで感情的になることはなかった。まあ、年のせいもあるだろう(笑)今は、嶺のように亜子を抱きしめたいと思う。今の私は嶺の悩みや淋しさの方がどちらかと言うと身近だったりする。頭脳は別として。それから余談ではあるが当時、鳥を飼っていたこともあり、亜子のインコが(自粛)という場面は鳥たちの存在を思い出して号泣してしまった。あんな目に遭ったら…立ち直れない。きっとあの当時だったら猫ガッデム!と感じていたことだろう。

…逸れました。
この漫画は今後絶対に離すことなく、私の宝物として、同時に少しでも感謝の気持ちを忘れた時の戒めとして時折読み返し、きちんと保存しようと思います。いえ、思いますではなく保存します。

もちろんこの漫画のラストは嶺が助けてくれて、家族とも和解します。しかし亜子は性格がとても優しくいい子だ。裏表のない純粋性と包容力がある。だからこそ嶺も大切にしたいと思ったのだろうし、そこがこの物語の魅力のひとつでもある。今考えてみるとその上での素直さというのはギフトだと思う。こんなふうに書くと本当に私自身、年齢を重ねたんだな、とつくづく思います。もうとっくに亜子や嶺の年齢も越えてしまったけれど、この物語を通してセラピーした日々は大事な記憶です。私という人間を構成してくれたひとつでもあると思っています。貴重なご縁で、こうして再び出逢えたことに大きなしあわせを感じています。今いちど、心から感謝の言葉を捧げます。小林博美先生、どうもありがとうございます。

大切にする!心から!(ハグ)

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 Happy Birthday. My pretty baby!

5月1日、元号が変わり令和を迎えました。
さてその次の日もまた幸坂にとっては記念すべき日でございます。
かわいい愛猫、みみちゃんの22回目のお誕生日です!
すごいよ!平成と令和をまたにかけてるよ!
上画像は平成最後に撮ったみみちゃん。
下画像が最新!令和元年を迎えたみみちゃん。
心なしか、おねむのようです。
いつもまんまるな瞳できょとんとしたお顔がキュートなみみちゃん。

現在、色々と悪いところも出て来て病院通いなどはしておりますが、
よく遊び、食べて、眠って、たまにべんぴちゃんになるけれど、
そこは飼い主がマッサージなどをして解消させ、元気に暮らしております。
最近はツイッターにて毎日服薬させる錠剤をのませる様子を必ずつぶやいておりますが、
これには自分なりにどこまで続くかわからないルールがあって、
「みみちゃん」(基本)をいかに違ったニックネームで呼ぶか、と言う、
何気なくハードルの高いことを自分に課して続けております。
みみちゃんは毎日嫌がりながらもきちんとのんでくれて、
その後は何も根に持つこともせず、じっとかわいい瞳で見つめてくれたり、
遊んで、と言って来たりします。
あなたがなるべく元気で、この先も快適に過ごしてくれたらとても嬉しい。
あなたがいてくれて気持ち良さそうにあくびをしているところを見るのがしあわせ。

心から誕生日おめでとう。
また私からは炎の連続ハグになる一日です。

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かわいこちゃん、今宵のおやつは大好きなホタテ味のちゅ~るにしようね。

猫アンソロジーバナー
新元号が決まりましたね。

「令和」

しなやかで強そうなかっこいい元号だな、という印象です。何もわからないけれど希望を感じられるという心持ちがとても心身に良い影響を与える気がします。

さて、話をいきなり自分に寄せますが、
3月1日に発行した新刊「君と僕の記憶のすべて」から、はや1か月経ちます。
時が過ぎるのが最近本当に早く感じます。そこから3月31日に、
こっそり表紙デザインと内容を変更し、BCCKSさんから紙の書籍の販売も行いました。
もちろんこれからも無料で読むことはできます。
ただ単に著者が紙と言うもので手にしたかった、というのが理由です。
そんな訳で紙の方は売り上げ0ですが閲覧して下さった方が60人もいらっしゃって、
EPUBも13冊ダウンロードしていただいております。大変ありがたいことです。
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右が最初に発行した時の表紙
左が31日にこっそり変更した表紙
(どうしても画像の大きさが揃わない…)

その後、以前参加させていただいていたサークルを離れ、
これからどうしようかと考えていたところ、
ツイッターにて来年の文学フリマに発表する予定だと言う小説を募集しているのを見つけました。
しかもその内容は「猫アンソロジー」!
「手のひらに猫を乗せるしあわせ」とキャッチコピーがついていました。
冒頭の可愛らしい画像が「猫アンソロジー」のバナーでございます。

そちらを笹波ことみさん(@kxtxmi )が主宰で 書き手さんを募集しており、
締切日に知ったのでギリギリのダメ元で応募しました。何とか間に合い、
そこから応募要領の条件を満たした方を選別し、当落が決まる、とのことでした。

それから数日後、メッセージが届き、幸坂、当選いたしました。
私は黒猫が出演する物語を担当することになりました。締め切りは9月22日、
何としてでも傑作を書きたいと思います。がんばれ私。
まずは一ヶ月間、猫の書籍群を読み、そこからテーマを決めて書き始めようと思います。
アイディアはいつも書き留めておけるようにメモを持ち歩いております。


先月は悪夢のような鬱状態に悩まされて何もできない状態でしたが、
カウンセリングの場で思い切り感情を出せたことが良い方向に向かったようで、
もちろんまだ気は抜けないけれど、それでもふつふつと元気は復活しています。
これから春もやって来るし、私のスピードを保つことを忘れず、色々行動できたらと思っています。
あ、それからもうひとつ発表したいことがあるのですが、それはまだ少し時間がかかるので、
完成次第、ブログにて報告します。久しぶりにブログを書くと、まあ長くなりますわ(笑)

ではまた近い内に!

最近、自分がぶれにぶれてしまって片言で生きているようだ。
何に対しても自分の反応が薄い。影が薄い。夢の中に片足を突っ込んで日常を暮らしているようだ。覇気がないとも言う。焦っているようでぼんやりしている。思考が分断される。集中力がおかしな方向に向く。…などと、今考えつく限りの寝言を言ってみた。いや、実際困っている。次に何をしたらいいのか、よくわからなくなっている。


上の記述までが下書きに残っていた文章。2019年3月8日になっている。
この後も先の状態は続き、充分な栄養と睡眠を摂ってネットからも離れていれば落ち着くだろう、と考えていたがもうその段階を過ぎてしまっていた。夕食の支度をしていても順番がわからなくなる。買い物に行っても何を買っていいのか決められない。意味もなく淋しい。どう考えてもこれは10年ほど前に罹ったうつの状態だ。うつはただふさぎ込むのが症状ではなく感情が見えなくなり、一見周りからすれば落ち着いて見えるのでわかりにくいのだ。実際本人はただただ焦燥感で考えることすら困難になっているのだけど。そんな訳で、かかりつけである病院に相談し、カウンセリングを受けることにした。

自分が何を悩んでいたのかは既に混乱してわからなくなっていた。
ただ精神心理士さんとは初めて顔を合わすのでまずは話すことをなるべく考えておかねば、と動かない頭で思いついた時にメモするようにしていた。しかし何せ、考えることができないので4行くらいしか書けなかったのだけれど。

そして19日、カウンセリングの日が来た。結果から言うと、号泣しました。
感情が決壊したかのように。カウンセラーの方は何を言う訳でもなく、まだよくわからない患者と向かい合い、ここ2週間くらいのことを教えてください、と何とか言葉を引き出そうとしてくれた。私も前日までは何らかの言葉を返せると思っていた。それなのに驚くほどまったく整った言葉が出て来ない。自分でも何を言っているのかわからない。ただ焦った。こんなに話すのが困難になるなんて経験がないので余計に慌て、口惜しさも手伝った挙句、涙が溢れ、止めようがなかった。

きっと私が話した言葉は途切れ途切れで何を言っているのか聴き取れなかったのではと思う。
けれどカウンセラーさんに否定もされず聴いてもらったことと、泣ける状態にまで感情が戻ったこともあり、帰宅後、私の心にはほんの少し余裕ができた。とは言え、その心の余裕は帰宅後に気づいたことなので、しばらくはカウンセリングを続けてみましょう、という話に落ち着いた。1ヶ月に1度、時間も30分、午前中、と決まっている。その方がきっと良いと思う。

ちなみに、今回の不調の原因のひとつに医師の言葉がある。
何とか保っていた昨年から次から次へと起こっていたダメージを、具体的にではなく最終的な報告と言う感じで医師に「色々あってこんなふうに思っていました」と話し、ひとことふたこと言葉をいただき、お薬の処方をしてもらえれば充分のはずだった。だからこそ診察してもらった「とある日」の医師の言葉は信じ難くて認めたくなかった。医師は話を進めようとする私に「他にもまだ患者さんがいるから」と言って遮った。違和感があった。それでも意地で話をした。最終的に「ねえ、こんなにがんばっているのにね」という言葉ももらった。だから医師のせいではなく、人間誰しも色んな心理状態があるものだと思い込もうとした。私は医師を悪く思いたくなかった。そうして押さえつけていたことで不安と行き場のないストレスが増して行った。多分、その言葉の後に話した私の言葉は受け流されていたと思う。患者、という役に私は入っていないのだと否定されたようだった。それでは私は何なのだろう。ただ精神科の待合室をサロン代わりにするような一部の人々と私は変わらないのだろうか。そんなふうに思われるのは嫌だった。

そして、そのまま我慢を重ねた結果が最悪の調子の悪さに凝縮された。
あまりにも普段の生活に支障をきたしていたため、発達障害の検査もしてもらった。結果はただの私の特性だった。では何故こんなにも毎日が大変なのだ、と考えた末に行き着いたのが医師の言葉だった。もちろん医師だけのせいではなく、それまでに積み重なったストレスがあった。しかし最後の砦、いわばオッケーという印鑑を押して終われる時に捺印を拒否された感じがした。あ、何だか今も語彙がおかしいな。まだまだ無理をしてはいけない段階なのだ。いかん。とにかく何もかもが怖くて外にも出られない、家でも落ち着かない、朝も昼も夜も義父の食事の支度をしなければならない。食材が尽きれば自分が調達しなければならない。誰も行ってくれない。これが死ぬまで続くのだろうか。重荷だった。そんな最悪な思考のループの日々にとりあえず一端タイムがかかった。私には友達もいるし姉もいるが、こういう悩みは専門家に話さなければと思っていたことでカウンセラーさんを紹介してもらうところまで進めることができた。医師がだめでもどこかに道はあるはずだと思い続けたことは正解だったと思う。でなければこんな長文も書けなかっただろう。いや本当に長いな(笑)

私は今年50歳になる。今ある悩みをうやむやにしたら、誰からも相手にされなくなるような怖さがある。差別的な見方だろうか。けれど周りの高齢になる精神的な病を抱える人を見ていると、年齢からか少し図々しくなり医師とツーカーの仲のような関係だと言わんばかりに話すのでそう感じてしまう。だから怖いのを隠していた。でもまずは落ち着いて座れる椅子を見つけたという段階だと思う。とりあえずはその椅子に座り、ゆっくりお茶でも飲んで一呼吸置いてみようと思う。まだ私はこうして分析する力がある。大丈夫だと思いたい。

ashi
昨年の私は「散々」と「しがらみ」いう言葉を筆文字で書き、
藁人形に打ち付けたいような年でした。

しかし今年は何故だか大晦日からわくわくする感覚が沸いて来て、
まだ見ぬ2019年がとても楽しみに思えたのが驚きでした。
別段何をした訳でもない。そこで思う。

年が変わるというのはただ日付をまたぎ、今日から明日になるだけではないのだと。
確実に何か目に見えないものがしっかり息づいているのだと思うのです。
もちろん、だからと言って今年に入り、
いきなり悩みごとの元が断たれる訳ではなく、未だ継続しているモノもある。
けれど突如芽生えたその「わくわく」という気持ちひとつで物事の捉え方に変化ができ、
少しずつと言うよりは強引な形で幸せへと進んでいます。
昨年失くしたものがあった分、心の器には他のものを受け入れられる余裕もできました。

それがとても神秘的に感じたので神社だけは参拝に行かなければと思い、
初詣に出かけ、今回もしっかり勢い良くお賽銭をバーン!と投げ、
神様に昨年の感謝とお祈りをしましたが、今年は少し図太く言わせてもらった。

「私は精一杯がんばる。だから神様、困った時には助けを求めるから救え」

そのように伝えた。もちろん意訳だ。
そこまで神様に啖呵を切ったのだから、
私は今年、そして来年再来年と、1年だけではなく自分自身をきちんと見つめ、
自分以外の人間が抱える問題を自分と混同しないことに気をつけ、
幸せを目標にしようと本気で思う。
私自身を大切にする。
そんな私という人間を、
自分を大切にしようとしてちいさな手を合わせる誰かを、
神よ、
どうか救いなさい。


◆ ◇ ◆

この文章は自分の過去ブログにも載せましたが、
最初は「She is」というサイトのエッセイの公募に向けて書いたものでした。
そのときのテーマは「ハロー、運命」ぴったりだ!と膝を打つほどだった、が、あいにく掲載にはなりませんでした(笑)それでもこの時に感じたこの心の動きを3月に入った今も大事にしております。ちなみに上の画像は私の足元と凍る玄関前です。

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今年初めての更新になります。
もう1月中旬に入ろうとしていますが、新年明けましておめでとうございます。そして寒中見舞い申し上げます。今年も11日と日付は遡るのですが北見神社に参拝に行って参りました。おみくじは昨年同様「末吉」でしたが、何となく書かれていることに希望を感じたので結ばず、そのまま持ち帰って来ました。

1月早々反省の弁なのですが、わたくし、本気で年賀状の存在を忘れておりました。
友人知人に何枚かいただき、それではっとした次第です。申し訳ありません…。という訳でブログの方で新年の挨拶と代えさせていただきます。毎回毎回本当に平謝りでございます。いただいた年賀状は大事に保管させていただいております。はい。

昨年は「散々」という言葉がぴったりの年でしたが、今年は大晦日からわくわくする感覚が沸いて来てまだ見ぬ2019年がとても楽しみに思えたのが驚きであり、嬉しくもありました。確実に年が変わるのは日付けをまたぐだけではないんだ、という何か目に見えないものがしっかり息づいているようでした。そこまで神秘的に感じたので神社だけは参拝に行かなければと思い、今回もしっかりお賽銭をバーン!と投げ、神様に昨年の感謝とお祈りをしました。今年は少し図太く「私は精一杯がんばる。だから神様、困った時には助けを求めるから頼んだ」(意訳です)と伝えました。私の座右の銘でもある聖書からの言葉「求めよ、さらば与えられん」を意訳で伝えた訳です。

色々なことに悩まされた昨年。今年になっていきなり悩みごとの元が断たれる訳ではなく未だ継続しているものもありますが気持ちの捉え方で解決策が見えたりして、少しずつ、と言うよりは強引な形で光の見える方へと進んでいます。昨年失くしたものがあった分、心の器には他のものが入れるよう余裕ができました。そこに私は今年、そして今年から来年再来年と、1年だけではなく自分を大切にし、きちんと見つめ、自分以外の人間が抱える問題を自分と混同しないことを目標にしたいと思います。

もちろん、大変な人を放っておくということではなくその人の問題をその人自身に帰依させる、というのを自分の中に持ちたいのです。そうでなければ私まで惑わされてしまう。今までがそうであったから私はおろおろし続け、結果的に自分の意見も出せないまま終わることが多かった。うまく行かせるかは場数を踏まないとわからない。だから積極的に色々なやりたいと思うことには関わって行こうと思います。おみくじ裏面の「神の教」が印象に残ったので書き出しておきます。
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「神の教」

なさけこもったその一言に死んだ心も生き返る
優しい一言がどれほど先方の胸に暖かい光を与え、力を添えるか。言葉には魂があり、
力がある。常に神様と御一体になって、暖かい心を養ない、良い言葉、優しい言葉で
人を慰め、人をいたわり、明るい世の中を作りましょう。とげある言葉は人をきずつける。

◆ ◇ ◆

写真は昨年のものです。今年はどんど焼きの日と重なって混んでいたため撮影を断念しました。北見神社は天照大神様を祀っております。

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さて、2018年振り返り記事です。
大晦日に突然重い話から始まりますが、必要だと思うので書きます。

私は子供の頃、家族と縁の薄い少女だった。家でも学校でも落ち着かず不登校になっていた私が誰よりも安心して身を寄せた音楽があった。それがタケカワユキヒデさんだ。彼は周知の通り、ご結婚もされたお子さんがたくさんいてお孫さんもひ孫さんもいらっしゃる。彼は家族というものを愛し、愛されている。昔から。そんな当たり前のように差し出される愛に溢れた作品を私は子守唄にして生きてきた。学校に行けなかった日は情けなくて仕方がなかったが真夜中に彼の歌をヘッドフォンで隠れて聴いた時間だけは自分を許してあげられる唯一のものだった。

時は移り、現在です。
2018年9月17日、平成30年、手稲神社秋季例大祭。私はその日を一生忘れないだろう。

昨夜書いたように5日深夜、胆振東部地震と名づけられた地震が起き、道内でも遠い道東地方ですら被害があった。その約2週間後の17日、タケカワユキヒデさんのソロライブが手稲神社で行われるのを友達が教えてくれた。札幌は本当に同じ道内でも北見との距離がかなりあるので、大概のライブなどはスルーしてしまう。同じ遠方に出向くのなら友達がいる東京や大阪に行った方がいいと思えるくらいだ。
そんなぼんやりした考えでいた時に地震と停電が起こった。しかも道内全域のブラックアウト。私はその時も灯りのつかない中で、ああ、これはもう手稲へは行けないな、と半ば諦めて道順なども調べるのをやめた。しかし手稲神社の公式サイトやFacebookなどで秋祭りの準備が進んでいると知った。ようやく私は往復バスの予約をし、色々と準備を進めた。決めてしまうと準備はあっという間に整った。しかし前日ベッドに入る前に思った。

何しに札幌に行くんだろう。

あまりにも淡々と物事を進めて明日に迫っているという日に思ったのはそんなことだった。心に感情が入っていなかった。眠れなかったがバスの中で眠ればいいだろう。でもそこまでしてどうして、と心に問いながらその日が来た。私ひとりだし仮にバスをキャンセルしてキャンセル料を取られるにしても自分が悪いのだから全額支払う気でいた。でもここまで来て行かないのも変だ。何だったら札幌に着いたら駅ビルでぶらぶらして好きなカフェもあるし、そこに行ってそのまま帰って来よう。そんなことも考えていた。

しかし、あれよあれよと言う間に時間が経ち、通常通りの電車に乗ると手稲神社に着いてしまった。ライブの始まる時間は19時45分だったが私が着いたのは17時だった。まだ時間があったが席は座ったもの順だったので空いてる席を確保したあと、動けなくなってしまった。通路が隣にある一番端の前から4~5番目の席でスピーカーのまん前。ライブ前のお稚児さんの舞や風雪太鼓を観た。そわそわしていたけれど芸術が大好きなので感激した。心にじわりと笑みが広がるようになってきた。

19時45分。タケカワユキヒデさんがステージに現れた。斜めからだと遮るものがなくてものすごく近い位置でよく見えた。彼が出て来た瞬間、やはり気持ちが高揚した。そして歌い始めると慣れ親しんだ声と人懐こい笑顔にこちらもつられる(眼鏡をかけたのでよく見えた)。今書きたいのはライブ内容のことではないので細かいことは省きます。今回は一人きりで感動も恥ずかしさも享受できたことが大事なことだった。誰かと分かち合うことも大事だけれど私は数年の間、肝心の私というものがおざなりになっていて他人の人生を生きているような錯覚に陥っていたので、私自身を喜ばせてあげたかったのだ。「一人で」他のお客さんたちと盛り上がる。私の人生を楽しむことを思い出す。それがきっと手稲神社に来た意味だったのだと思う。

ライブ後、サインと握手と軽くお話ができる機会があったにも関わらず私はお礼以外何も言葉にできなかった。そこだけがもどかしい。まだまだ自己肯定の低い私はうまく喋ることができなかった。上手いというのは芸人さんのようにというのではなく、自分の話したいことを相手に伝えられるかどうかだ。その時に必要なのは自分の感情と決意だ。自分ではない誰かばかり見ていたら一人になった時躓く。口から出る言葉が本当に自分の言いたいことなのか相手を気遣っている言葉なのかわからなくなってしまうのは自分をきちんと見てあげなかったからだ。今ならあの日言いたかったことがわかる。それは「こんな大変な時期に来て下さってありがとうございます」という感謝。それだけだ。いつかきちんと自分の言葉を話せる機会があるだろうか。だとしたらその時までに自己評価を通常まで引き上げておきたい。直接会えて、あなたの歌を聴けて良かった。本当に良かった。

帰りも迷子になりまくったけれど、結果的に色んな人に道を尋ね行きたい場所へと辿り着けた。そしてなぜあそこまで道に迷ったのか、それは札幌がまだ地震直後という状況だったので節電のため普段目印にしているものの照明が消えていたという理由もあった。帰りは夜行バスで5~6時間揺られた。夜なのでそこでも照明は消され、スマホも手書きもできなかったが私の心は感情に溢れてすぐにでも何かに書きたかった。この感情を書くまで死ねないとも思った(笑)明らかにこの日を境に私の中の何かが変化してきていた。もちろん感情に上下はあったがそれでも。一人きりになって充分自由に思考できることが重要で、そこで私は改めて自分を取り戻せたのだと思う。時折感情の波に押され、躓きながらも一度手に入れた大切な自由はこれから芽吹くことと思う。

そして今日は大晦日。
やっと心から微笑できるようになった。しがらみとの決別。仲違いしていた古い友達との仲直り。色んなことが私を前に進めて行く。今年、私が初詣で引いたおみくじは末吉だった。確かに1年として考えると散々だったと思うけどやはり散々さにも最後が訪れたようだ。もう来年はとっくに目標に突き進んでいるだろう。最後に、ライブの動画を上げている方がいらしたのでお借りします。

『ガンダーラ』
いきなり1曲目からでした。

『銀河鉄道999』
ラストの曲。ものすごく盛り上がりました!
 
今年の最後、この気持ちを来年は行動に移して行きたい。
長くなりました。今年は本当に厄年かと思うほどの1年でしたが大晦日にその呪縛から逃れそうです。もう全身で空気が変わるのを感じている。来年への課題もある。そこへひたすら向かうのみ。来年は良い年になりそう。長々とつき合わせてしまいました。皆様、来年もまたお会いしましょう。良いお年をお過ごし下さい。

さて、少しだけ今年のことを振り返りたいと思います。
何度でも言いますが今年は私にとって精神的に大変多忙な年でした。
その中でも日常を脅かす2018年9月6日胆振東部地震は非常に大きかった。地震は深夜でした。例によって宵っ張りの私は起きていて、それほど動揺はしなかったのですが直後に起きた停電が長引いたことが色濃く残っています。そして皮肉にもこれが私に様々なことを1から再始動させるきっかけとなった。もちろん電気が点かないのでPCも電池残量が気になるスマホも消した。その時はとにかく夜だったし、明るくなるまで待とうと義父と話し、怖がって私にくっついてきていた愛猫、みみちゃんとななちゃん(当時)が落ち着き、朝になるのを待ってから寝室に行った。

電池残量が気になってスマホを開くことをためらい、メモ帳を取り出し、気がつくとあれこれとその時の状況…と言うよりも自分の感情を書きなぐった。つい最近それが見つかったので読み返してみると案外忘れていることも多かった。そしてそのメモだけ見ていると最近人にも言われたがやはり私はどこか呑気なのだろうか、とも思った。書き出してみますね。

◆ ◆ ◆

※9月5日 深夜
ビールを飲んでゆったりしていたところ、いきなりの地震。突然の停電。ブレーカーを確認したらそれじゃない。窓を開けるとすべてが真っ暗だった。ああ地震はうちだけじゃないんだと思った。スマホでの確認は必要最低限に。何と全道全域だそう。不謹慎だけど漫画「ドラゴン・ヘッド」を思い出した。あれは電車が止まって真っ暗で地震ではないけれど動けない状況が続き、日が進むにつれ、食べ物も傷み出し、人の気配もまったくしなくなり…書いていて気が狂いそうになった。そして現実の話、冷蔵庫の中身。刺身が…牛乳が…。

※9月6日 午後15時15分
停電中だけど近所の子供達が元気に遊んでいて救われる…気温は30度になり、エアコンは使えないけど窓から風が入るので涼しい。自然な風は呼吸をさせてくれる。滑らかで流れの決まりごとの一切ない気ままな風。ありがたい。

※9月6日 午後15時45分
砂川市は電気が復旧した様子。ガスと水道は使えるので今日はこのままカップラーメンだな。ツナ缶に穴を開けてロウソク代わりに、という知恵もあったがうちは猫たちが騒ぐので却下。

※9月6日(時間記入なし)
陽が暮れてきた。懐中電灯の電池もばっちり。けれどそわそわと時が空く。そんな時手に取って落ち着くのが写真集だった。特にかわいい動物の本はホッとする。みみは割と落ち着いて周りを観察しているのだけど、ななは敏感なので体のほとんどを私にぴったりと預けたままでいる。大分外は気温が下がってきた。

※同、17時~
近所のコンビニ(徒歩2~3分)は閉店。電池等売り切れ。

※同、18時~
懐中電灯の明かりだけで書くと不思議だ。自分が羽ペンなどを使用していた時代の人になったように感じる。外はどこも暗い。時折ふくろうのような声が聞こえてくるほど静寂。

※同、19時~
ほくでんの車が通る。「今日中に復旧の目処が立ちません。」だけ聞こえた。避難所も用意されている。私は家にいる。ここまで暗くなるとジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」を思い出す。あれは計画停電で男女の物語だったけれど。

※同、20時~
窓を見ると星が非常に鮮やかだったので懐中電灯を持って外に行くと満天の星空!幼い頃に見たままの星の姿だ。星にも命があるけれど風景は変わらない。人間の作る電飾が増えて見えなくなっていただけだ。星はいつも静かにそこに「在る」。

※同、20時半~
何とか冷えを保っていたビールを飲む(笑)もちろん深酒は禁物。
それでも思う。夜は、眠るか、お喋りするか、愛する時間。

◆ ◆ ◆

メモはここで途切れていて、私もさすがにこの日は早々に寝たのだろう。結果的に停電は2日間で済み、私の住む道東地方の被害は少なかったが母のいる施設は断水までしたというのだから深刻だ。なんでもなくて良かった。義父はテレビっ子なのでテレビも音楽も何もない2日間は叱られた子供のようにしょげてしまって気を使った。実はそれが一番疲れた。電気が復旧してつけたテレビからは被害が酷い地域の画面が映し出され、3月11日の震災を思い出し、具合が悪くなった。あまり見続けてはいけないと思った。私は妙に共感性が強く人より疲労を感じやすい。

この日から約2週間後、私は札幌に行こうと計画を建てていたのだけど、この状態じゃ行けないだろうか、それより目的であるイベントそのものが中止になるんじゃないか、と思い、頭が真っ白になった。2018年は運気がめちゃくちゃだったので諦観する気持ちもどこかにあった。
あれから3ヶ月経ち、最後の避難所も閉じ、住民の皆さんは帰宅したり、仮設住宅に移った。北海道は元気にやり直そうとしている。仕事をしている人のはきはきとした声にとても救われたのを思い出す。彼らは仕事だから率先して客を導く立場にいるが当然彼ら自身も被災していて、停電の時は家に帰ったら電気のつかない心細さは一緒なのだ。なのに勝手なことを言う人間がいる。思慮の足りなさが一番恐ろしいと思った。

そして、私は先ほど書いた札幌のイベントを迷っている最中でした。なんてことだ。大晦日なのに書ききれないぞ(笑)また明日改めて。

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昨年、私はごく普通に人を好きになった。
ただその人はネット越しで会ったことがなかったから、好意を持っていた、というのが妥当だろう。最初は仲間内のTwitterのDMで少数グループを作り、わいわい好きなアーティストのお喋りをしていた。筈だった。そのうち、仲間から離れてふたりだけでDMをするようになった。とても楽しくて久しぶりにわくわくする毎日だった。ひとつ気がかりなことがあったのを除けば。

私は早々にその人に好きだと言ったが、その人はあらかじめ、恋はできない、と私に返事をした。私も、それでいいよ、ただ好きだと言いたかったのだと告げた。DMでのやり取りだけの友達がいたっていいじゃないと思っていた。その人は自分のことをほとんど話さなかったけれど、同い年だとは言った。私はそれを丸ごと信じて話を続けた。こうして7ヶ月毎日DMをしていた。なぜDMか。メールは危険だからだめ、スマホを持っていないからLINEはできない、と断られたから。スマホを持っていないことについても疑うことなんて微塵もなかった。ガラケーが使いやすいという人は私の周りにもいるからだ。クリスマスも互いにDMで「メリークリスマス!」と言い合い、年末も年明けの挨拶も、愛猫が亡くなった時も慰めてくれた。とても救われた部分だ。

しかし先に書いた気がかりとは、彼が微妙にマウントを取ろうとしている部分だった。
わざと私の特徴を挙げてそういう人が嫌いだと言ってみたり、嫌いじゃないと言ってみたり。最後の方は私がTwitterに書いた言葉を否定された。もちろん、恋はできないと言っていた彼のことを恋に似た気持ちとしてツイートしてしまったのはいけなかった。でもいや待てよ、と。誰が私たちの関係を知ってるの?と。そんな誰が誰に言っているのかわからない広いTwitterの中のちいさなつぶやきひとつを拾って、やめてください、と遮られた。そこでもう一度だけ、好きになれないのか確認したところ、文字で注意された。つーか怒鳴られた。「!」マーク付きで。男の人に怒鳴られるのは苦手だ。ものすごく怖いから。それに理不尽さも感じた。どうして好きだと言う気持ちをやめろと言われなくちゃいけない?人の心を支配なんてできないのに。そこでもうだめだと思った。その人のことは相変わらず好きだった。けれど自分の経験が、もうこの付き合いはやめなさいと忠告してきたのだ。そこは実際に会わなくて良かったと思う。ひとりで考えて答を出せたから。

もしも私がまだ10代だったら、きっと彼が一言でも、きつい言葉をかけてごめんね、なんて言ってきたら、ほだされて許してずるずるしていただろう。そしてマウントを取られ続ける演技をして疲れ果ててどちらにしてもだめになっていただろう。私が彼に「あなたの言葉はモラハラです」と言った時、私はスマホ越しに泣けてきた。決定的な決別の言葉になるとわかっていたからだ。どれだけ相手に惹かれていてもマウントされる存在になるのは嫌だったから。49歳になるまで職場で数々のモラハラ、パワハラ、セクハラなどに遭ってきた。そのせいで心の均衡まで崩した。けれど今はそれが非難される時代だし、そのことに私も賛同している。現に私はそんなに気軽に扱われていい人間じゃない。そもそもそんなことされていい人間なんて男女問わずいない。だからこれからの私のために最後の言葉を言った。彼は多分、言葉の丁寧さとは裏腹に非常に憤っていたと思う。乱暴に自分のアカウントを削除してしまった。ただその時も「責任を取るために辞めます」と言ってきたので「自分が辞めると決めたんだから人のせいにしないで」と言った。

心臓が痛くて死ぬかと思った。…もうね。三半規管も弱まってるし、この年になると恋愛って生死に関わると思うんですよ。今だからこうして少し笑えるけどその時は泣きながらだったし、相手がTwitterという唯一の繋がりから消えてしまった時、相手が死んだみたいに悲しくて空しかった。その後、それからは現実の人間たちの中でネット恋愛について話してみた。詳細ではなくてそういうやり取りから始まる恋に対してのこと。要約すると。

・あなたはそんなのに引っかかるとは思っていなかった。
・詐欺に遭うよ。
・どうせネットでしょ。
・現実で結婚相手を探したら。

多分すべて正論だ。でもね。そんなことすべてわかってるの。
失恋と呼んで差し支えなければ、それは初めてじゃない。けれどその痛みはわかってる。一度心から懸命に関わろうとしていた関係を失うのは体が引きちぎられるような辛さがある。詐欺に遭うというのだってネットだから相手が見えないことだって、言われなくても私本人が一番わかってることだ。だから口惜しくて悲しくて仕方なかったのだ。そして胸だって痛いままだった。みんなそこを放置してああしろこうしろ、とうるさかった。傷をほっとかないでよ。膿んで血が出てる人を前に正論を言ったって止血になんてならない。更にムカついたのは既婚者で友達だと思ってた男から「ショックだ」と言われ、慰めてくれるどころか、聴いてもいないのに、ま、俺にはもう大事な人はいるしね、と真正面から止めを刺された。もうほんと、みんな私を殺す気だったのか…。ちなみに上の正論でひとつ当てはまらないのは、私は別に結婚相手を探していた訳じゃないというところだ。

私は好きだったその彼を詮索などはしなかった。あれ?と思うような人から鍵付きアカウントでフォローされたりしたこともあったけど放っておいたし、おすすめユーザーに明らかに彼とわかる人がいても見に行かなかった。それはYouTubeなどでもそうだった。私の動画にコメントを入れてくれた人に対して又しても、おや?と思うことはあったが(事実彼だったのは後でわかった)やはり見に行かなかった。ただね、こちらがどれだけ見ないように心がけていても私以外の人もこの世の中にいるのだよ…。何となく知ってるかな、と思い知人に「もしかしてこの人って…」と話したところ、どうも知らなかったのは私だけだったようで、今までの疑問が繋がっていたと知った時は唖然とした。

彼は同い年でもなかったしスマホも持っていた。
新しいTwitterアカウントも知ってしまった。彼の新たなアカウントは今までの彼と同じ人なのか戸惑うくらい違っていた。そっちが本当の姿だったのだろう。私は思わず「あの人とこの人が同一人物だったとは…」と言う類の、誰のことを言っているのかわからないような言葉をつぶやいて、仮に彼の言葉がTLで流れて来たら嫌なのでミュートをしにもう一度彼のアカウントを見に行くと既にブロックされており、見られなくなっていた。私が見たのは「池沼(知的障害の略で知と障を合わせ、漢字を変えたネットスラング)の中年女性に粘着されたから」アカウントを変えた、という部分だけだ。知人もその人の本当の年齢などを知り、そっとしてあげたいという気持ちから私が気づくまで一切教えなかった。けれどその言葉遣いを目にしてからはそういった擁護の気持ちを失くしたそうだ。その時の知人の心遣いにとても感謝している。こんなふうに本当の大人は人を傷つけないものだ。

それから、私に放ったモラハラのような言葉はとある物語、と言うことにしておこうか。すべてはそれらに出てくる台詞だったのだ。そして私と毎日やり取りしていた期間の内、同い年の人たちと砕けた言葉でやり取りをしていたらしい。最後の数ヶ月が被っているからもしかしたらバカにされていたのかもしれない。それは既にもうわからないし知ろうとも思わないけど。途中、本当に立ち直りかけたのに後から後から出てくる彼の虚像だったものに私は縛られて、再び落ち込んだ。その時もどうしたら良いのかわからなくなった。

そんな時に起こった胆振東部地震。しかもブラックアウトで全道停電。
私の住む場所での停電は2日で何とか済み、被害も少なかった。だから言えることだけど電気が使えずネットから完全に隔絶できたのは私には安定剤のような役割をもたらしてくれた。ただこれは本当に被害が最低限で済んだから言えることで未だ仮設住宅どころか、避難所暮らしの方もいます。ここは個人の話ということで心に納めてください。

ちなみに彼が言った「知的障害」という部分ですが私は彼にその話をしたことはない。
しかし私は現在、病院通いをしている障害持ちだ。治るものではないからうまくつき合うために最低限の薬物治療と医師との会話により現状維持を保っている。そしてその細かい話はごく僅かな人しか知らない。これも他者にとっては秘密になるだろう。隠しておきたいことは誰にでもある。おそらくは彼の身近にそういう障害の人がいないのだろう。だから気楽にそんな言葉を吐けるのだ。しかしそんな私が今、自分でどうにかしたいのは「紳士的だった彼」の幽霊のようなもの。あの幻影にうなされていることだ。ただこれも時間の問題でうなされている悪夢ならいつかは醒める。その醒めるまでの時間は何とか平和にしていきたいと願っているのだ。多分私の希望はそれだけなのだ。だからどうかもう私を責めないで。正論で私を殴った人たち、あなたたちは大切な友達がオレオレ詐欺や結婚詐欺に引っかかったとしたら、まず誰が悪いと思う?
私が苦しんでいるのはそこなのです。

◆ ◇ ◆

平成最後日記です。
既に1年経とうとしている事実に驚愕しながら書きました。これはうだうだ思い悩むより大きな出来事だったので書いてスカッとした方がいいだろ、と思い極力情報は出さずに書いてみました。震災があった9月6日から約10日ほど経ち、私は札幌へと出向きました。それは私を支えてくれるとても大きな出来事でした。その話については今後。長くなりました。

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