First Kiss

幸坂かゆり Weblog

カテゴリ: Love Life

さて。
小樽の大澤誉志幸さんのライブから既に2週間経とうとしています。
私はやっと体を休め、帰ってきたーと実感しております(遅い。遅すぎる…)このように、現実を体に浸透させることにかなり時間を要してしまう体質(性質?)なもので、もう既に新たな明日に向かっている皆さんが多い中、私自身も悔いのない11月を迎えるため、小樽から札幌まで行き、帰りの高速バスの中でのことも書いてしまわなくてはと思いました。17日はこの方のお話を。
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タケカワユキヒデさんです。

帰りであるこの日(10月17日)は偶然、タケカワユキヒデさんのライブが配信される日でもありました。旅の途中だったのなら観ることは諦めたと思いますが、何と言うことでしょう。帰りのバスの中、という時間帯だったのです。バスの中ではあまり好みじゃない映画が流れ、10分ほどの休憩以外5時間ほど同じ格好のまま座席に座りっぱなしの苦痛の時間。もちろん感謝している。しかしそれとは別のところでまたこんなふうにも思うのである。それは仕方がないことだろう。私より一つ下の男友達がライブ好きでやはり高速バスを利用せざるを得ない状況になった時、特に夜行バスは辛かった、ともらしていた。というのは夜行バスは照明が消されてしまうので読書もできずスマホも明るく迷惑になるため、使用することなど言語道断。そこはただ眠るだけの空間になる。眠れない場合どうなるか。そこは地獄だ。彼は言った。
「強い酒の一杯でも飲まないとやってられない」
そのくらい年を重ねた後の高速バス(特に夜行)は辛い。足にも腰にも来る。私も数年前、座席がちょうどタイヤの上という場所に当たり、足の血流が滞り、命の危機を感じた。(いや、上げたり下げたりくらいしよう)

そんな今回ですが、夕方であり、スマホオッケーの状態。
タケカワさんの今回の配信は、17日、横浜mint hall「僕はsinger vo.1」略して「僕シン」というタイトルのライブでした。そこで配信も一緒にやってくれるとのこと。1部と2部に分かれており、私は2部から観られる状況だったので、スマホからいそいそとチケット購入(こんな時、文明の機器は素晴らしいと思う)イヤホン準備。いつでも観られる楽な姿勢を取った。

タケカワさんと今回一緒に演奏するのは、ゴダイゴのサポートメンバーとしても活躍されている、竹越かずゆきさん。澄んだバランスの取れたきれいな声と素晴らしい音楽センスの持ち主です。今回はその竹越さんが選曲をされたそう。既に1部が終了しており、和やかな雰囲気の中始まった。この日の選曲はスタッフさんがツイート。

2部は嬉しいサプライズがありました。
竹越さんが選んだ曲の中にタケカワさんのソロ「Happy Birthday」がありますが、歌おうとしたまさにその時、花束を持って娘の基さんが黒いマスクをして登場。タケカワさん、ご自分の誕生日(10月22日)をすっかり忘れてらしたそうで本気で驚いていました。照れ隠しなのか本性なのか、基さんに向かって、
「我が娘ながら、黒マスクだと悪者に見えるなあ」と仰って笑ってハグをしておりました。そして竹越さんがハッピーバースデイトゥー タケカワさーん♩と、歌い、会場は拍手。
タケカワさんと言う人は誰かを喜ばせることには躊躇しないのに、自分が祝福されると照れてしまう人なのだな。そうして歌った「Happy Birthday」。実はこの曲の冒頭、小さな子がアカペラで歌うところから始まっておりますが、その子が今回花束を持って来た基さんなのでした。美しく立派に成長されて目の前で微笑む娘さんと微笑み返すタケカワさん。時の流れを感じさせつつ、ゴダイゴが活躍した初期を知っている私個人にとってもグッと胸にくるシーンでありました。

タケカワさんと竹越さんの "タケ竹" ハーモニーは互いの呼吸の合わせ方はもちろんのこと、声の相性も素晴らしくてアンコールにてタケカワさんの初期のソロアルバムの名曲「Lyena」を歌い始めた時は嬉しくて堪らなかったのですが、なな、なんと、そこで突如バスは山の中に入り圏外に。一気に現実に引き戻される私。ああ、あのラストの方でリピートされる美しいハーモニーが丸ごと聴けませんでした。残念。美しかっただろうなあ。まあ、こんなこともある。最後は恒例となった「銀河鉄道999」でのラストなのですが、再度アンコールを望む拍手の多さで急遽出て来てくれました。本当にアンコールもすべて終えたので帰るばかりだった、と言うタケカワさんでしたが、もう一曲だけね、と1部で歌ったゴダイゴの「Back in time」を歌ってくれました。

こちらの曲です。2011年のゴダイゴのEP「Walking On」のカップリング。作詞はタケカワさんと、娘でミュージシャンである愛さんとの共作です。


途中、圏外になったことを除き、とても良い時間を過ごさせてもらいました(リラックスし過ぎて気づくと椅子の上に足上げてたしなw)終えるとすぐにイヤホンをしまってスマホもオフ。大澤さんとタケカワさんの曲を耳の中で交互に反芻しながら少しばかり目を閉じ、帰途に着いたのでした。

このように、なんて贅沢な2日間だったことでしょう。
美味しくて楽しくてときめいて笑い合って、そんな2日間。胸に残る最高のお土産は感動でした。今でも昨日のことのように思い起こす幸せなライブふたつ。このふたつを書けて良かった。昨日のことのよう、と言いつつ記憶はかなり消えています。それでもこうして少しでも書き残せたら悔いなく11月へと飛び込んでいけることでしょう! 読んで下さった方、どうもありがとうございます。また遊びに来てね。

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今年に入り、小説を書くことが難しいと感じるようになった。
文章を書く時は、上手かどうかはさておき、いつもためらったりしなかったのに。
必要以上に筆が止まるのがもどかしい。どうしてなんだろう。

しかしそれにはきちんと理由があって。
いくつか原因になる事柄なんかも考えた。以前よく投稿していた場での「書き癖」があったり、日常の変化で本を読む頻度が減っていたり…etc, etc, でも一番の理由は、多分これだ。
「きれいに書こうとして、かっこつけるようになっていた。」
ちょっと気取ったふうに、小難しく見えるように。もちろんそういう文章が好きだからだけども、自然に出てくるものでなければそれはそのまま不自然になるし、肝心の思いが伝わらない。

だからここ数日、自分の過去の小説や読書感想、このブログなども振り返って読んでみた。
日によってかなり差がある。もちろん調子が出ない日もあり、それは(多分)自分にしか判らない部分だけど、それでも残すからにはある程度の水準というのかな、自分の中の尺度でその水準を満たしている文章だけを残したいと考えている。
その水準を上げ過ぎたのだろう。書き始めから妙にきれいに書こうとしてしまうものだから、肩に力が入って緊張して、つっかえて、言葉が繋がらない。今もまだ少し指が止まるけれど、それは新しいPCの文字入力に慣れていないという理由もつけておく(笑)その上で、意識してかっこつけていない分スムースではある。ただ文章自体はきれいではない。簡単な言葉ばかりだし、情報量も少ない。本来ならばもっと緻密で、きめ細かくなだらかで、短くても長くても情報量がぎゅっと詰まった重いケーキみたいな文章を想いを込めて書きたいと思うが、そうやって最初の一行から無理するから(笑)脱落すんねん(突然の関西弁)

そう。このように、色々ごちゃごちゃ絡めて、お喋りみたいな部分があるのが実は私の文章の特徴なのかな、とも最近、思ってきている(あまり認めたくなかったけど…)で、ぺらぺら喋るように書いて調子が良い時は上等だと思える比喩が生まれたりする。要するに日記的な感じでもう少し以前のように、ちょこちょこ更新していないと実際に紙に書く時のように書き方を忘れてしまうんだろう。学生じゃないから毎日ノートをつける訳でもない。大人になったらスケジュール以外に自らの感情を書いて行かないとスムースからは遠く離れてしまう。気づいているようで実は一番忘れやすいことだ。反省。

さっきからスムースという単語を何度か使っているけど、私が書くことで大事にしているのがこのスムース(smooth)という部分。だだだーっと書けること。もちろん推敲込みの話で。そこが強みだとも思っていて、1から書き出して100も1000も書いた中からいらない箇所を見つけて削る、という「大幅な推敲感覚」が私に必要なスムースで、それができないと来れば…焦りもしますね。自分の色だったり核だったりする部分なんだから。そこに気が付けて幸いだった。ずっと書けない理由も判らず、ただ慌てていたって解決しなかった。

そんな訳で、こうしてただ喋るように書く、という大事な部分、多分過去にも何度か書いているであろうこの部分をもっと意識的にやっていかなければ、と思う。いつでも本番に備えられるよう、普段から言葉の柔軟性を鍛えておかなくてはならない。ちなみにこのスムースは読まれて初めて活きる部分。書く時は表すものの倍以上、言葉が必要になり、そのあといらない部分を削る。当然、文字数は少なくなるが、それは大事なスムースのために必要な作業。

現在、夕飯の献立を考えるだけで憂鬱で、しんどくなってしまう精神状態だけど書くことは放棄できない。私は書くことしかできないから。もう、この間51歳の誕生日も迎えたことだし(これは大きい。もう人生の半分以上を生きているということだから)言い切ってしまおう。私にとって書くことは、脳から心を通って指先へ伝わり、PCのキーボードへと流れだし、視覚で感じること。生きてる、と。

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※画像は StartupStockPhotosによるPixabay より。

Karl Houtteman
現在の私は、義父と二人暮らしの、独りである。
年を取り、体の自由が段々利かなくなってきた義父の身の回りの世話、なんて大げさなことはしていないけれど、それに近い状況になっている。しかし母の介護の日々を思い、あの時とは違うと考えている。

母の時はもちろんだけど、私個人の前例がなく、全くの初めての経験だらけだった。
地域包括センターという場所があることも、デイサービスにショートステイ、そんな言葉も初めて知った。だから、という訳ではないけれど現在、私はまだ息切れしていない。もちろん「まだ」なんて言うと今後を予期しているようで嫌だけれど。ただ義父は今年7月に発症した病気が、たった一か月でかなり進行している。正直、別人のようだ。

母と義父の違うところは、できないことが増えても認めたがらないとか、義父自身に直して欲しいところをなぜか私に直すよう仕向けるところか。そのふたつだけでもかなり苛立っているのだけど、とりあえず感情的にならず日記のように時折書き綴っていけたらと思う。母の時は「日常ダイナマイト」なんてカテゴリにしたけれど、同じではない。私はどこか冷めた目で見ている。だからどんなふうにでも書ける「独り言」というカテゴリを作った。

母の時は、自分の人生まで浸食して来て、入浴も食事もすべて自分を後回しにし、すべてが母優先になった。もちろんそんな生活は継続できず、文字通り、私は壊れてしまった。しかし今回は義父のために自分を壊したくないと思っている。できる限り手を抜きたいし、自分のやりたいことは諦めずにやっていきたい。犠牲になりたくない。まだ慣れないケアマネージャーさんとそれでも密に連絡を取り合い、利用できるものは利用していく。もちろんそれは制度だけではなく、薬の管理が難しいのであれば市販の「お薬カレンダー」の「手」を借りるなど。大したことじゃない。それでも大きく手間は省ける。

母の施設入所が決まった時、ほぼ手を貸してくれなかった義父が母のことを「最後まで面倒見てやろうや」と疲れ果てた私に言い放った時、叫びだしそうになって口を塞いだ。そんなの言われなくても判ってる。散々そうやって「私が」やっていたことじゃないか、と。だから私は母のいずれ訪れる最期と大事な猫たちを見送ったら、すぐにでも今の家を出られるようにしておこうと思った。実際には母の介護から離れてすぐに「荷おろし症候群」に陥ってしまい、休むべき時に休めず、色々なことが手つかずのまま時間が経った。
その間に、5匹いた愛する猫たちはみんないなくなってしまった。最後の子は今年4月の出来事だった。22歳という高齢で持病も抱えていたことからいつ悪化してもおかしくない状態ではあった。それでもいつもそばで丸くなって眠る姿は、言葉がない分、純粋に愛情を惜しみなく与えさせてくれる存在だった。しかし、ついこの間、Twitterにてフォロワーさんではないけれど、とある意見を聞いた。動物を飼う際の心構えのようなことだ。
「ペットは要介護の家族、と言えば容易に飼おうとは思わなくなる」と。

非常に納得する言葉だった。身に沁みる。
事実、振り返ってみれば猫たちもいつまでも若く、おもちゃにじゃれている訳じゃない。年齢を感じるようになるのは寂しかった。その寂しさは、もうすぐこの子はいなくなってしまう、という寂しさだ。あの子たちは不意に手を離れてしまう。何の予兆も感じさせず、時折飼い主がぐっすり眠ったその隙を選ぶかのように。そんな彼らはもういない。もしも次に飼う、と考える日が来るならそれは相当自信ができ、金銭的にも人脈的にも余裕のある暮らしができる時になるだろう。

話が逸れてしまった。
現在、義父は介護認定で要支援2の段階だ。利用できるサービスは2つ。生活上必要な杖のようなものはレンタルできたり、手すりなどはつけてもらえる。(義父はすべて断ってしまったが現段階なので今後は判らない)サービスは運動系のものを利用し、週に1回だったものを支援度が上がったので2回にしてもらった。義父の病気はパーキンソン病で、どうしたって運動が必須になる。しかし独特の前のめりになる歩行は既に悪化している状態なので毎日の病院は付き添っている。正直、義父の生活すべてが重荷ではある。けれど今は事故の危険性もあり目が離せないので、このたった今の間にもどこか受け入れてくれる先を探しつつ、自分の住む部屋も探している。ヘルパーさんだったりそういったサービスがこれから使えるようになったら何も私が一緒に住む必要はないし、仮に離れてもできることはある。そんなふうに考えてしまうところが、母と違う一番のところだ。軽薄かもしれないが、それも仕方ないと考えている。
まずは先にも書いたように記しておくことから始めてみようと思う。こう言ってはなんだが、母や義父がいなくなったとして、私は猫以上に悲しむことができるだろうか、と感じる。彼らは、私の人生の中でとびきり特別な存在だった。それだけは間違いない。

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Photo / Karl Houtteman

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遅くなりましたが、6月27日に、
うちでは今のところ最後の猫、みみちゃんが亡くなってから2ヶ月経ちました。
驚くほど呆けたような毎日です。色んなくせは抜けないし、
思い出しては未だ郷愁のように涙ぐみそうになるけれど、
同時に、確実に時が経っているとも思える。
そしてより一層猫たちと私の距離だとか、性格だとか、私の接し方だとかが見えてきた。
何かが起こった時、いつもほぼ私一人でやらなければならなかったのはストレスだった
一緒にやっていたはずの母は、病気になり、いつの間にか猫のことを忘れてしまい、
いつしか一緒にいる時ですら撫でることもしなくなった。
母が連れてきた猫たちだがその猫たちの生涯を母は結局知ることはなかった。
義父は、悪い意味ではなく猫を飼う、ということに他人事で、
ひっくり返って寝てたりとかそういうご機嫌な時だけ撫でたりするのみだった。

猫たちとの暮らしは正直、重荷ではあった。
もちろん声を大にして言いたいのは、嫌いと言うことじゃなくて。
むしろ弱ってくると私よりも長くはない命を思い、
離したくない気持ちが強くなり、
その思いに圧し潰されてしまいそうだった。
年も取ってきて病気がちになった猫を病院に連れて行き、
毎日の薬を飲ませ、ご飯の工夫をし、排泄の状態を見る。
もちろん毛並みも放っておけない。
段々年と共に自分で毛繕いをしなくなる子もいた。
そうなると代わりにしてあげないとならない。
敷いてあるタオルなどはまめに洗濯しなければ毛だらけになる。
今こうして書き出していると、まるで悪口のように聞こえてしまうが、
そんなふうに、ただ可愛いだけでは過ごしていけない日常があった、という事実だ。

彼らを見つめ続けた22年間だった。
それが今年に入ってすべてがなくなった。なくなってしまった。
魚を食べる時もツナ缶を開ける時も後ろを気にしてドキドキすることも、もうない。
そして先に書いた「呆けた」状態へと繋がる。

私はまたいつか猫を飼う時が来るのだろうか。
今の時点では考えられない。まずは暮らしを整えなければという問題があるし、
年老いてきた義父のことを思うと毎日の暮らしは簡単ではなく、
母と同じようには見てあげられないので、可能な限りケアマネさんも巻き込み、
施設も頭に入れつつ、慎重に介護認定なども毎年行なってもらう。
私も今の家から出て、一人暮らしの準備もしたい。
一人暮らし、まで行けば色々とまた思考にも変化が起きるだろう。
何もかもに絶対、ということは有り得ないが、私はまず、私に還る必要がある。
誰かに属し、自分を二の次にしていたクセから抜け出さなければならない。
そんな客観性がやっと姿を見せた感じがする。長かった。本当に長かった。

その中で、たった今胸に残っているのは、ただひたすら可愛かった、すごく可愛かった、と言う猫たちへの想いだけだ。大変だったと書きながら、あの柔らかな被毛を撫で、
手が触れる位置で眠る姿を見たい、と思っている。
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画像は一番上がくろちゃん。
左上、みみちゃん 右上、ななちゃん
左下、ろでむちゃん 右下、らむ子さん
一番下、らむ子さんがうちに来る前のくろちゃん親子。

くろ、なな、ろではくっついてごはんを食べるのに、
なぜか、みみだけはいつも少し場所を離れて食べていた。

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令和2年4月27日、みみちゃんが22歳で逝ってしまいました。
もちろん大往生です。最後は持病が急変し、
病院に預けてそのままになってしまいましたが、
みみちゃんの最期はすーっと眠るようだったと教えてくれました。

彼女は暮らした猫たちの中で一番の淋しがりやさんだったので、
病院のスタッフさんが常時ワイワイ、と周りにいてくれて、
優しくしてくれて、安心して眠れたのだと思います。
看取ってあげられなかったのは残念ですが、
家に連れて帰ってから、ふたりになってお話をしました。
それでもやっぱり出てくる言葉は「ありがとう」でした。

この家で暮らしてくれて、
ずっと愛させてくれて、
そして、さよならもさせてくれて。
みみちゃんの存在そのものすべてに「ありがとう」を。

葬儀場でお別れ前にたくさん撫でて、
花に囲まれ、大好きだったカリカリを添えて送りました。
虹の橋を渡り、今は同じ場所にいるであろう、
くろちゃん(ママ)、ろでちゃん、ななちゃん、
そして、らむ子さんと会えたかな。
一緒に遊んでぺろぺろ舐めあいっこして、
どこも痛くもなく苦しくもない体で、自由に飛び回っているかな。
そうだといい、というこんな思いは都合の良い想像でしかありませんが、
どうしても願ってしまう自分がいます。
そしてわがままだけど、私の夢の中にも会いに来て欲しい。

みみちゃんが逝って、私の家に猫がいなくなりました。
みみちゃんが最後の子でした。
彼女たちのいない23年目に向かう春は、なかなか慣れない。
けれど、そのままで次の春へゆこうと思います。
悲しみも、愛したことも、記憶へと変わるけれど、
大切にしたい。忘れてしまいたくない。胸の痛みは時間にまかせて。
私の心に住み着いているのは優しい春風たち。
大好きだよ。これから先も、ずっと。
どうもありがとう。

※上画像の絵は、今日葬儀場にあったノートに描き残してきたみみちゃんです。

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お久しぶりです。
2月からまた随分時間を置いてしまいました。
ここ最近、普通に紙の日記帳にペンで書いています。
「マイブック」という新潮文庫から出ている、
本当に文庫本と同じ作りで、中身は日付けだけが印字してあって、
そこに文庫本と同じ形式で縦書きにつらつらと書いて1ページ。
毎日続けて12月31日になったら1冊完成する、というもの。

2002年にもこの日記をつけていて、
とても役立ったなあ、と思い返し、
2月の中旬辺りに購入して中途半端ですがそこから書いています。
ほぼ、スケジュール帳のように使っているので、
みみちゃん(愛猫)が通院した日のレシートや、
いただいた手紙やお菓子についていたシールなどを貼って、
ますます思い出を具体的な形にしていっております。
毎日1ページ、という量もまた続けやすいのだと思う。
どんなに遠慮なく書いているようでもSNSはいくらか気を使うので、
あけすけに書けるものがひとつでもあるのはいいものです(笑)

さて、そんな今日ですが、
お知らせは特にありません(笑)
あるにはあります。とびきり大きなお知らせが。
しかししばらくブログを書いていなかったので、
今日はとりあえず、PCで文字を書く練習ということで。
(小説とはまた違って緊張するのです)

令和元年末、まるで中世時代のように感染症が発生し、
現在、世界中を覆う勢いで蔓延し、連日報道されています。
ロックダウンなんて言葉も突然発表されましたが、
普段聞いたこともない単語なので時折忘れます。
「都市封鎖」という意味らしいですが、
日本はそこまでの意味ではなく「外出制限」と言うに留まっています。
漫画や映画の中でしか聞かなかったような、
パンデミックという状況に陥っており、死者も多数出ております。
発生した感染症(新型コロナウイルス)にはまだ治療薬がないため、
私たちが気をつけることは、ウイルスを体内に侵入させないように、
手洗いを念入りにして、急な用事以外はなるべく家にいて、
うつされないよう、またキャリアにならないようにすること。

私自身は普段から家のお仕事なので、
それほど困ることはないのですが、
それでも自らの意志で外出しないのと、
外出できない、というのは全く違うのでとても窮屈に感じます。
きっとたくさんの人がそう感じているでしょう。
世間ではマスクの他、なぜかトイレットペーパーが品切れになるなど、
昭和時代のオイルショックのような出来事が起きていて、
ドラッグストアには連日長蛇の列ができていました。
そのような職場で働く友達に聞いたところ、
品切れしたマスクを求める客によって、殺伐とした空気だったようです。
令和に起こった感染症パニックは思ってもいないところで、
人間の浅はかさが思いがけず掘り起こされたように思います。
けれど落ち着かなければ。せっかく人間なのだから…。
今年開催予定だった東京五輪も延期になりました。
様々なイベントも中止です。

それでも生きていかなければ。私にはみみちゃんがいる。
今も彼女は隣でまあるくなって眠っています。
現在の発表ではペットに感染しない、とのことなので、
何となくそこだけは安堵していますが、どうなるか判らないのも事実。
どうかこのまま収束に向かってくれれば、と願うばかりです。
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心を落ち着けるには、
みみちゃんと一緒に飲む一杯のコーヒー。

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それは記憶もおぼろげな幼少時代。
元々、左ききだった私ですが、直されてから絵を描くようになった。

それからは絵を描くことが大好きになり、
ちょっとした「隙間」を見つけるとどこにでも絵を描いた。
紙の上以外でも、チラシの裏、ダンボール、シールの余白、壁、アスファルトの上、鉛筆で、チョークで、十勝石で、軽石で、土で。

それを見ていた、当時パルプ工場に勤務していた父が、
本来なら処分される、何にも書かれていない紙を大量に持ってきてくれた。
何の見本もなく描いた人物の顔は長四角だった。
幼稚園になる頃には、とにかく気に入ったものを模写し続けた。

ある日、父が紙をまとめてホチキスで綴じ、本の形態を作ってくれてから、
鉛筆でコマ割ををし、セリフを書き入れるということができるようになり、
「ベタ」と呼ばれる背景の黒い部分も鉛筆で塗りつぶし、自分だけの本を作った。

ただ、私が幼い頃はどんな大人も、漫画というとすぐに否定された時代だった。
そんな中で、唯一否定せず、絵を自由に描く場を提供してくれて、
何も見ていない振りをしながら、実は一番評価して見てくれていた父。
色んなことがあり、今はどうしているのか判らないけれど、
その部分だけは本当に感謝してやまない。

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上の文章は私がウェブサイトを開設した当時「指先のプロフィール」と称して載せていた。
今は雰囲気を替えた仕様にしたので、省いてしまったけれど文章は手許にある。

なぜいきなりこの文章を出したか。
この間、Twitterにてふとしたこと、本当にふとした出来事から、先に書いた小学生時代読みふけっていた漫画家さんのお名前をお見かけしたからだ。

小林博美先生。大好きな「夜の雪がやさしい」という漫画。
いくつか年上のいとこのお姉さんからもらった雑誌に載っていて釘付けになった作品です。繊細な線、ただ大きいだけではない深さのある瞳、躍動感、情熱、そして美。そのすべてを備えた宝物のような漫画。引越しの多い幼少時代、どんな時も雑誌からその漫画だけ切り取り持っていたけれど、とうとうどこかで失くしてしまった。その後、成長し、パソコンを購入してからも覚束ない指で検索をしたが、その雑誌自体が高値になっており手が出なかった。何よりネットでお買い物をしたことがなくて、戸惑っているうちにそのサイトが消えてしまっていた。

もういちど読みたい。
心から思っていたその漫画が、なんと直接先生の下に届き、その後、DM(Twitter機能のひとつ、ダイレクトメッセージ)にてお話させていただき、なんと、コミックスに収録されていた(知らなかった!)その「夜の雪がやさしい」を送ってくださったのです!

おそるおそる、傷つけないよう袋を丁寧に開封し、懐かしい絵を目にする。ああ、亜子ちゃんだ、嶺(れい)だ、と最初は本当にただただ絵を追った。深呼吸をし、心を落ち着かせ、改めて読んでみた。

あらすじ:主人公の亜子は元気一杯の16歳だけれど、実はよくできた姉妹と比較され、孤独感を味わっていた。そこへ隣に人が越してくる。しかしその隣の庭にある特殊な生え方をした木は亜子のただひとつの居場所だったことから、そこにいても良いか許可を取りに行き、その隣人、髪の長い26歳の美しい男性、嶺と少しずつ言葉を交わし、心を打ち溶け合って行く。彼もまた孤独な悩みを抱えていた。とあるきっかけで亜子がどれほど普段感情を抑えて来たのか、木の隠れ家がどれほど亜子の感情を包み込んでくれたのかを知る。嶺は更に亜子をいとおしく思うようになる。けれど無常にも亜子の両親は亜子自身を認めてくれず、絶望した亜子は家を飛び出す。後で誤解だと知った亜子の家族と共に事情を知った嶺は亜子を探す。木の隠れ家に亜子はいなかった。それ以外なら一体どこに…。嶺はいちど二人で行った海を思い出す。亜子は海の中にその体を沈めようとしていた…。

私は当時いくつだったろう。
小学生か、中学生になったばかりだったか。不登校をしていて毎日何も解決しない日々、ただ学校へ行け、と怒鳴る両親。優秀な姉。私自身、なぜ不登校になったのか当時は理由が判らなかった。いつも昼間は居場所がなかった。けれど、心細い昼間とは反対にひとりきりの深夜は安心した。夜は私に優しかった。この本の亜子ちゃんほどきちんと言葉で伝えることはできなかったけれど、この本のラストのように何とか私の問題は解決した。そして今の私がいる。今でもつい先ほどのことのようにあの頃の感情が蘇る。私はこの本を読むことで自分で自分をセラピーしていたのだ。それがあの時、あの日々の中での存在だったのだろう。

読んでいて何度も涙を堪えた。当時は身近過ぎたため、そこまで感情的になることはなかった。まあ、年のせいもあるだろう(笑)今は、嶺のように亜子を抱きしめたいと思う。今の私は嶺の悩みや淋しさの方がどちらかと言うと身近だったりする。頭脳は別として。それから余談ではあるが当時、鳥を飼っていたこともあり、亜子のインコが(自粛)という場面は鳥たちの存在を思い出して号泣してしまった。あんな目に遭ったら…立ち直れない。きっとあの当時だったら猫ガッデム!と感じていたことだろう。

…逸れました。
この漫画は今後絶対に離すことなく、私の宝物として、同時に少しでも感謝の気持ちを忘れた時の戒めとして時折読み返し、きちんと保存しようと思います。いえ、思いますではなく保存します。

もちろんこの漫画のラストは嶺が助けてくれて、家族とも和解します。しかし亜子は性格がとても優しくいい子だ。裏表のない純粋性と包容力がある。だからこそ嶺も大切にしたいと思ったのだろうし、そこがこの物語の魅力のひとつでもある。今考えてみるとその上での素直さというのはギフトだと思う。こんなふうに書くと本当に私自身、年齢を重ねたんだな、とつくづく思います。もうとっくに亜子や嶺の年齢も越えてしまったけれど、この物語を通してセラピーした日々は大事な記憶です。私という人間を構成してくれたひとつでもあると思っています。貴重なご縁で、こうして再び出逢えたことに大きなしあわせを感じています。今いちど、心から感謝の言葉を捧げます。小林博美先生、どうもありがとうございます。

大切にする!心から!(ハグ)

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 Happy Birthday. My pretty baby!

5月1日、元号が変わり令和を迎えました。
さてその次の日もまた幸坂にとっては記念すべき日でございます。
かわいい愛猫、みみちゃんの22回目のお誕生日です!
すごいよ!平成と令和をまたにかけてるよ!
上画像は平成最後に撮ったみみちゃん。
下画像が最新!令和元年を迎えたみみちゃん。
心なしか、おねむのようです。
いつもまんまるな瞳できょとんとしたお顔がキュートなみみちゃん。

現在、色々と悪いところも出て来て病院通いなどはしておりますが、
よく遊び、食べて、眠って、たまにべんぴちゃんになるけれど、
そこは飼い主がマッサージなどをして解消させ、元気に暮らしております。
最近はツイッターにて毎日服薬させる錠剤をのませる様子を必ずつぶやいておりますが、
これには自分なりにどこまで続くかわからないルールがあって、
「みみちゃん」(基本)をいかに違ったニックネームで呼ぶか、と言う、
何気なくハードルの高いことを自分に課して続けております。
みみちゃんは毎日嫌がりながらもきちんとのんでくれて、
その後は何も根に持つこともせず、じっとかわいい瞳で見つめてくれたり、
遊んで、と言って来たりします。
あなたがなるべく元気で、この先も快適に過ごしてくれたらとても嬉しい。
あなたがいてくれて気持ち良さそうにあくびをしているところを見るのがしあわせ。

心から誕生日おめでとう。
また私からは炎の連続ハグになる一日です。

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かわいこちゃん、今宵のおやつは大好きなホタテ味のちゅ~るにしようね。

猫アンソロジーバナー
新元号が決まりましたね。

「令和」

しなやかで強そうなかっこいい元号だな、という印象です。何もわからないけれど希望を感じられるという心持ちがとても心身に良い影響を与える気がします。

さて、話をいきなり自分に寄せますが、
3月1日に発行した新刊「君と僕の記憶のすべて」から、はや1か月経ちます。
時が過ぎるのが最近本当に早く感じます。そこから3月31日に、
こっそり表紙デザインと内容を変更し、BCCKSさんから紙の書籍の販売も行いました。
もちろんこれからも無料で読むことはできます。
ただ単に著者が紙と言うもので手にしたかった、というのが理由です。
そんな訳で紙の方は売り上げ0ですが閲覧して下さった方が60人もいらっしゃって、
EPUBも13冊ダウンロードしていただいております。大変ありがたいことです。
kimi_boku8 kimi_boku1 
右が最初に発行した時の表紙
左が31日にこっそり変更した表紙
(どうしても画像の大きさが揃わない…)

その後、以前参加させていただいていたサークルを離れ、
これからどうしようかと考えていたところ、
ツイッターにて来年の文学フリマに発表する予定だと言う小説を募集しているのを見つけました。
しかもその内容は「猫アンソロジー」!
「手のひらに猫を乗せるしあわせ」とキャッチコピーがついていました。
冒頭の可愛らしい画像が「猫アンソロジー」のバナーでございます。

そちらを笹波ことみさん(@kxtxmi )が主宰で 書き手さんを募集しており、
締切日に知ったのでギリギリのダメ元で応募しました。何とか間に合い、
そこから応募要領の条件を満たした方を選別し、当落が決まる、とのことでした。

それから数日後、メッセージが届き、幸坂、当選いたしました。
私は黒猫が出演する物語を担当することになりました。締め切りは9月22日、
何としてでも傑作を書きたいと思います。がんばれ私。
まずは一ヶ月間、猫の書籍群を読み、そこからテーマを決めて書き始めようと思います。
アイディアはいつも書き留めておけるようにメモを持ち歩いております。


先月は悪夢のような鬱状態に悩まされて何もできない状態でしたが、
カウンセリングの場で思い切り感情を出せたことが良い方向に向かったようで、
もちろんまだ気は抜けないけれど、それでもふつふつと元気は復活しています。
これから春もやって来るし、私のスピードを保つことを忘れず、色々行動できたらと思っています。
あ、それからもうひとつ発表したいことがあるのですが、それはまだ少し時間がかかるので、
完成次第、ブログにて報告します。久しぶりにブログを書くと、まあ長くなりますわ(笑)

ではまた近い内に!

最近、自分がぶれにぶれてしまって片言で生きているようだ。
何に対しても自分の反応が薄い。影が薄い。夢の中に片足を突っ込んで日常を暮らしているようだ。覇気がないとも言う。焦っているようでぼんやりしている。思考が分断される。集中力がおかしな方向に向く。…などと、今考えつく限りの寝言を言ってみた。いや、実際困っている。次に何をしたらいいのか、よくわからなくなっている。


上の記述までが下書きに残っていた文章。2019年3月8日になっている。
この後も先の状態は続き、充分な栄養と睡眠を摂ってネットからも離れていれば落ち着くだろう、と考えていたがもうその段階を過ぎてしまっていた。夕食の支度をしていても順番がわからなくなる。買い物に行っても何を買っていいのか決められない。意味もなく淋しい。どう考えてもこれは10年ほど前に罹ったうつの状態だ。うつはただふさぎ込むのが症状ではなく感情が見えなくなり、一見周りからすれば落ち着いて見えるのでわかりにくいのだ。実際本人はただただ焦燥感で考えることすら困難になっているのだけど。そんな訳で、かかりつけである病院に相談し、カウンセリングを受けることにした。

自分が何を悩んでいたのかは既に混乱してわからなくなっていた。
ただ精神心理士さんとは初めて顔を合わすのでまずは話すことをなるべく考えておかねば、と動かない頭で思いついた時にメモするようにしていた。しかし何せ、考えることができないので4行くらいしか書けなかったのだけれど。

そして19日、カウンセリングの日が来た。結果から言うと、号泣しました。
感情が決壊したかのように。カウンセラーの方は何を言う訳でもなく、まだよくわからない患者と向かい合い、ここ2週間くらいのことを教えてください、と何とか言葉を引き出そうとしてくれた。私も前日までは何らかの言葉を返せると思っていた。それなのに驚くほどまったく整った言葉が出て来ない。自分でも何を言っているのかわからない。ただ焦った。こんなに話すのが困難になるなんて経験がないので余計に慌て、口惜しさも手伝った挙句、涙が溢れ、止めようがなかった。

きっと私が話した言葉は途切れ途切れで何を言っているのか聴き取れなかったのではと思う。
けれどカウンセラーさんに否定もされず聴いてもらったことと、泣ける状態にまで感情が戻ったこともあり、帰宅後、私の心にはほんの少し余裕ができた。とは言え、その心の余裕は帰宅後に気づいたことなので、しばらくはカウンセリングを続けてみましょう、という話に落ち着いた。1ヶ月に1度、時間も30分、午前中、と決まっている。その方がきっと良いと思う。

ちなみに、今回の不調の原因のひとつに医師の言葉がある。
何とか保っていた昨年から次から次へと起こっていたダメージを、具体的にではなく最終的な報告と言う感じで医師に「色々あってこんなふうに思っていました」と話し、ひとことふたこと言葉をいただき、お薬の処方をしてもらえれば充分のはずだった。だからこそ診察してもらった「とある日」の医師の言葉は信じ難くて認めたくなかった。医師は話を進めようとする私に「他にもまだ患者さんがいるから」と言って遮った。違和感があった。それでも意地で話をした。最終的に「ねえ、こんなにがんばっているのにね」という言葉ももらった。だから医師のせいではなく、人間誰しも色んな心理状態があるものだと思い込もうとした。私は医師を悪く思いたくなかった。そうして押さえつけていたことで不安と行き場のないストレスが増して行った。多分、その言葉の後に話した私の言葉は受け流されていたと思う。患者、という役に私は入っていないのだと否定されたようだった。それでは私は何なのだろう。ただ精神科の待合室をサロン代わりにするような一部の人々と私は変わらないのだろうか。そんなふうに思われるのは嫌だった。

そして、そのまま我慢を重ねた結果が最悪の調子の悪さに凝縮された。
あまりにも普段の生活に支障をきたしていたため、発達障害の検査もしてもらった。結果はただの私の特性だった。では何故こんなにも毎日が大変なのだ、と考えた末に行き着いたのが医師の言葉だった。もちろん医師だけのせいではなく、それまでに積み重なったストレスがあった。しかし最後の砦、いわばオッケーという印鑑を押して終われる時に捺印を拒否された感じがした。あ、何だか今も語彙がおかしいな。まだまだ無理をしてはいけない段階なのだ。いかん。とにかく何もかもが怖くて外にも出られない、家でも落ち着かない、朝も昼も夜も義父の食事の支度をしなければならない。食材が尽きれば自分が調達しなければならない。誰も行ってくれない。これが死ぬまで続くのだろうか。重荷だった。そんな最悪な思考のループの日々にとりあえず一端タイムがかかった。私には友達もいるし姉もいるが、こういう悩みは専門家に話さなければと思っていたことでカウンセラーさんを紹介してもらうところまで進めることができた。医師がだめでもどこかに道はあるはずだと思い続けたことは正解だったと思う。でなければこんな長文も書けなかっただろう。いや本当に長いな(笑)

私は今年50歳になる。今ある悩みをうやむやにしたら、誰からも相手にされなくなるような怖さがある。差別的な見方だろうか。けれど周りの高齢になる精神的な病を抱える人を見ていると、年齢からか少し図々しくなり医師とツーカーの仲のような関係だと言わんばかりに話すのでそう感じてしまう。だから怖いのを隠していた。でもまずは落ち着いて座れる椅子を見つけたという段階だと思う。とりあえずはその椅子に座り、ゆっくりお茶でも飲んで一呼吸置いてみようと思う。まだ私はこうして分析する力がある。大丈夫だと思いたい。

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