First Kiss

幸坂かゆり Weblog

カテゴリ: Love Life

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令和3年4月14日、
長患いしていた母が逝った。

その日の夜、私は体が妙にだるくていつもなら終えているはずのお風呂に入っていた。
そんな時に母が入院していた病院から突然の電話。
「ご家族の方、いらしてください」
慌てて髪も濡れたまま束ね、タクシーで急いだ。
母は既に息を引き取っていた。いつもの眠っているような表情だったので先に着いていた姉に「さっき午後11時に」と臨終の時間を告げられるまで気づかなかった。ただ母に大丈夫かい? などと間抜けな言葉をかけていた。

本当に? 本当にいないの? 確かめずにはいられなかった。ごめん、間に合わなくてごめん。そんな言葉を言いながらまったく信じられず涙も出なかった。

そこからは感傷的になる間もなく、すぐに現実に返り葬儀について話し合いをし、友引や火葬場の空きがないと言う事情で2日ほど斎場に安置してもらうことになった。お通夜、告別式、出棺を終える次の日が初七日と言う段取りになった。私は喪服も持っておらず、ほんの少し打ち合わせの開いた時間に買いに行った。失礼にならなければそれでいい。そんなに何度も着るものじゃない。
死因については元々、持病があったため、色んな要因は絡んでくるが誤嚥性肺炎が大きかった。ついこの間同じ理由で入院し、退院したばかりだったが日を置かずにまた体調が悪くなり何度も入退院を繰り返した。母の体力を考えると限界だったのかも知れない。

思えば寝たきりになってしまうまで、本当に長い介護生活だった。
途中から施設に入居できるきっかけも、私が心身共に限界になり、かかりつけの医師が母を療養という形で入院させてくれて、当時申し込んでいた施設にも早々に働きかけてくれたおかげだった。その頃の愚痴も交えた詳細はカテゴリ「日常ダイナマイト」で少々触れている。

まず、ここまで書き始めたけれど形式ばったことは多分、私には書けない。残念ながら説明と言うものが下手な物書きだからだ。書けるのは想いだけだから心が粟立ったことだけ記しておこう。そしてこのあとゆっくり触れて行こうと思う。お通夜には地元の情報誌の訃報欄を読んだ友人が仕事を抜けて来てくれた。小学校からの友人でもある彼女も昨年お母さまを亡くしていた。彼女の姿を確認して少しだけ気が緩んだ。そして彼女もとても驚いていた。庭の手入れや猫たちと戯れる若い母の姿しか知らなかったから。
いつも白髪交じりの髪を黒く染め、ひとつに結び、頭の上の方でお団子にしていた母の姿。私もその姿が一番印象に残っている。だから急ぎで選んだ地元情報誌には施設で写した写真を載せたけれど、遺影は病気に罹る前の母の姿にしたいね、と姉と話し、少ない写真の中から元気だった頃の母の写真を探した。きちんと自分の服を着て化粧もしている微笑んだ母の姿だ。

あれほど忙しなかった式のはずなのに、初七日を終え、役所へ赴いて書類等の手続きを終えると、すぐに静寂に戻った。もちろん大変だったと思う。その証拠に私は役所に行った次の日から久しぶりに風邪を引き、それは今も続いているから。けれど母と共に生き、格闘のようだったり親子関係が逆になったような介護の時間を思うと本当にあっさりと終わってしまったように思う。

先にも書いたが、火葬場に空きがなかったため、お通夜が始まるまでに数日空いた。
その間、毎日見舞うかのように母に会いに斎場へと向かった。打ち合わせの中で『お通夜の前に湯灌*(ゆかん)を行いますか?』と斎場の方から問われ、もちろん快諾した。施設でも病院でも、もちろんお風呂に入れてくれていたけれど、急いだ洗浄という印象に近い。もちろん悪い意味ではなく。けれど、永遠の眠りにつくのならきちんと髪も体もゆっくり洗い、肌も爪も整えて良い香りに包まれ、気持ち良くなって欲しいと願っていた。
湯灌は斎場のスタッフの方2名が施してくれた。丁寧に体を洗ってもらい、髪もシャンプーとトリートメントをしてドライヤーで乾かし、いつものようにひとつに結んでもらい、白装束に着替えた後は私と姉が最後の化粧を手伝った。用意してくれた口紅の色はローズピンクで、偶然にも母がいつも付けていた色と似ていた。伸びていた眉毛も切ってくれて自然なアイブロウができた。すっかり瘦せてしまった顔の輪郭もふっくらさせるため、口の内側に綿も入れてもらった。すべて終えると本当に眠っているようで、昼間、椅子で猫と一緒にうたた寝する母の顔そのものだった。

葬儀場では母が好きだったサザンオールスターズの音楽が流れていた。
母とふたりきりで話をしている時、斎場の方がいらして「好きな音楽があったらかけますよ」と仰ったのだ。突然だったので編集する時間もなく、母が気に入っていたいくつかの曲はかけられなかったけれど、その中でも大好きだった曲は聴かせることができた。
途中、司会の方と打ち合わせをして母のこれまでの半生を語るため、色々とエピソードを話し、彼女が脚本として筋立てをして改めて物語をなぞると、小説の朗読のようだった。内心、私もこうやって小説書いてるなあ、なんて呑気に思っていたが、2日目の告別式での内容は少し変えられていて、まるで私たち姉妹の心情を表しているような言葉になり、もうこれで本当に、母の亡骸ともお別れなのだと思うと、急に涙が噴き出した。姉も私も。

棺の蓋が閉められる前、お花を母の体の周りに置きながらどうしようもなく流れる涙をそのままに、いちばん大きな花束を母の胸に乗せて、最後に手向けた言葉は「ありがとう」だった。それしか言えなかった。たったひとこと。母に届いただろうか。
大好きな母、私たち姉妹を産んでくれてありがとう。


*湯灌=湯灌(ゆかん)とは、葬儀に際し遺体を入浴させ、洗浄すること。(中略)女性の場合は死に化粧が施される。病院で死亡した場合には「エンゼルケア」などと称し、看護師による簡易な清拭が行われる。


長くなりました。
上画像はいただいたお供えのお花。少し枯れかけているけれどまだまだ蕾もある。ここから数本もらい、玄関にも飾っています。母は穏やかな花のようなひとでした。

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ふと、思い立ってコンビニに行ったりする夜が好きだ。

夕方が終わり、夜が始まるとき、星空はくっきりと色付く。
コンビニまでの距離は何歩歩いたか数えきれるほど短い。けれど私は夜に抱かれているようにうとうとと歩く。夢の中にいるような不思議な感覚になる。夜の中にいると前後不覚になって、ついでに上下左右も曖昧になって、時折転倒してしまう。そして無理やり現実に引き戻される。そんなことを早起きするようになった毎日を過ごすようになってから繰り返している気がする。空を見て地面を見て、そんなに視界を急激に動かしていたらそりゃあコケることもあるよなあ、と思う。

コンビニでは突然足りなくなった調味料や、何となくおやつが欲しくなったりしたときに行くので一日の中で数回行く日もある。野菜などを買った日は「えらいねえ、ちゃんと自炊して」と仲良しの店員さんに言われて頭をかく。えらいのかな。私の歩き方を知ればしっかりしろ、と思われるだろう。

コンビニ袋を提げて歩く帰り道は買った物を守らなくてはと思うせいか、下を向いていることが多いが、それでも空によそ見する。風が強い日は星が揺れて少しだけ心許なくなる。この世が私と星空だけのように思えて、突如、私は暗闇の中に放り出される。それでも玄関まで一生懸命歩き、足を止めてからあらためて夜の空をじっくりと眺める。星は視界に入りきらないほどに広がっていて、ああ、私は夜と散歩をしていたんだなと思う。手を繋いで。

今は三つ並んだ星を見つけるのが好きだ。あれがかの有名なオリオン座と言うのだと最近知った。オリオン座というものを形成する星の中の一部なのだと。もしも星から私が見えていたら私も星の一部を形成するひとつに見えたりするのだろうか。


  

お久しぶりです
最近はこんなふうに夜に歩くことが珍しくなり、ゴミ出しのときに夜空を見上げて夜と仲良くしている。朝型になると夜が少し淋しく思うようになっちゃったかな。画像は、つつじを背中に乗せたまま毛づくろいをする、らむ子さん。夜の中でも猫はいつも変わらず猫でいてくれる。

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2021年初の更新になります。遅い(笑)
こちらを訪れてくださる皆さんはお元気ですか?
急な寒さなどで体調を崩したりしていませんか。
暖かい飲み物でも、一緒に飲みましょう。

そして、私自身ですが、
昨年失ったものが私に思いの外、大きな打撃を与えていたようで、
急速に生み出したくなった。多分、物語を。
Twitterでは、日々日常の献立などをつぶやいていて、
料理もどこか創作だとは思うし、もちろん必要で嫌いではないけど、
充実感があるのはやはり物語に没頭できたあとだった。
ある日、父に次の日の些細なことをメモに残したとき、
余白が残ったため、適当なイラストを書き込んだ。
何だかわからない生き物だったのでそのまま、
「謎のいきもの」としてTwitterに載せた。

その謎の子が、度々メモをつける中で色んな表情を発して増えて行き、
結果、名前をつけようとアンケートを取った。
謎のいきものは、にゃぞ子、と命名した。
他にも候補があり、提案もいただき、そのお名前も可愛いので、
今後登場させたいと思っている。
にゃぞ子を描くのは楽しい。下書きも何もしないで描くので、
本当に謙遜でもなんでもなくシンプルに下手なのですが、
私の指そのままに、にゃぞ子も必死に応えてくれるので幸せになる。
何より、にゃぞ子はずっと生きている。私がいくらでもエピソードを生み出せる。
猫たちと暮らした日々が残り、ぽっかりした空間に突如、にゃぞ子がやって来た。
偶然でも、いや、偶然だったからこそそれは不意に私の胸に住み着いたのだろう。

そして、つい昨日のことだが、再びTwitterにてハッシュタグでお題が流れて来た。
「あなた、桜、涙」という言葉を使って文章を作る、というものだ。
むくむくと書きたくなって、文字数が決まっているひとつのツイートでは足りなくて、
そこからみっつほど続きにしてとても短い場面を書いた。
もちろん、推敲を少しだけしたけれど送信してから重複していた言葉が気になり、
ひとつだけ削除してツイートし直したけれど完成させた。

こちらから読めます↓

思えば、物語として文章を書いているとき、すべての日常が消え去り、
「あなた、桜、涙」の場面しか頭の中になかった。
物語を作ることは、私自身のカウンセリングになっているのだろうか。
にゃぞ子も、急に参加したお題の文章も、書き終えて、
ずっと必要としていたものだと判った。

音楽や、スポーツ観戦(主にテレビ)など大切なものはたくさんあるけれど、
それらを愛して行ける器を作り、ろくろを回し、
更にたくさんのものを愛せるように器を広げて行く必要があった。
器の栄養素は物語を創作することだった。
悲しい現実も、届けられなかった花束も、創作の中では喜びに変えて行ける。
支えになって、心の器にまた少し余裕ができて栄養を注ぎ込める。
ただ時折、忘れてしまうだけだ。だからこれからも何度も忘れて、
それでもしぶとく思い出していけたらと思う。
にゃぞ子も、哀しみの小舟に乗った桜を見る「僕」も私の一部分なのだろう。

冒頭のイラストが突如誕生した、にゃぞ子です。
これからも色んな彼女を描くので、見てね(笑)
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こんな感じで色々な姿を見せてくれます。
私ですらどんな彼女が出て来るのか予想できない。

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令和2年、2020年。
すっきりときれいで、心に響く音だった。
素敵な年になると思っていた。それがまさか、何百年に起こるか起こらないかの感染症が流行るなんて思わなかった。誰もがみな、この感染症に振り回されたと思う。それは、もちろん私も。手洗い、うがいはいつもの倍以上の数になり、常時マスクを着ける。外食も人数が多いと飛沫が飛び、感染の恐れがあるためなかなか気軽に出られなくなった。

そして、大きな別れがあった年でもある。
愛猫たち、22歳まで生きてくれた、最後の猫、みみちゃんが4月27日に逝ってしまい、家には猫がいなくなってしまった。今でも少しだけ猫たちのいない空間になれず、足元がよろめいたりする。私の嘆きようを見て友達は黒猫のぬいぐるみを贈って下さった。(ぬいぐるみの名前はミーコニャーニャ)
猫たちについての想いは尽きなくて、どんなに文字にしても22年分の感情は書ききれない。だからこれからも折に触れ、彼女彼らの存在については書いて行くと思います。今となってはひたすらにいとしかった彼らが果たして、家にいて幸せだったのか、それだけが気にかかる唯一のことです。

そして5月。
小学生の頃から大ファンでずっと聴き続けて来たアーティスト、ゴダイゴのギタリスト、浅野孝巳さんがご病気で逝ってしまった。信じられなくて、ニュースを探し、こんなニュース、デマに決まってると思って疑わなかったが、仲間であるミッキー吉野さんやタケカワユキヒデさんがコメントを出し、本当なのだ、と肩を落とした。もっとたくさんギターを聴きたかった。飄々とした言葉が、優しい笑顔が、そしてコロナが明けた時にはゴダイゴでステージに立つ姿が見たかった。

7月。
私自身は、ほぼ家での仕事なので、あまりコロナの影響は受けていなかったと言えるが7月に入り、義父が病気を発症した。突如状況が変わり、病院付き添いのため、毎日病院へと出向く生活になった。最初こそ、どうして義父の人生に自分が合わせなくてはならないの、と恨めしい思いでいっぱいで、妙に機嫌の悪い顔で通院していたが、義父を待つ40分ほどの時間を、患者さんがあまり来ない隅の席を選び、缶コーヒーを飲みながら本を読むのが日課になり、私の積読本がみるみる消化されていったので現在は良しとしている。

8月になっても9月になっても、酷暑と戦いつつ、猫たちのことが頭から離れない日々を過ごしていた。しかし10月。突如降って湧いたかのようなニュースが。コロナ禍の中でずっと継続していたツアーを中止せざるを得ない状況だった大澤誉志幸さんが、北海道に来てくれるとのこと。思えばコロナが流行る前、北見市へのライブが決定していたのだが、こんなことになり、半ば諦めていたところだった。大澤さんは「絶対北海道に行くから」と言っていたのを思い出し、まさか本当に約束を守ってくださるなんて、と感慨深く思い、私も参加を決めた。小学生以来の小樽だった。その記述についてはしつこいくらい語っております。↓ こちらをどうぞ。

小樽慕情 1

  

このような状況になり、初めて風邪以外で着けていなくてはならないマスクは息苦しいと思った。それでも夏を越え、涼しい秋を経て、やっと冬の空気でなじんできた。きっとまだまだマスク生活は避けられないだろうけれど、早く、少しくらいマスクを外しても平気な未来が見えると幸いだと思う。それまではどんなに息苦しくてもずっと着け続けます。好きな人の三日月のような唇の笑顔が、マスクなしで早く見られますように。そしてその笑顔を微笑んで見つめられるようになれますように。心からそう願う。(「2」で終わりです、はい。)

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先月から、気になるひとがいた。
いつも面と向かい合った時しか挨拶もしなくて、パソコンを触る横顔くらいしか見たことがなかった。昨年末から今年に入りコロナが流行し、マスクをつけるようになると、ますます表情がわからず怖いくらいだった。そしてなにより、彼はもう20年くらい前から顔を知っているひとなのだ。

きっかけは、ある日私がそのひとのいる職場に読んでいた本を忘れてしまった時だ。
色々な場所を探した末に、そこへ電話をかけて確認しようとすると彼が出た。私は前述の印象で少しだけ苦手意識を持っており緊張したけれど、思いの外やさしい口調で「あ、ちょっと待ってくださいね」と受話器を置き、私がいつもいる場まで行ってくれたのだろう。見つけて「置いてありました」と言った。その声が微笑みを含んでいたので戸惑った。一体私はどれだけ恐ろしい印象を彼に持っていたのだろうか。とにかくその日、忘れた本を取りに再びその場へ行った。彼はすぐに私の姿を見つけ、すっと本を差し出してくれた。向かい合い、にっこりとマスク越しに笑っていた。その笑顔を見て更に動揺して「お手数をおかけしました」のひとことすらめちゃくちゃになったが、そのくらい驚いてしまったのだ。

その日以来、どうにも視線が彼に向いてしまう。
おおよそ、その場にそぐわないようなことまで話したりして、私は何を言ってるんだろう、絶対変なやつだと思われている、と家でひとりバカみたいに思い返しては赤面した。大体、名前も知らない。だから知りたいと思い、ある日、その場にそのひとしかいない時を見計らって駆け出し、アクリル板越しに名前を聞いた。そのひとは驚いて「僕ですか?」と逆に問いかけて来たので「はい」とだけ言った。そして彼は上の名だけ名乗ったので更に「下は」と聞いた。下の名前を教えてくれた彼に向かって反芻してみた。彼は頷いた。名前を知ることができた。その時よぎったもうひとつの質問があったのだが、誰か来たら困るのでそのままそこで面と向かうことをやめてしまった。

そこから数日経ち、年内彼に会えるのが今日で最後だったため、思い切って声をかけようと思った。もちろん、好きです、とかではない。そこまで知らない。ただ仲良くなりたい。学生のようだが友達になりたいと思った。けれど名前を聞いた日のようになかなかふたりになることができない。年末だし多忙な時期なのだろうしできる限り邪魔したくない。だから小さなメモに託し、今日何とか彼がひとりでいる時を強引に見つけて手渡した。時間がある時に、と言って。
しばらくすると彼が本を読む私の許にやって来て、そばに屈んで「読みました」と言った。
彼は既に結婚していて、小さなお子さんもいると言う。既婚者であることは年齢的に想定内であったが彼自身の口から聴いてしまうとそこから進められるものは何もなかったので、私はただただ恐縮して頭を下げるだけだった。でも、ここでなら全然話をしても平気です、と仰ってくださった(敬いすぎか)私が書いたメモの中には、どんな返答であったとしても私はこれまでとまったく変わらず接するのでお気になさらないでください。と既に記していた。だから来年もごく普通に変わりなく、おはようございます、と挨拶をするだろう。別に恋愛ではなくて、友達になりたかったのだから。

そんな訳で、それでも今日は本を読めず放心していた。
メモを読んでくれて、そばに来て向かい合ってくれたことが嬉しかった。せつないだとか泣くとか、そこまで重い気持ちではなかったけれど少し堪えた。鼓動が早く打ち、何も手につかない気持ちで返事を待つ、と言う感覚が久しぶりで疲れてしまったのだろう。ただ、彼を意識した月日(と言っても一か月ほど)の中で如何に自分が自分に優しくなかったかを知ったように思う。髪はずっと灰色で、時にはすっぴんで服さえ着ていればいいだろう、というくらいの酷い出で立ちで、今考えると本当に恥ずかしくてサンドバックがあったら全力で殴りたくなるが、そこから彼の目に触れる場所をできる限り、少しだけでもきれいに見せたくて、毎日化粧を研究し、アイラインなんかも工夫し、髪の色を明るくしたのは言わずもがな、直接、いちばん目に入るであろう指先を整えたくて毎日、毎朝、手入れをした。そんなふうにしていた私を俯瞰で見て、悩みが分散されずひとつに絞られていて答えが見える状態でいいなと思った。だから、自分をきれいにする、ということはやめたくないな、と思う。自分がいちばん心地良いからだ。

何も始まってはいないまま終わったけれど、この時間が私自身を少し繊細にしたことは確かで、これをこの先、創作活動に活かせたらいいな、と小説書きは思うのだ。私は幸せだ。


 ー そこにそっとそのひとがいるだけで、目に入るすべてのものが輝きに満ちて映る。

さて。
小樽の大澤誉志幸さんのライブから既に2週間経とうとしています。
私はやっと体を休め、帰ってきたーと実感しております(遅い。遅すぎる…)このように、現実を体に浸透させることにかなり時間を要してしまう体質(性質?)なもので、もう既に新たな明日に向かっている皆さんが多い中、私自身も悔いのない11月を迎えるため、小樽から札幌まで行き、帰りの高速バスの中でのことも書いてしまわなくてはと思いました。17日はこの方のお話を。
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タケカワユキヒデさんです。

帰りであるこの日(10月17日)は偶然、タケカワユキヒデさんのライブが配信される日でもありました。旅の途中だったのなら観ることは諦めたと思いますが、何と言うことでしょう。帰りのバスの中、という時間帯だったのです。バスの中ではあまり好みじゃない映画が流れ、10分ほどの休憩以外5時間ほど同じ格好のまま座席に座りっぱなしの苦痛の時間。もちろん感謝している。しかしそれとは別のところでまたこんなふうにも思うのである。それは仕方がないことだろう。私より一つ下の男友達がライブ好きでやはり高速バスを利用せざるを得ない状況になった時、特に夜行バスは辛かった、ともらしていた。というのは夜行バスは照明が消されてしまうので読書もできずスマホも明るく迷惑になるため、使用することなど言語道断。そこはただ眠るだけの空間になる。眠れない場合どうなるか。そこは地獄だ。彼は言った。
「強い酒の一杯でも飲まないとやってられない」
そのくらい年を重ねた後の高速バス(特に夜行)は辛い。足にも腰にも来る。私も数年前、座席がちょうどタイヤの上という場所に当たり、足の血流が滞り、命の危機を感じた。(いや、上げたり下げたりくらいしよう)

そんな今回ですが、夕方であり、スマホオッケーの状態。
タケカワさんの今回の配信は、17日、横浜mint hall「僕はsinger vo.1」略して「僕シン」というタイトルのライブでした。そこで配信も一緒にやってくれるとのこと。1部と2部に分かれており、私は2部から観られる状況だったので、スマホからいそいそとチケット購入(こんな時、文明の機器は素晴らしいと思う)イヤホン準備。いつでも観られる楽な姿勢を取った。

タケカワさんと今回一緒に演奏するのは、ゴダイゴのサポートメンバーとしても活躍されている、竹越かずゆきさん。澄んだバランスの取れたきれいな声と素晴らしい音楽センスの持ち主です。今回はその竹越さんが選曲をされたそう。既に1部が終了しており、和やかな雰囲気の中始まった。この日の選曲はスタッフさんがツイート。

2部は嬉しいサプライズがありました。
竹越さんが選んだ曲の中にタケカワさんのソロ「Happy Birthday」がありますが、歌おうとしたまさにその時、花束を持って娘の基さんが黒いマスクをして登場。タケカワさん、ご自分の誕生日(10月22日)をすっかり忘れてらしたそうで本気で驚いていました。照れ隠しなのか本性なのか、基さんに向かって、
「我が娘ながら、黒マスクだと悪者に見えるなあ」と仰って笑ってハグをしておりました。そして竹越さんがハッピーバースデイトゥー タケカワさーん♩と、歌い、会場は拍手。
タケカワさんと言う人は誰かを喜ばせることには躊躇しないのに、自分が祝福されると照れてしまう人なのだな。そうして歌った「Happy Birthday」。実はこの曲の冒頭、小さな子がアカペラで歌うところから始まっておりますが、その子が今回花束を持って来た基さんなのでした。美しく立派に成長されて目の前で微笑む娘さんと微笑み返すタケカワさん。時の流れを感じさせつつ、ゴダイゴが活躍した初期を知っている私個人にとってもグッと胸にくるシーンでありました。

タケカワさんと竹越さんの "タケ竹" ハーモニーは互いの呼吸の合わせ方はもちろんのこと、声の相性も素晴らしくてアンコールにてタケカワさんの初期のソロアルバムの名曲「Lyena」を歌い始めた時は嬉しくて堪らなかったのですが、なな、なんと、そこで突如バスは山の中に入り圏外に。一気に現実に引き戻される私。ああ、あのラストの方でリピートされる美しいハーモニーが丸ごと聴けませんでした。残念。美しかっただろうなあ。まあ、こんなこともある。最後は恒例となった「銀河鉄道999」でのラストなのですが、再度アンコールを望む拍手の多さで急遽出て来てくれました。本当にアンコールもすべて終えたので帰るばかりだった、と言うタケカワさんでしたが、もう一曲だけね、と1部で歌ったゴダイゴの「Back in time」を歌ってくれました。

こちらの曲です。2011年のゴダイゴのEP「Walking On」のカップリング。作詞はタケカワさんと、娘でミュージシャンである愛さんとの共作です。


途中、圏外になったことを除き、とても良い時間を過ごさせてもらいました(リラックスし過ぎて気づくと椅子の上に足上げてたしなw)終えるとすぐにイヤホンをしまってスマホもオフ。大澤さんとタケカワさんの曲を耳の中で交互に反芻しながら少しばかり目を閉じ、帰途に着いたのでした。

このように、なんて贅沢な2日間だったことでしょう。
美味しくて楽しくてときめいて笑い合って、そんな2日間。胸に残る最高のお土産は感動でした。今でも昨日のことのように思い起こす幸せなライブふたつ。このふたつを書けて良かった。昨日のことのよう、と言いつつ記憶はかなり消えています。それでもこうして少しでも書き残せたら悔いなく11月へと飛び込んでいけることでしょう! 読んで下さった方、どうもありがとうございます。また遊びに来てね。

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今年に入り、小説を書くことが難しいと感じるようになった。
文章を書く時は、上手かどうかはさておき、いつもためらったりしなかったのに。
必要以上に筆が止まるのがもどかしい。どうしてなんだろう。

しかしそれにはきちんと理由があって。
いくつか原因になる事柄なんかも考えた。以前よく投稿していた場での「書き癖」があったり、日常の変化で本を読む頻度が減っていたり…etc, etc, でも一番の理由は、多分これだ。
「きれいに書こうとして、かっこつけるようになっていた。」
ちょっと気取ったふうに、小難しく見えるように。もちろんそういう文章が好きだからだけども、自然に出てくるものでなければそれはそのまま不自然になるし、肝心の思いが伝わらない。

だからここ数日、自分の過去の小説や読書感想、このブログなども振り返って読んでみた。
日によってかなり差がある。もちろん調子が出ない日もあり、それは(多分)自分にしか判らない部分だけど、それでも残すからにはある程度の水準というのかな、自分の中の尺度でその水準を満たしている文章だけを残したいと考えている。
その水準を上げ過ぎたのだろう。書き始めから妙にきれいに書こうとしてしまうものだから、肩に力が入って緊張して、つっかえて、言葉が繋がらない。今もまだ少し指が止まるけれど、それは新しいPCの文字入力に慣れていないという理由もつけておく(笑)その上で、意識してかっこつけていない分スムースではある。ただ文章自体はきれいではない。簡単な言葉ばかりだし、情報量も少ない。本来ならばもっと緻密で、きめ細かくなだらかで、短くても長くても情報量がぎゅっと詰まった重いケーキみたいな文章を想いを込めて書きたいと思うが、そうやって最初の一行から無理するから(笑)脱落すんねん(突然の関西弁)

そう。このように、色々ごちゃごちゃ絡めて、お喋りみたいな部分があるのが実は私の文章の特徴なのかな、とも最近、思ってきている(あまり認めたくなかったけど…)で、ぺらぺら喋るように書いて調子が良い時は上等だと思える比喩が生まれたりする。要するに日記的な感じでもう少し以前のように、ちょこちょこ更新していないと実際に紙に書く時のように書き方を忘れてしまうんだろう。学生じゃないから毎日ノートをつける訳でもない。大人になったらスケジュール以外に自らの感情を書いて行かないとスムースからは遠く離れてしまう。気づいているようで実は一番忘れやすいことだ。反省。

さっきからスムースという単語を何度か使っているけど、私が書くことで大事にしているのがこのスムース(smooth)という部分。だだだーっと書けること。もちろん推敲込みの話で。そこが強みだとも思っていて、1から書き出して100も1000も書いた中からいらない箇所を見つけて削る、という「大幅な推敲感覚」が私に必要なスムースで、それができないと来れば…焦りもしますね。自分の色だったり核だったりする部分なんだから。そこに気が付けて幸いだった。ずっと書けない理由も判らず、ただ慌てていたって解決しなかった。

そんな訳で、こうしてただ喋るように書く、という大事な部分、多分過去にも何度か書いているであろうこの部分をもっと意識的にやっていかなければ、と思う。いつでも本番に備えられるよう、普段から言葉の柔軟性を鍛えておかなくてはならない。ちなみにこのスムースは読まれて初めて活きる部分。書く時は表すものの倍以上、言葉が必要になり、そのあといらない部分を削る。当然、文字数は少なくなるが、それは大事なスムースのために必要な作業。

現在、夕飯の献立を考えるだけで憂鬱で、しんどくなってしまう精神状態だけど書くことは放棄できない。私は書くことしかできないから。もう、この間51歳の誕生日も迎えたことだし(これは大きい。もう人生の半分以上を生きているということだから)言い切ってしまおう。私にとって書くことは、脳から心を通って指先へ伝わり、PCのキーボードへと流れだし、視覚で感じること。生きてる、と。

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※画像は StartupStockPhotosによるPixabay より。

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遅くなりましたが、6月27日に、
うちでは今のところ最後の猫、みみちゃんが亡くなってから2ヶ月経ちました。
驚くほど呆けたような毎日です。色んなくせは抜けないし、
思い出しては未だ郷愁のように涙ぐみそうになるけれど、
同時に、確実に時が経っているとも思える。
そしてより一層猫たちと私の距離だとか、性格だとか、私の接し方だとかが見えてきた。
何かが起こった時、いつもほぼ私一人でやらなければならなかったのはストレスだった
一緒にやっていたはずの母は、病気になり、いつの間にか猫のことを忘れてしまい、
いつしか一緒にいる時ですら撫でることもしなくなった。
母が連れてきた猫たちだがその猫たちの生涯を母は結局知ることはなかった。
義父は、悪い意味ではなく猫を飼う、ということに他人事で、
ひっくり返って寝てたりとかそういうご機嫌な時だけ撫でたりするのみだった。

猫たちとの暮らしは正直、重荷ではあった。
もちろん声を大にして言いたいのは、嫌いと言うことじゃなくて。
むしろ弱ってくると私よりも長くはない命を思い、
離したくない気持ちが強くなり、
その思いに圧し潰されてしまいそうだった。
年も取ってきて病気がちになった猫を病院に連れて行き、
毎日の薬を飲ませ、ご飯の工夫をし、排泄の状態を見る。
もちろん毛並みも放っておけない。
段々年と共に自分で毛繕いをしなくなる子もいた。
そうなると代わりにしてあげないとならない。
敷いてあるタオルなどはまめに洗濯しなければ毛だらけになる。
今こうして書き出していると、まるで悪口のように聞こえてしまうが、
そんなふうに、ただ可愛いだけでは過ごしていけない日常があった、という事実だ。

彼らを見つめ続けた22年間だった。
それが今年に入ってすべてがなくなった。なくなってしまった。
魚を食べる時もツナ缶を開ける時も後ろを気にしてドキドキすることも、もうない。
そして先に書いた「呆けた」状態へと繋がる。

私はまたいつか猫を飼う時が来るのだろうか。
今の時点では考えられない。まずは暮らしを整えなければという問題があるし、
年老いてきた義父のことを思うと毎日の暮らしは簡単ではなく、
母と同じようには見てあげられないので、可能な限りケアマネさんも巻き込み、
施設も頭に入れつつ、慎重に介護認定なども毎年行なってもらう。
私も今の家から出て、一人暮らしの準備もしたい。
一人暮らし、まで行けば色々とまた思考にも変化が起きるだろう。
何もかもに絶対、ということは有り得ないが、私はまず、私に還る必要がある。
誰かに属し、自分を二の次にしていたクセから抜け出さなければならない。
そんな客観性がやっと姿を見せた感じがする。長かった。本当に長かった。

その中で、たった今胸に残っているのは、ただひたすら可愛かった、すごく可愛かった、と言う猫たちへの想いだけだ。大変だったと書きながら、あの柔らかな被毛を撫で、
手が触れる位置で眠る姿を見たい、と思っている。
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画像は一番上がくろちゃん。
左上、みみちゃん 右上、ななちゃん
左下、ろでむちゃん 右下、らむ子さん
一番下、らむ子さんがうちに来る前のくろちゃん親子。

くろ、なな、ろではくっついてごはんを食べるのに、
なぜか、みみだけはいつも少し場所を離れて食べていた。

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令和2年4月27日、みみちゃんが22歳で逝ってしまいました。
もちろん大往生です。最後は持病が急変し、
病院に預けてそのままになってしまいましたが、
みみちゃんの最期はすーっと眠るようだったと教えてくれました。

彼女は暮らした猫たちの中で一番の淋しがりやさんだったので、
病院のスタッフさんが常時ワイワイ、と周りにいてくれて、
優しくしてくれて、安心して眠れたのだと思います。
看取ってあげられなかったのは残念ですが、
家に連れて帰ってから、ふたりになってお話をしました。
それでもやっぱり出てくる言葉は「ありがとう」でした。

この家で暮らしてくれて、
ずっと愛させてくれて、
そして、さよならもさせてくれて。
みみちゃんの存在そのものすべてに「ありがとう」を。

葬儀場でお別れ前にたくさん撫でて、
花に囲まれ、大好きだったカリカリを添えて送りました。
虹の橋を渡り、今は同じ場所にいるであろう、
くろちゃん(ママ)、ろでちゃん、ななちゃん、
そして、らむ子さんと会えたかな。
一緒に遊んでぺろぺろ舐めあいっこして、
どこも痛くもなく苦しくもない体で、自由に飛び回っているかな。
そうだといい、というこんな思いは都合の良い想像でしかありませんが、
どうしても願ってしまう自分がいます。
そしてわがままだけど、私の夢の中にも会いに来て欲しい。

みみちゃんが逝って、私の家に猫がいなくなりました。
みみちゃんが最後の子でした。
彼女たちのいない23年目に向かう春は、なかなか慣れない。
けれど、そのままで次の春へゆこうと思います。
悲しみも、愛したことも、記憶へと変わるけれど、
大切にしたい。忘れてしまいたくない。胸の痛みは時間にまかせて。
私の心に住み着いているのは優しい春風たち。
大好きだよ。これから先も、ずっと。
どうもありがとう。

※上画像の絵は、今日葬儀場にあったノートに描き残してきたみみちゃんです。

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お久しぶりです。
2月からまた随分時間を置いてしまいました。
ここ最近、普通に紙の日記帳にペンで書いています。
「マイブック」という新潮文庫から出ている、
本当に文庫本と同じ作りで、中身は日付けだけが印字してあって、
そこに文庫本と同じ形式で縦書きにつらつらと書いて1ページ。
毎日続けて12月31日になったら1冊完成する、というもの。

2002年にもこの日記をつけていて、
とても役立ったなあ、と思い返し、
2月の中旬辺りに購入して中途半端ですがそこから書いています。
ほぼ、スケジュール帳のように使っているので、
みみちゃん(愛猫)が通院した日のレシートや、
いただいた手紙やお菓子についていたシールなどを貼って、
ますます思い出を具体的な形にしていっております。
毎日1ページ、という量もまた続けやすいのだと思う。
どんなに遠慮なく書いているようでもSNSはいくらか気を使うので、
あけすけに書けるものがひとつでもあるのはいいものです(笑)

さて、そんな今日ですが、
お知らせは特にありません(笑)
あるにはあります。とびきり大きなお知らせが。
しかししばらくブログを書いていなかったので、
今日はとりあえず、PCで文字を書く練習ということで。
(小説とはまた違って緊張するのです)

令和元年末、まるで中世時代のように感染症が発生し、
現在、世界中を覆う勢いで蔓延し、連日報道されています。
ロックダウンなんて言葉も突然発表されましたが、
普段聞いたこともない単語なので時折忘れます。
「都市封鎖」という意味らしいですが、
日本はそこまでの意味ではなく「外出制限」と言うに留まっています。
漫画や映画の中でしか聞かなかったような、
パンデミックという状況に陥っており、死者も多数出ております。
発生した感染症(新型コロナウイルス)にはまだ治療薬がないため、
私たちが気をつけることは、ウイルスを体内に侵入させないように、
手洗いを念入りにして、急な用事以外はなるべく家にいて、
うつされないよう、またキャリアにならないようにすること。

私自身は普段から家のお仕事なので、
それほど困ることはないのですが、
それでも自らの意志で外出しないのと、
外出できない、というのは全く違うのでとても窮屈に感じます。
きっとたくさんの人がそう感じているでしょう。
世間ではマスクの他、なぜかトイレットペーパーが品切れになるなど、
昭和時代のオイルショックのような出来事が起きていて、
ドラッグストアには連日長蛇の列ができていました。
そのような職場で働く友達に聞いたところ、
品切れしたマスクを求める客によって、殺伐とした空気だったようです。
令和に起こった感染症パニックは思ってもいないところで、
人間の浅はかさが思いがけず掘り起こされたように思います。
けれど落ち着かなければ。せっかく人間なのだから…。
今年開催予定だった東京五輪も延期になりました。
様々なイベントも中止です。

それでも生きていかなければ。私にはみみちゃんがいる。
今も彼女は隣でまあるくなって眠っています。
現在の発表ではペットに感染しない、とのことなので、
何となくそこだけは安堵していますが、どうなるか判らないのも事実。
どうかこのまま収束に向かってくれれば、と願うばかりです。
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心を落ち着けるには、
みみちゃんと一緒に飲む一杯のコーヒー。

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