First Kiss

幸坂かゆり Weblog

カテゴリ: 日常ダイナマイト


※mixi日記

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何だか驚いたなあ。 

2ちゃんねるという場所は、 
好きな人関連(大澤さんとか小塚くんとか)で見にいくと、 
必ずと言っていいほど傷ついてよろよろになって帰ってきた。 

しかし、どこの板でどこのスレかは書けないけれど、 
今の私にはかなり居心地の良いスレがある。 
もちろん、荒しはちょこまか入るが、 
住人は無視しているし、何よりそばにいるはずの家族よりも、 
気持ちをわかってくれる。 

とは言っても、参加している訳ではない。 
ただ読ませてもらってるだけ。 
多分私が2ちゃんねるに書き込んだりしたら、 
間違いだらけになって「半年ROMれ」と絶対言われる(笑) 
ツイッターのRTでさえ、間違える始末だ。 

いやそれは置いておいて。 

いつも介護の話で申し訳ないのですが、 
父は母の介護をほとんどしていない。 
ほとんど?全部? 
今日もだったけれど、 
お昼ごはんを用意し出したので、 
場所を離れていたら(台所にふたりもいると狭いので) 
自分の分しか用意しなかった。 
母は目の前に座っているのに。 
この前もそんなことがあった。 
問いただすと「寝てたから」起こさず自分だけで終わらせてしまったのだ。 
寝てるったって、椅子にだ。ベッドにいる訳ではない。 

でも、父が介護を嫌がっているのはわかっている。 
一度だけ私が疲れて寝ていた時、 
たまには起こさないでやるか、という気持ちを持ってくれて、 
母に一口ずつ、スプーンで食べさせてくれた。 
なぜそれを私が知っているか。 
自慢げに話されたからだ。 
が、そこでたまらなくなったのだろう。 
もう一切それはなし。 
私がどんなに疲れていようが、具合が悪かろうが、 
母がトイレに行けば大声で私を呼ぶ。 
私が反応しなくても、自室に閉じこもってしまう。 
ごはんについても何かしてくれるような態度はない。 

なのに、近所には「下の世話も大変で・・・」なんて神妙に言う。 
私はいないことになっているの? 
私は一体どこにいるの。 
私は何者なの。 
母の娘だから介護して当然とか思ってるのか。 
それを言うのならあなたは伴侶ではないか。 
今日も母が自分ひとりで起きてきて、ひとりでできないトイレに行ってしまった。 
運の悪い事に、大きい方だった。 
母はリハパンを脱いだまでは良かったけれど、 
それをリビングのゴミ箱に捨て、 
何も着けず、濡れたパジャマを上から履いてしまっていた。 
父はその姿を見て大興奮してしまい、 
寝ている私を大声で呼んだ。 
私の寝室は2階なので階段を下りる、という手間もあるのに、 
その間に携帯電話まで鳴らした。 

「お願いだからそんなに取り乱さないでよ」 
と、言い、おっかなびっくりつまもうとしていたリビングの汚れたパンツを、 
私がつまみあげ、いつもの汚物入れに放り投げた。 
トイレの中は惨状だった。 
どこもかしこもうんちだらけ。 
触れるところはすべて。 
水の流し方もわからなくなっているので、 
便器の中までうんちだらけ。 
父はそれを見ていない。 
おそらく見たらとんでもない事になっていただろう。 

もちろん、そんな片付けは私だって嫌だけど、 
やらないといけないじゃないか。 
というか、私は毎日そうやって片付けてるんだよ! 
ごはんだって毎食毎食一口ずつ、あーん、ってやってるの、 
同じテーブルなんだから見てるでしょう。 
それを思い出すと、洗濯中に頭が沸騰しそうになって、 
洗濯かごを床にぶつけたり、 
タオルみたいに柔かいものは、 
ばーんと投げて発散した。 
あ、いかん。思い出し荒ぶりが(汗 

ショートステイの相談を本当に命がけのように相談した時も、 
「色んなところを転々とさせるのはかわいそうだし」と言われ、 
実際、ケアマネさんに相談したらショートステイは空きがなかった。 
施設についてもそれは同じ。 
デイサービスの日はほぼ寝てる事で終わる。 
父は毎日パークゴルフにでかけていて、 
元気でいいなあ、と思っていたが、 
「かわいそうだから」という言葉が出てくるくらい、 
介護に関わっていないからだ、と思った。 
私、3日くらいいなくなってみようかな。 
全部紙に書いて渡しておいて、 
父が起きたらいないの。 
そして3日経って、新ためてショートや施設について考えるのは、 
かわいそうだと思う?と聞いてみようかな。 

父はゴミ出しはやってくれる。分別はもちろん私もやる。 
先に書いたように自分の分の調理ならワンパターンでもできる。 
だから今日、 
「父は一人暮らしをしてるみたいだね」と言った。 
言葉は何も返ってこなかった。 


※ ※ ※ 

こんな話がかわいく思えるくらい壮絶な実体験が、 
2ちゃんねるのスレの連中にも起こっている。 
しかし、どんな事でも言えてしまうあの場所が、 
これほど気楽に思えるほどなので、 
やっぱり私も、彼ら同様いっぱいいっぱいなのだろう。 

精一杯グチったよ。寝よう。 
明日も介護だ。一人の介護は生き地獄だね。 
逃れられないんだもんね。 


2012年05月27日

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この辺りで、現実で誰にも判ってもらえなくて 悩み始めた。
家にいつもいる人、姉妹、そうした一番身近にいると思っていた人に、
まるで私が透明人間なんじゃないかと思えて、疑問だらけだった。
だから普段見ないようなサイトまで行ったのだろう。
藁をも掴む思いだった。
もう投げっぱなしのグチのつもりで書いた日記でしたが、
皆さんのコメントがとても優しくて、それでいて冷静に聞いてくれて、
「会話」をできたことが本当にありがたかった。

もしもあの時、彼らに見放されたら動けなかっただろう。
しかしこれほど後ろ向きになっていても、逃げられないのは恐ろしい。
本当に、今思えば。

こうして転載するにあたって読み返してもぞっとします。
一年前の話になるなんて。


2013年(平成25年)6月26日 転載 

※mixi日記

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2012年05月20日

昨日、今日と急な来客があった。 
ふたりとも、ご婦人。 
母の友達と、近所の方。 
それぞれにポテトサラダ、煮物を持ってきてくれた。 

当然、それは何の見返りもないいただきもの。 
ご婦人は言う。 
「私が勝手にやっていることだから気にしないで」 
「元気かい?無理しないでね」 
ふたりとも、母が元気な頃から共に生き、 
色々な話をしていた。 
片や、社会との接点で、 
片や、草むしりなんぞしながら。 
母は少し天然なんて呼ばれるようなひとで、 
それこそヘタすると傷つけてしまいかねない一言を出すこともあったが、 
案外そんなあっけらかんとした性分のおかげで、仲の悪いひとが近所にはおらず、 
却って他人から省かれてしまったひとが母と話したりしていた。 
もちろん、ご近所と波風を立てたくない気持ちもあったが、 
母はあまり気にしないひとだった。 
社会的地位が上だとか下だとか、 
高価なものを身につけて自慢げにするとか、そんなものは。 

母が病気になってから、 
離れていったひと、こうして離れず、心配でわざわざ来てくれるひと、 
それぞれだけれど、残ってくれたひとを見ていて、 
ああ、母は好かれていたのだな、と思う。 
愛称で呼ばれ、親しまれている。 

私もそんな母を見習いたいなあと思った。 
色々と複雑な思いで、胸がざわめいていたこともあるけれど、 
なんだかすべてが遠い日々に思える。 
母はもう、5分もすれば物事を憶えていない。 
それが、悲しいときもあるけれど、 
幸せなことでもある気が、最近する。 

そのつど、教えてコミュニケーションをとれる。 
何度も単純なギャグのような言葉で笑わせられる。 
そして、音楽を聴くのが好きなことだけは変わらない。 

昭和歌謡が大好きな母は、 
デイサービスでみんなのカラオケを聴くのが楽しみだそうで、 
誰かが歌うと終始、笑顔を浮かべて楽しそうに聴いているらしい。 
そして時折、知っている曲に出会うと「この曲好き」なんて言う。 
音楽の記憶の何と言う雄弁さよ。 
母が昔、一度目の結婚していた頃よく聴いたのは、ベンチャーズだった。 
家にはまだレコードが残っている。 
なので、この間大澤さんがラジオで弾き語りしてくれた、 
渚ゆう子の「京都慕情」も、もちろん知っていて、 
今日、イヤフォンを耳に充てて、聴かせたら、 
誠に嬉しそうな面持ちになった。(誠にって・笑 
母は、いつからこんなに幸せな笑顔を浮かべるようになったのだろう。 


とは言え、 

もちろん、介護する生活は朝「おはよー」とおどけて部屋に入り、 
「おやすみー」と布団をかけるまで延々と続き、 
やはり疲労は蓄積されている。 
時々腰も痛いし、頭などは毎日鈍痛がある。 
こんな文章のように自分が穏やかなときばかりではない。 
毎朝、パークゴルフに行き、介護に関しては何もしない父に、 
腹を立てたりも、もちろんする。 
でも怒れなくなった。 
何度も意味のないような行動に目を離せなくても、 
叱ったところで両者のためにならなくて、時間も無駄にする。 

なぜなら、母の状況は日に日に悪くなっている。 
それもゆっくりではなく、ある日突然、昨日できていたことができなくなる。 
良くなることがないのだ。そんな覚悟も常に必要になった。 
そして母はしかり、父も高齢であり、私も40代に入っている。 
もう家の人間に、何が起こってもおかしくない。 
猫たちだって年をとっていく。 

そんな見えない恐ろしさと、 
すっかり柔かくなってしまった手のひらと、 
毎日を暮らしている。 
もうすぐ夏が来るんだなあ。 
早いなあ、なんて思いながら。 

私は、少しわがままでも、 
自分の好きなことは小さくてもやっていようと思っている。 
母と母の友人との仲を見て、 
私も人との繋がりは大切にしようと新ためて思う。 
感謝の気持ちを常に持つこと。 
人との軋轢や確執などはなるべく回避する。 
ずるさや方便の嘘、そこに純粋をミックスする。 
そんなふうに母を通して勉強もさせてもらっている。 
家族も大事だけれど、私は私自身も大事なのだ。 
生きていかなくちゃならないからね。 


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今思い出すときつい。
あの状況も、若干美談にしている自分の文章も。

ここに書いた母のご友人ですが、入院後、
偶然街で姉と会い、母の現在の状況を知らせたと言う。
「お見舞いに行こうかな」と言っていたよ、と聞いたが、
いくら感謝している母のご友人とは言え、
入院先にお見舞いに行って欲しいとは思わないのです。
いや、ご友人だからこそ余計。
母は療養入院ではあるけれど、
閉鎖病棟は一般病棟しか知らない人にはショックだと思う。

私自身が精神的な治療で別の病院ではあるけれど閉鎖病棟に入った時、
見舞いや面会に来て欲しくなかった。

考えすぎかな。

2013年(平成25年)6月25日 転載 


※mixi日記より

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こちら(mixi)で書くことが少しだけ、 
多くなりそうな予感を孕みつつ・・・。 
すいません。 
長文です。 

今日は母のデイサービスの日でした。 
早いものでもう10回目の利用になります。 
本当は週2回なので1回多いのです。 

先々週、父が急に胃が痛い、汗が吹き出る、と、 
近所のかかりつけの病院まで(徒歩2分ほど)タクシーで移動。 
胃腸炎の疑い、との事で、食べ物に関する説明などを受け、帰宅。 
次の日、何もなかったかのようでしたが、 
翌週、今度は夜中に私の名前を呼ぶ父の声が。 
すぐにベッドに飛んでいくと、めまいがして歩けないという。 
嘔吐もして、上体を前に曲げ、動けなさそうだったので119に電話。 
救急車に来てもらい、夜間診療をしている病院へ。 
緊急で専門外だったので詳しい結果はわからなかったけれど、 
専門の病院への紹介状を書いていただき、めまい止めの薬を打って帰った。 

次の日、母一人を家に置いて行く訳にはいかないので、 
急遽、デイサービスに連絡。 
利用の日ではなかったけれど、 
すんなり「お迎えにあがりますよ」と言ってくれた。 
またしても急遽デイの用意を鞄に詰め、母を送り出した。 


その後、父の病院に付き添い。 
検査の結果、内耳性めまい症。 
数日、点滴に通ってね、とのこと。 
父はすっかり気落ちして弱気になった。 
ちょっとした事でめまいがする、耳鳴りがする、と、怯えていた。 

が、 

点滴治療を始めるというまさにその一日目、朝にめまいが起き、 
急遽姉を呼んで、病院まで送迎していただいた。 
そんな姉は連絡が疎遠になっていたこともあり、 
母はデイだし、父は病院後、 
「安静にしているように」と医師に言われていたので、 
家で寝ていてもらう事にして、 
姉とふたりで食事をしに行った。 

そこで聞いたのは、姉の体調の事だった。 
婦人科系疾患で入院して手術するという。 
「どうして言わないんだあああ!水臭いじゃないか!ワレェ!」 
と、驚きと悲しさが隠せなかった。 
手術は6月を予定しているそうで、 
姉の家には長男と長女がいるけれど、 
家族みんなが長女に頼ってしまうのでは、と危惧していた。 
うん。私もそう思う。 
姉の家は「うちの事は女性がする」という家庭なのだ。 
なので、絶対に困ったら話す事。 
私も話を聴いてもらっているのだから、と言い、 
我慢強い姉を説得。 

こんな時までガマンしなくていいんだよ。 
姉は私一人(時々父)で母の介護をしているのを知っているので、 
言うのを迷っていた。 
何を迷う。 
私はたったひとりの妹で、 
あなたはたったひとりの姉じゃないか(ノェ;) 
父と母の具合は大変だけれど、姉の事とはそれぞれが違う話なんだよ。 

それから間もなく、 
父は順調に点滴治療に通い続け、おととい治療が終わった。 
するとこれがまた、急に元気が出たりして。 
なんというかもう、単純だった(笑) 
とりあえず大事に至らず良かったね、と言ったが、 
父は性格が子どもなのでもう次の日遊びに出かけてしまった。ああもう。 
とりあえず、本当に何ともなくて良かったし、 
母との生活は相変わらずなのだが、 
なんだろう。私自身、ちょっと力が出ない。 
別にどこも悪くないけれど、気力が出ないというか。 
物事ってばたばた忙しい時は案外アドレナリンが出て、 
元気にできるけれど、終わるとガタ落ちするものだよなあ、と思い、 
鬱っぽくなってる自分を自覚し、 
こういう時は休むのが一番、とわかっているけれど、 
休めないので仕方なく、安定剤を服用しながら何とかやっていくしかない、 
と、思ったのでした。 

やっぱりこうして書いた方が精神衛生上良い気がするなあ。 
案外近くにいる人間にはわかってもらえない事が多い。 
淋しい現実ではあるけれど、それもまた事実として受け止めている。 

だけど、これ見よがしにため息だけは絶対につかない。 
これは私が子どもの頃から決めている自分のルールだ。 
・・・とは言え、文章がため息だらけなんだが。ハハハ 


2012年05月01日

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今読むと、まだまだ自分に余力があるのを感じます。
考え方もこれほど変わってしまうのか、と思うほど違う。


2013年(平成25年)6月25日 転載


※mixi日記より

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こちらでの日記は、
大変久しぶりでございます。

母が認知症になりました。
その後、脳梗塞を起こしたけれど発見が早く、
2週間ほどで治療が済み退院。
その後は介護認定を受け、
要介護3という判定を受けました。
地域のケアマネージャーさんとも会い、
今日は既にデイサービス利用7回目になります。
普段は父に協力してもらいながら私が全般的に介護をしています。

しかしながら、少々疲労を感じている。
今もベッドの上からこれを書いている。
なので改行がどんなことになっているのか若干不安である。

で、

何だ?って話なんですが、
最近こうして、駄文でもいいから書き留めておきたい、
と思う気持ちが強い。

ええと、とりあえず近況でした。
好きなものは変わってないです。
そこだけは何となく伝えたかった。

心の中にはいつも、
大澤さんの音楽。
大澤さんの声。


※携帯より投稿   2012年04月23日


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2013年(平成25年)06月25日 転載 


girl_and_cat



「日常ダイナマイト」という、少々物騒な名前です。

私の実母がアルツハイマー型認知症になり、
ただ今、入院しております。
そこに行き着くまでの日々を書いていこうと思います。
ずっと在宅で介護しておりましたが、
その中で介護度も4になり、日常生活をほぼ一人でできないため、
家で看ることが困難になりました。

主介護者の私が体を壊し(ここはカテゴリ内で詳細を)、
母の入院へと至りましたが、実際はずっと入院と言う訳にもいかないと思うので、
できれば退院=特養、というのが理想ですが、なかなか難しいようです。

今は先に書いたように、介護を休憩させてもらっている状態です。
その間に少しでも、絡まった気持ちの整理や、
私自身を取り戻す、または新しい私に更新する力を蓄えるために、
こうして、気持ちを書き記しておこうと考えました。
文章のほとんどはmixiにて、友人限定公開にしているものです。
その都度、注釈を入れつつ更新しようと思いますが、
ひとつだけご注意を。

介護の話ではありますが、今介護されてる方、
私の文章では多分、役には立たないと思われます。
認知症患者は100人いれば、介護方法も100通りあると思います。
私がやってきた事と言うより、気持ちの置き場にしようとしているので、
当然、介護家族側の話が延々と続きます。
なので暗い話も、罰当たりな話もたくさん出します。
引用も、mixi日記やTwitter、はたまた現在の心境なども織り交ぜると思うので、
もしかしたら言葉を変えただけで同じ事を書いているかもしれません。
そんな理由がこのカテゴリのタイトルの由来のひとつでもあります。
私事なのでブログという公の場に書きつつも批判は一切受けつけません(笑)
それでも読みたい、という殊勝な方は、ご覧になってください。 
どうぞよろしくお願いします。

ぼちぼち更新していこうと思います。


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2013年(平成25年)6月25日 幸坂かゆり 

2013年5月22日。

前日、入院した母の必要なものを姉と買い出しに行く。
今一番足りないバスタオルを中心に寝具を物色。
なるべく安いに越したことはないが、肌に直接触れるものなので、
とにかくできる限り、商品を手に取り、広げてみて、感触を確かめる。

パジャマも、介護用品ではマジックテープ 式しか見つからず、
できればかぶるタイプか、前ボタンを探す。
朝ほぼ店が開店と同時に出かけたのに終わったのは昼過ぎ。
とりあえず、姉の車の中でタグなどを外し、
あらかじめ持参していたペンでひとつひとつに母の名前を書き込んだ。 
昨日の叫んでいる人の声が今日は外まで聞こえる。
あの声がずっと聞こえていたらこちらまでおかしくなりそうだ。
母は、大丈夫だろうか、と思う。

昨日教えられた通りにして、病棟までのドアへと向かう。
ここは呼び鈴を押すだけ、ここはノック、ここは・・・。
色んなところにマジックが仕込まれているようだった。
もちろんマジックのように楽しいものではないが。

いざ、病棟のドアを開けてもらい、入ってみると、
あの叫び声の主は違う棟にいるようで声は聞こえるけれど微かにだった。
何より、昨日よりも病棟が静かだった。
寝ている人も多いのかデイルームはしん、としていた。
母の病室を探し、入ると、私はいつものクセで、
これ以上ないくらい陽気な自分を演じ、手を振って母の近くに行った。
その瞬間、看護士さん慌てて登場。私達がセンサーマットを踏んでしまったためだ(笑)
とりあえず、電源をオフにして仕切り直し。

持参した物の数を看護士さんに知らせた。
母は眠そうにうとうとしていたが私と姉の顔はわかっていた。
そのまま寝かせておいて私と姉とで買ってきたものを、
クローゼットの形に合わせて畳み直し、積み重ねた。
なかなか上手に重ならない。でも、まあ、いいや。
その作業が終わると、母も眠そうだし、今日はここで終了。
母に「また来るね」と言った。
そのまま「うん」と聞こえたか聞こえなかったか、
既に眠りの淵に落ちていたので、そのままセンサーマットをオンにして部屋を出た。

姉と一緒に車に戻ると昨日に引き続き、ぐったりした。
あまり物を深く考えられなかった。
帰りはミスタードーナツに行き、温かいカフェオレとオールドファッションを頼んで、
少しだけ呼吸を整えた。
時計を見て4時半を過ぎた頃、思わず「母がデイから戻る」と思ってしまった。
姉にそれを言う。
「習慣になってたんだよ。ゆっくり休みなよ」
「うん」
言葉とは裏腹に何となく休めないような気がした。
この日、ただ夕飯作るだけなのに家に戻りたくないなあ、と思っていると、
姪が姉に電話をしてきて買い物につきあって、と行ってきたので、
私もつき合わせてもらう事にした。

姪っ子の顔も久しぶりに見た。きらきらしていた。
長いまっすぐな髪も、すらりとした長い足にヒールの高い靴も、
短いデニムのホットパンツも、何もかもが似合っていてまぶしかった。
久しぶりに見る洋服屋さんや雑貨屋さん。
私、こういうのを見るの大好きだったんだよなあ、と、
最後に来たのはいつだったか考える。3年は経っていた。
鏡に映る自分は・・・ちょっと色々残念だった(笑)

この日、家に着いたら8時を過ぎていた。
父は既に寝ていた。家の中の後片付けをしてゆっくりしてから、
明日何もないことを確認してから眠りについた。

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2013年(平成25年)6月22日 推敲


walk


お久しぶりです。
最近、一ヶ月に一度更新、
というのが当然のようになってしまっていますが、
今日は近況報告を。


◇ ◆ ◇

本題です。

数年介護していた母ですが、
今月21日、急遽入院しました。療養入院です。
入院してもらった、という感じです。
理由は、私自身がもう限界だったため。

その後、入院するための準備を整え、
荷物を揃え、持っていき、
そこからは何もしていません。
燃え尽き症候群に陥ってしまったようです。
それは今も続いていて、
夢は私を苦しめ、起きているときも、
どこかで見えないなにかに追われているようです。

母が入院した次の日から、
強い罪悪感に苛まれて、
様々な自虐的な思考が頭に浮かび、
心がうろうろしています。
以前のように、何かをしたい、どこかに行きたい、
という気持ちは生まれてくるのだろうか。
そんなふうに思いながら毎日暮らしています。
けれど、医師や周りの方からは仕方がないと言ってもらっています。
限界はとっくに過ぎていたと。

今はとにかく、
ネットで散々心配をかけてしまった友人や、
ツイッターのフォロワーさん、mixiの友人の皆さんに、
心から感謝をしております。本当にどうもありがとうございます。
私は、現実の言葉より、指の方が若干饒舌で、
時に行き過ぎてしまうくらい喋っていたので、
本当にたくさん不安な思いをさせてしまったと思います。
なので、感謝と同時に申し訳なく、恐縮でもあります。

母への想いと、
自分の体力気力は別問題だと、
とりあえず今は、そう自分に言い聞かせて、
私は、私の選んだ自由の中で、
少しでも自分を取り戻したいと思います。

◇ ◆ ◇

今日は久しぶりということも手伝い、
いつも以上に乱筆乱文ではありますが、
これで失礼いたします。 


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昨日と話が前後しますが、
久しぶりに自分の病院にて、診察をしました。
お薬のみ、というのがかなり続いていたせいだ。

まだ母が今の病気を発症しておらず、
よく代わりに薬をもらってきていた。
その頃しか知らない先生に、
今現在の母の状況を話したとき、
とても驚いていた。

 あんなに元気に毎回来ていたのにね。

先月、採血をした結果を話していた最中だったが、
先生の手も口も止まってしまった。 
今日は珍しく診察は空いていて、
お話は十分に聴いてもらおうと思った。

けれど。

先生の顔を見たら、ふにゃ、と話ができなくなった(笑)
もういいや、という感じ。投げやりではなく。
安心してしまった。
ただ先生の存在だけで。

こうして書いているとすごいな、と思う。
家に戻ってから、あ、あれも話せば良かった、とか、
色々浮かんだけれど、やっぱりいいや、で終わった。
もちろん不完全な感情ではなくて、
1時間くらいじっくり聞いてもらったかのように、
ぱんぱんに張った風船の空気がしゅわっと抜けたようだった。

もちろん、
まだ母の状態に慣れなくて、
受け入れられなかったときに診察を受けていたら、
泣きながらのカウンセリングになっただろう。
けれど、今少しだけ落ち着いている。
これから悪くなる一方だとはわかっているし、
ゆくゆくは施設についても考えている。
しかし、たった今、ということで言うと、
週2回のデイサービス利用に加え、
隔週で1回利用もしている、という状況で、
さらに、この間ケアマネさんとやっと意思の疎通ができたようで、
心からの安心感を得られた。これが一番大きいかな。 

ずっとひとりきりで悩んでいた、と思っていたときはつらかった。
何を悩んでいるのかわからなくなるほどだった。
いっとき、これから密に関わってゆくケアマネさんとの間に、
少しだけ不安を抱えたことがあった。
ショートステイ(短期入所サービス)の話を出したところ、
微妙にはぐらかされてしまったのだ。
母の前だし、ものすごく考えて出した言葉がそういう扱いだったので、
その日からの落ち込みがひどかった。
もうこの先助けてくれるひとはいないと思ったほど。
けれど、先日早いものでもう2回目の認定調査が行われたとき、
ケアマネさんは私の話をきちんと憶えていてくれた。
検討しています、と言ってくれた。
そのとき、本当に目の前が開けた気がした。
実際、ショートステイ先はベッドが空かないと利用できないし、
いつになるかも何も決まっていない。
けれど私は自分の気持ちを受け止めてもらえたことで、
そこから前に進むことができる、と思えた。
認めるって、本当に大事なことだと思う。
大人も子どもも関係なしに。

なので、話を戻すと、
今回、私が主治医の先生に会ったときは、
妙に落ち着いていて、割とすらすらと喋ることができた。

そして、もらっている薬がこれほど役に立ったことがあっただろうか、とも思う。
父はゴミ捨てや車で送迎などしてくれるけれど、
意地悪な見方をすると、休みがあるじゃないか、と思うのだ。
土日祝日にゴミの日はないし、病院も毎日じゃない。
母との介護という関わりで言うとゼロに近い。
おっと、グチになってるぞ(笑)
うん、まあ、とりあえず、気持ちが落ち着いたのだ。
これから、大事な命の計画を立てていくことと(怖い書き方だな)、
あまりこれからのことを考えすぎない、というのは両方大事な感情。
ゆっくりやっていくしかない。

今出会えている主治医の先生に感謝。
紹介してくれた姉に感謝。
姉は子宮関連の手術を無事成功させ、
今「暇だー」とメールがくる。
おい、術後だ(笑)
なので、母がデイに行っている間でもいいし、
いつでもいい。
何もしないでうちに来て横になりながらでもいいから、
ゆっくりしたら?と提案したい。
そして動けるように先生のお墨付きが出れば、
一緒にカラオケに行くのだ。
私は自分の人生も謳歌したい。何度も言っているけれど。


◆ ◆ ◆

上画像は眠り猫らむ子さん。
安心するといえば彼女ですね(⌒ー⌒) 
毎度のことながらクリックすると大きならむ子さんになります。


grace_continental_image


少々疲労気味ですが、
今日のことを早めに書いておかないと今後、
書くのも面倒になってしまいそうなので、 
とりあえず、私の健忘録として。

4月2日。
母のデイサービス利用初めての日でした。
朝、デイの職員さんが9時頃迎えに来て、 
4時半頃、送って来てくれました。

荷物は昨日、紙に書き、
母専用にした鞄に詰めた。
昼食と入浴介助をしてもらえるので、
薬の説明とリハパンなどの説明書きも入れた。
帰って来てから連絡ノートに詳しく今日のことが書かれており、
写真も添えられていた。
戻ってから、ほんの少し母の頭に混乱があったのか、
今までしなかったことをやろうとするなど、
少し不穏な行動が目立った。
しかし疲れもあり、いつもの時間には眠った。

そして今日の私は、と言うと、
朝は6時半に起き、まず自分の支度をして、
母を起こし、トイレに直行。
ズボンを下げてから上げるまで全介助。 
その後、着替え80%介助。
朝ごはんはスプーンで一口ずつ食べさせる。
汁物は自分で飲めるので、これは90%介助かな。
今朝は、いつもの白いごはん、具沢山味噌汁、
ポテトサラダ、ひじきと大豆の煮物、漬け物。
得意ではないが、一応手作りではある。
昨夜の残りとも言う(笑)

30分ほどかけて食べさせ、薬を飲ませる。
きちんと飲み終わるまで見ていないと、
たまにうまく飲み込めなくて、
口から取り出して捨ててしまうので、
「見てませんよ」という雰囲気を装いつつ、監視している。
母は粉薬より錠剤を飲むのが苦手で、
いつも悪戦苦闘させてしまうので、
うまく飲める方法を探しつつ、近い内に病院なので、
色々相談もしてみようと思う。

そのあとに洗顔、口腔ケア。
ここまで言って母のプライバシー平気か、と思うが母は入れ歯だ。
しかし、手がうまく動かず、歯ブラシが使えない。
なので毎回ケアをする。しかし口に手を入れて歯を外す時、
母がオエッとなってしまうので、なぜか私が申し訳なく思いながらも、
歯みがき粉で磨き、ていねいにゆすぎ、かぱっとはめる。
ケアが終わると、なぜか母が自分で磨いたことになっている。
 
しばらくすると、デイサービスの送迎車がやってきたので、
上着を着せて、靴を履かせ、職員さんに荷物の説明をして、
どうぞよろしくお願いします、と深々と頭を下げる。
車が行ってしまうと、ある種のやるせなさが胸を襲った。
しかし、とりあえず体が動くうちに茶碗洗い、洗濯、掃除、などを片付ける。
そんなこんなであっという間に昼になったが、
マスター(父)が昼は弁当にでもするか、と言ってくれた。

ハンバーグとナポリタンとポーチドエッグ、サラダが入ったごく普通のお弁当。 
ただ黙々と食べている自分があまりにも楽で驚いた。
先に書いたように母に食べさせているので、時折自分の分を食べ損ねる。
一緒に食べても母の方に時間がかかるし、
私が食べる方に集中すると、母はおかずのみ食べてごはんだけ余り、
「もういらない」と食べるのを諦めてしまう。
なので、今以上早くするのは時間的に私がムリなので、
みんな食べた後で食べるようにした、が、食欲があまりなく、
おかずも正直、残骸ばかりになるので(笑)
買い置きしていたパンとコーヒーだけで済ませてしまうことが多い。
 
なので、
今日のお昼は何にも考えず、
ただ自分の分を食べられることで、放心状態になった。
そこから動く気はしなかった。

4時半くらいになる。
母が帰ってきた。
次のデイサービス利用日は金曜日(週2回)。
その日までまた介護の毎日なんだよなあ、と、
つい、ため息をつきたくなった。
親不孝かもしれないけれど、正直な気持ち。
マスターには言えない、というか、言わない。
マスターは朝、ゴミ出しをやってくれる。
朝は勝手にごはんを食べ終わっているし、
味噌汁など作ってくれているので、それをいただいたりする。
で、またしてもわがままだが言ってしまおう。

母の介護に関しての事はすべて私がやっている。
もちろん下の世話も、口も、今までは入浴も。
そして私が起きなければ、マスターは母を起こさない。
なぜならヘタに起こしてトイレに行かれても困るから。
その部分がいつも、ちくりと刺さるのだ。 
朝、起きられない。起きたくない。
永遠に続くんだよなあ、と思うと、
起きることが闘いに思えてくる。 
それでも起きなければ始まらない。
疲れているから悲観的になっているのだろう。

何となく孤独を感じていたが、
デイサービスの利用が始まったので、
少しでもこういう気持ちが減ってくれたらいいな、と思う。
利用できて、本当にありがたく思う。 

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だらだらと長文になりました。
少し吐き出せてほっとしたかな。
さて、0時過ぎたのでシンデレラは寝ます(どの口が言うー!) 

画像は、昼に弁当を食べていたときの私の心象風景。
「グレース・コンチネンタル」という洋服ブランドの広告写真です。
こんな感じに自由だった。すごく、久しぶりだった。


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母が入院してからと言うもの、
時間の経過が遅く感じる。
何もかも初めてだらけだからだろうか。
この間、担当医師の説明によると、
脳梗塞で前頭葉が破壊され、失語症だと言われた。

この先良くなる事はないけれど、
現在の残存能力を保つリハビリのため、
専門施設に転院予定、とのことだったが、
家で家族のサポートを受けながら過ごした方が良いのでは、
と、これからの医療計画について話した。
施設は私の住む町からは遠い。
そこに行って悪化させたくないので、
医師の案が最善の策だと思った。

その後、
普段の生活振りを診て下さっているスタッフさんからも話があった。
行動すべてを7点満点評価してあるプリントを見せてもらうと、
母の評価はほとんどが1だった。全介助が必要。
私は申し訳ない思考だと判りつつ、
これからが一番大変だと思った。
今はまだ検査と点滴治療中なので、
入院を余儀なくされているが、
思い立ったかのように突然、
「うちに帰らなきゃ」と車椅子やベッドから降りようとする、
不穏な状態が夜にも起こっているそうだ。

家に戻ればそこは安心していい、ということはあるまい。
病院のように色んなものが揃っているわけじゃないし、
24時間見張っていたら自分が倒れてしまう。
ドシロウトの家族と猫だらけの生活が待っているのだ。
もちろん、何がいけない、と言っているのではなく、
ただただ不安なだけなのだ。

失語症でも、何とかコミュニケーションをとっていけたら、と強く思う。
完璧になんてできないから。できる限り。

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上画像は「明日、元気になあれ」と書いてあったてるてるぼうずくん。
入院初日、母の手に握らせました。
画像が黒いのは愛猫、ななちゃんの背中に乗せたからです。
ななちゃん、ごめーん!ありがとね。

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