First Kiss

幸坂かゆり Weblog

カテゴリ: 日常ダイナマイト


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今日は…。
疲れました。ひたすら疲れました。

母の病院でした。
婦人科で検査後、そこでは問題がなかったので、
紹介状を書いてもらい、同病院内の泌尿器科へ。
ベッドに寝かせたり起こしたり、
衣服を着せたり脱がせたり、と久しぶりにして汗だく。
これを3年ほど毎日やっていたとは。

9時半から14時までかかり、
母ももちろん当事者で疲れたと思うが、
私もぐったりだった。ふたり分。
帰宅後、頭痛と肩こりが酷く、横になった。
そうだった。
私も体調を考えなくては。
とりあえず、薬などは普段飲んでいるものを、
きちんと用意しておこう。

そんな訳で、今日は細かい事を調べる気力がない。
・・・と言うのは言い訳で(笑)
今日も色々初めてのことが多くて、
それでもやらなければ進まなくて。
そんな状況だった。
何にも調べていない訳じゃない。
前もって細かすぎるくらい調べて、考えている。
けれど、札幌に行ったのは20年以上前のことで、
行かないと判らないこともある。
それこそ決めてかかり、それだけ、という観念に縛られたら、
何か違うことがあった時、臨機応変、という対応ができなくなるかな、
なんて、思った。  

それから、
こんな疲弊する事があったのだから、
私の人生において今日は悪い日か、というと、そうではなく。
むしろ、悪い日と決めるのが良くないとも考えた。
悪いことがあるから、良いことが起こるのではなくて、
いやなことは起こるし、良いことも起こる。
良し悪しはただの結果として、ただ受け止めればいいかな、と。
(悪いことを良い、とまでは思わないまでも)

そんな訳で今日は何だか普通の個人的な日記で、
SSOIについては何も書いておりませんが、
こんな日もあるね、ということでひとつ。
今宵は、暖かいものでも飲んで早目に寝ます。

じゃ、また明日! 


◆ ◇ ◆

上画像はTumblrより。
少々色っぽい画像ですが、普段の幸坂が選ぶのはこういう画像です。
美女大好きなんです(力強く) 


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しつこい話になりますが、
介護したことを早くある程度「過去」にしたい。
特に食事について。

私は幼い頃から食べ物を当たり前に食べるのが苦手だった。
なにが理由なのかは今ではわからない。
たくさんありすぎる。
食卓に着くとき、当時の父が厳しく、
マナーとは別の所で食べ方を制限されたのも一因だと思う。
そして食べるのが遅かったので、保育所でも幼稚園に入っても、
お弁当の蓋を開けた途端、時間内に食べきれない、
と、恐怖感があり、おかずを見た瞬間、蓋を閉じてしまった。

人前で物を自由に食べることができない。
それは今でもそうで、外食になると、
失敗せず食べられるメニューを必死で探す。
簡単に言うと食べ方がヘタなのだろう。
食べ方がわからない。
だから食べるのが怖い。
そんな悪循環。

しかし、母が要介護状態になり、
私が台所仕事を引き受けなければならなくなったとき、
母は私より更に食べ方がわからず、
おまけに拒絶されるようになった。
その時、テーブルに一緒についている父の態度、
背を向け、テレビをただ一人で観ては笑う。
私は「いらない」「おいしくない」と母に叫ばれながらも、
口に運ぶ。嫌でもへりくだる。疲労が目に見えそうな時間だった。
母が何とか食べ終え、薬も服用させた後は、もう気力が残っておらず、
私は食事することがなくなっていった。
しかし、母に食べさせている間、コーヒーを手元に置いていたので、
私が食事をしない、或いは、食べる量がかなり減ったことに気づかれなかった。

今読んでいる本は、食事礼賛のお話で、
きちんと手作りをしてみんなでわいわい言いながら食べることが理想と言う、
そこが結局は戻る場所である、という話。
物語は田舎独特のそうした連帯感から逃れ、都会へ出向き、
最終的には田舎に戻り、そこで食事を作り、食べる。
それはとても幸せなこと。そこで終わった。
私はまだそこまで思えない。

しかしそれはもちろん、作者のせいではなく、
素直に読み進められなかった私自身の心の状態のせいだ。
物語自身はとてもよくできていて、ありきたりのお涙の感動を押し付けていない。
きっと、食べることに劣等感を持っていなければ、
私はもっと素直にこの物語を読むことができただろう。
とてももったいない、と思った。

母に最後にさせていた食事は(※今は施設に移っている)
刻み食ではないけれど、限りなく刻み食に近い細かいものだった。
父は何も言わなかったが、あまり好んではいなかった。
けれどそうしなければ母は喉に食事をつかえてしまう。
刻むより他はなく、日に日に味もへったくれもなくなってきた。
口に入れ、お腹を満たせば良いだけのものになっていった。
今でもスプーンでひとくち分をすくい、
母に「あーん」と言い、口に入れるその間、
スプーンと茶碗を持って母の方を向いているため、
固定された状態で身体を動かせない私と対照的に、
まるでこちらを見ず、テレビを観て笑う父が思い出される。

先にちらっと書いたが、今、母は施設で暮らし、
すべてを職員さんに任せている。
家には私と父だけが残った。
父は文句自体は言わない。
けれど遠まわしに「こういう味は好きではない」と訴える。
ひとくち口に入れるのを、まるで値踏みするように舌で味を見て、
好みでなかったら、その後、頑なに口をつけない。
ご飯に水を注いで流し込んだり、
味噌汁をかけて、おかずに手をつけず、終わらせる。
いくら私が素人だからと言ってそこまでまずいものは出していない。
けれどこの行為は、私を虚しくさせるには十分だ。

私は食事を作る事自体は好きだと思う。
食べたいものが形作られていくのを見るのがとても好きだ。
塩分やカロリーを抑えつつ、旨みを出すなどゲームのようで楽しい。
けれどそれが薄味、と思われ、何でも醤油や塩漬けにされてしまうと、
私は一体何をしたのかと思う。
自分ひとりで食べるのなら遠慮せずに各国の料理を作ってみたい、
と、いう好奇心も出てくるだろうな、と卑屈になっている。

だから早く、自分を落ち着かせ、
自分の行きたい道へと進みたい。少々、慌てている。


画像は「ALL THAT AND A CUP OF TEA」様より。


※mixi日記

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またしてもお久しぶりです。 

本当に時が経つ事の速さに驚きです。 
これまでにない速さ。 
夏も、あれほど暑かったのに、もう肌寒くて、 
シャワーだけでは物足りなくなる。 

さて、明日は母が施設に入居してから一ヶ月経つので、 
新ためてサービス計画書を作成するため、施設へ。 
入居してから私が一番面会回数が少ないが、 
そこは勘弁して欲しいと思う。 

最近はユニット(入居部屋)に慣れてきたのか、 
立ち上がって歩き回ることや、 
大きな声も出すようになったと聴いている。 
もちろん、大きな声を出し続けている訳ではないだろうし、 
そういうことは今まで家であったことだ。 
それがユニット内で出る、ということは、 
本当に馴染んできたのか、 
はたまたここはどこだ、と戸惑っているのか。 
うーん。そうとは考えたくないけれど。 

多分、明日事務的な用事を終えたら母の様子を見に行く。 
親不孝かもしれないが、それが憂鬱で仕方ない。 
今日は考えすぎて、夕飯の時間まで起きられなかった。 
父は相変わらずの態度、に見えるが心の奥底はどうなんだろう。 
今ひとつ、コミュニケーションが図れていない。 
腹が立つことはもちろん多いけれど、 
コミュニケーションの取れなさも大いに関係している。 
言葉って大事だから、きちんと出せるようにしていかなくては。 


で、私自身ですが、 
荷おろし症候群のようなものが取れない。 
(気力が湧かない、疲れやすい、など) 
ひとつのこと(掃除機をかけるとか)をし終わると、 
ばったりとベッドに倒れるくらい疲れる。 
そして起きられない。 
これは本当に悩むところだが、 
だからと言って、こうしてみて、ああしてみて、 
と、言われたところで今は億劫で行動できないだろう。 

とにかく明日は絶対に動かなくてはならないので、 
早めに眠ります。 
夕飯も用意する自信がないので、 
今日はカレーを鍋一杯に作っておいた。 


※ ※ ※ 

猫たちのカリカリも調達しなくては。 
実はこれが一番大事だったりするのだ。 
猫たち、待ってろよ。 
新鮮なカリカリを買ってくるぜ。

2013年08月28日

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もう10月ですが、とりあえずmixi日記から転載を。
10月3日は大澤さんの誕生日でした。
毎年大澤さんの誕生日は自分なりに凝ったページを作っていたのに、
ここ数年何も書いていない。 
大澤さんキラーイとかになった訳ではないです。はい。
本当は明るく「誕生日おめでとう!」という気持ちを更新したかったけれど、
更新する気になれなかっただけです。
けれどこうして、書けなかったなあ、と思えた事が実は大きい。
少しずつ心に余裕は出ている。確実に。行動は緩やかだけど。

3日当日、大澤さんはUstreamにて、
ライブを配信してくれました。 
ライブをまるごと。これはすごいことですよね。
私も一生懸命、文字で参加しましたが、
その後、燃え尽きました(笑)
大澤さんじゃなくて私が燃え尽きてどうする、と思いますが、
何と言うか、撃たれた兵士が息も絶え絶えになって参加した、
と、いうふうに想像していただければ(物騒か)。

でも、大澤さんの音楽、楽しく聴けて良かった。
ただそれだけが私の笑顔の素になりました。心から感謝しています。

でも大澤さん、べろべろだったぜ(笑) 

2013年(平成25年)10月8日 転載


※mixi日記

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お久しぶりです、と書いて気づいたが、 
ついこの間更新していた。11日。日付けが過ぎていたので12日。 
しかし、薬が効いていたときの日記だったせいか憶えていないので、 
やはり久しぶり、ということにしておこう。うん。 

で、その日付けの過ぎていなかった11日。 
グループホームともまた違うケアホーム北見2号館という施設に、 
特養が空くまで入居申込、という形を取ろうとした次の日、 
ケアマネさんを通して特養から連絡があり、再度面接したいとのこと。 
本日、行って参りました。 
そこは2軒目に申し込んだところで、 
以前面接した時は私の調子が最悪で、 
肝心な母の認知症の履歴など書き留めてもおかず、 
かなり言葉に迷い、相手側もよく理解しきれなかったのでは、 
と、思える面接であった。 
そんな前回を踏まえて、今回は2010年(母の病気発症時)からの病歴を、 
すべてまとめて書いていった。 
入院する前後の話や様子なども具体的に話した。 
自分で驚くほど言葉がスムーズに出たので、 
私もまた、少しずつ調子が戻っているのだろう。 

そして明後日、18日、職員さんが直接母と面会をする。 
もしかしたら本当に入居できるかもしれない。 
今日面接してくれた方はこの間も面接してくれた方だ。 

「本当にうちで良いのですか?」 
「後悔しませんか?」 
彼はそんな言葉を言う。 
私は、 
「いいえ。どこよりも早く連絡をいただけてありがたい限りです。迷いはありません」 
と、返事をした。 
これで良かったのかは判らないが、多分私の本音だろう。 

特養が決まれば今現在お世話になっているケアマネさんは担当を外れる。 
ちょうど11日、そんな話をしたばかりで、私はとても淋しく感じた。 
もちろん、私の個人的感情なので、言葉にしたところで仕方がない。 
けれど、だからと言って仕事だから当然、などとは言えない。 
そのくらいケアマネさんは本当によくしてくださった。 
今、こうして私が生きていて、母が療養入院という場に移ることができた。 
その間の孤独感や寂膜感を、何とか持ちこたえさせてくれたのも、 
彼女の存在があってこそ、と言っても過言ではない。 
彼女にしかできない仕事。それを、すべて行動してくれた。 
感謝してもしきれない。 

とは言え、まだ特養が100%決定というわけではないので気は抜けない。 
ただ、変化が起こるときは、音を立ててすべてが変わるからね、と、 
かの山田詠美さんが言っていた。 
何のインタビューだっただろう。

2013年07月16日

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mixi日記の一番新しいものです。
この後、特養に入居が決まり、7月26日、
無事引越しを終えました。

病院から父の車に母を乗せ、
一緒に部屋まで行きました。
一人部屋で新しく、とてもきれい。
病院と比べてはいけないのですが、
やはり圧倒的にアットホームな雰囲気です。
けれど一度入院、というクッションがあって、
良かったと思うのです。
どれほどアットホームであっても、
家からいきなり引越しとなると、
誰だって拒否反応があると思います。

洗濯などもあちらが引き受けてくださる、との事で、
今後、母のところに行くというのは、
本当に、こちら側からの面会のみになります。

母自身、どんなふうに思っているのか、
心の中も、言葉でも見えませんが、
どうか馴染んでくれたら、と思います。 
そして、職員さんが言っていた、
「なるべく面会しに来てくださいね。毎日でも来る人はいますよ」
という 言葉は、その場では「はい」と返事をしましたが、
正直、めまいがする感覚に陥りました。
けれど仕方がない事なのでしょう・・・。

うちの場合は本当に、運が良かったと言わざるを得ません。 


※mixi日記

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ついこの間書いたばかりだから、 
あまり書くと、しつこいかな、人が離れていったらいやだな(;;) 
と、以前の日記の日付けを見たら19日。 
役20日経ってたのか。時間が過ぎるのって早い。 

今日は(日付けどおり昨日) 
何度目かの母の面会と洗濯物の補充。 
姉の車に父も乗せ、3人で。 
母が入院して4週間経つというのに、 
私は未だ母に会うのが怖い。 
昨夜も行きたくなくて行きたくなくて、 
どうしたら良いものか、と考えていた。 
姉に言うと「そうなの?」と返事が返ってきた。 
自分の気持ちが不安定なのか、姉が理解できないのか、 
私にはわからない。 

けれどいつまでも不安定というものに浸かっている訳にはいかない、 
そう思うと、ますます焦りは出るけれど。 

そういう気持ちで行ったため、態度にほつれが出た。 
何気ない小さな事なのにいらついた。 
母にではなく、父や、姉に。 
もう、すぐにでもあの場所から離れたかった。 
母がもう私を忘れていようが構わない。 
何だろう。上手くいえないけれど母がとりあえず入院し、 
父はもうすっかり安心して、
「もうずっとあそこにいたらいい」という旨の言葉を言い、 
姉は笑顔で母に接し、病室のゴミ箱の袋を替える事にも気を遣える。 

私はふたりの言う言葉、態度、共に言えなくて、できなくて、どっちつかずだ。 
もちろん、今の状態で母を家に再び戻すのはムリだ。 
けれど何となく父の言葉はもやもやとする。姉の明るさも。 

私は今かなり被害者意識が強いのだと思う。 
そして自分の脳も大丈夫か、と怯える。 
好きなことを好きだと心から思い出したい。 
でなければ、私はだめになってしまう。 

悩みは母だけの事ではなかったのが、 
今ありありと見える。 
さて、今後どうしたら良いか。色々練るのみ。

2013年06月19日

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2013年(平成25年)7月3日 転載

この日記でmixiからの転載は最後になります。 


※mixi日記

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本当は8日のことを書こうと思っていたら、 
8日は思いの外、疲れてしまって、 
9日にしよう、と、だらだらしてたら、 
日付けが替わって10日になってしまった。 

8日は、 
母が入院後、荷物を置きに行ったりなどを除き、 
初めて面会、という形で会いに行った。 
姉は何度か洗濯物を受け取りに行ったり、 
この間、父もひとりで行って、えらそうにしていたが(笑) 
私だけが、行ってなかった。 
正直言うと会うのが怖くて。 
自分でも母と直接会ってどんな反応が出るのか判らないし、 
言ってみれば、姉とも父とも多分、私の感覚は違うだろう。 
その日は私自身の病院ということと、 
洗濯物を補充しよう、という理由もあり、 
どきどきしながらも面会に行く決意をした。 

まずは私の診察にて先生は、
どんなふうになっても、
会っても会わなくても辛いものは辛いです。 
一度顔を見たら安心するかもしれないですよ。 
そして、どうか当初のような気持ちにならないように。 と、仰ってくれた。 
院内の皆さんがとても優しくて申し訳ないくらいだった。 

診察後、面会。 

面会時間が11時から、という何となく中途半端に思える時間。 
昼食準備中の忙しい中になってしまった。 
母は食事をするデイルームに他の人たちと一緒に座っていた。 
姉の後ろに何となく隠れるようにしていたが、 
ええい、と気力を振り絞って、 
「お母さん、元気かい?」と声をかけた。 
母は柔かい笑顔で「うん」と言った。 
とりあえず、洗濯物を部屋に置きに行く。 
部屋までの廊下で私の頭は真っ白になる。 

母の元に再び戻る。 
失語気味なので会話はできない。 
しかしその分だけ、目があまりにも饒舌に見えて、 
訴えかけるような眼差しがやっぱり辛かった。 
姉は、父は、どんなふうに見ているのだろうか。 
そして母はこの場所にいることをどんなふうに。 
私は、何と形容して良いのかわからない感情に駆られて、 
泣き出しそうになった。涙が何粒か、というものじゃなく、 
スコールのような号泣のような。必死で押さえたけれど。 
母の肩に触れて何度も同じ「元気かい?」としか言えない私こそ、 
失語であるようだった。 
華奢な母の肩。 
ビニールの、私と姉で買っていったエプロン、であるはずなのに、 
初めてかけるところを見た他人行儀なエプロン。 
足は靴下を履いていたけれど、靴を履いていなかった。そして、車椅子。 

もうすぐ昼食。 
姉が「また来るからねー」と明るく言い、 
私もそれをできる限り、真似して言った。 
また「うん」と頷く母。そして眼差し。つらい。 
手を振ったら少し麻痺している方の手で振り返してくれた。 
ついでに知らない隣のおばあちゃんも手を振ってくれた。 

次に会う時、もう少し、 
私の心の中は穏やかになっているだろうか。

2013年06月10日

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2013年(平成25年)7月3日 転載

※mixi日記

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5月21日に母が入院してから数回しか行っていない。
荷物を持って行ったのが1回。 
次の日、22日は姉が休みだったので、
必要なものを買っていって1回。 それだけ。
姉が仕事帰り、洗濯物を取りに行ってくれたそうだ。 
ありがたい、と思う反面、どこかで・・・そうじゃない気持ちにもなる。 
感謝はしているのだ。 
でもなんというか。うーん。 

私自身なかなか心が落ち着かない。 
埃だらけになっていた部屋に掃除機をかけたり、 
買ったものの着ていなかった服を出してみたり、 
意識して介護から心を離す機会を多く作った。 
けれど、周りのなにげない言葉で、ひどく動揺する。 
一日ずつ、良かったり(平和ということ)悪かったり、波が激しい。 
昨日はブログを更新できたくらい落ち着いていた。 

言葉って怖い。 

私は母が入院して目の前の介護からはとりあえず解放されたのに、 
父の言葉に縛られている気がしてならない。 

以前も書いたが(気が済むまで何度も書いちゃうw) 
父が、自分はほとんど逃げていたくせに、 
いざ母が入院したら「最後まで看てやろうや」と言ってみたり、 
親戚の人に私の作るごはんがおいしいだとか、 
余計なこと言わなくていうのが嫌だ。ものすごく嫌だ。 
今はそんな言葉、嬉しくもなんともないから。 
逆に親戚の介護を頼まれたらどうしよう、
なんて考えてしまうから(しないけど) 
なんなら私の話なんかしなくていいから。 
「今度、来てごはん作ってって言われた」 
とか、今一番聴きたくない言葉だった。 
ああもう、介護介護! 
どうやったら頭から離れてくれるんだろう。 
父は私がこの先、この家から離れることがないと思っているのか? 
もう40代だし、結婚なんかしないだろうくらい思っているのか? 
違うよ。まだ40代なんだよ。 
父の言うように年功序列の世界で言うなら、 
あなたが死んだ後も私の人生は続くことになる。 
その時こそ、もう遅いんだよ。 
そうなりたくないんだよ。 

なるべく父と顔を合わせないように距離を置いているが、 
いともたやすくパーソナルスペースを破ってくるので余計腹が立つ。 
頼むから私に近寄るな。私に頼るな。 
いっそ私はいない、と思ってくれていい。 

ああもう、私、最低。 
これって介護の反動なんだろうか。 
何を言われても頷くか負けるしかなかった母の介護の。 

明日は穏やかでいたい。 
私には猫がいてくれる。

2013年06月01日

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かなり苛立っていた時期でした。
今まで抑えていた感情が一気に爆発したような。
ものすごく小さな事にも頭に血が上った。
早く穏やかになりたい、と焦っていました。 

2013年(平成25年)7月3日 転載


まず最初に説明を。
2013年4月某日深夜、私は自分の寝室にて、
着ていたものをドアノブに結び、首を吊りました。
お尻が床に着かない状態で数秒経ちましたが、
服がほどけたか伸びたかで、体が床に着き、
結果的に誰にも気づかれず、未遂に終わりました。
突発的な行動で、何も考えていなかったと思います。

※mixi日記

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5月11日土曜日、 
私自身の病院に行ってきた。 

言おうか迷ったけれど、姉の付き添いもあるし、 
この間、ドアノブで首を吊りました、と告白した。いや白状した。 
もちろん、体中の痛さもあったけれど、 
やはり突発的に行った行動としてあれは尋常ではなかった。 
そのまま死んでもいい、と積極的に考えていたのも事実。 
その後もずっと「死にたい」という言葉が頭の中をぐるぐるしていた。 

すると、先生は直ちに、 
ソーシャルワーカーさんを通し、 
ケアマネさんと申し込んである特養に順番を早めて、と連絡し、 
仮に順番待ちでも、その間母を緊急入院させる、という判断をした。 
私の通うこの病院は精神科でもあるけれど、
認知症にも積極的に取り組んでいる。 
介護という形で入院させ、
特養が空いたら即入居、という事になった。 

その時は、とにかくほっとした。 
母本人の事は考えられなかった。 

重大な事をしてしまったんだと思う。 
母の人生を私が決めてしまうなんて。 
先生はアドバイスをくれたのだ。 
私がもし、いいえ、まだがんばれます、
と、言っていれば訂正されただろう。 
けれど私は訂正しなかった。 

とりあえず今日から16日までショートの日で母はいない。 
私は入居の話を心に持ったまま、何食わぬ顔で母と接していた。 
今日、ショートで手が離れるまで。 
ああ、何書いてんだかわかんない。 
落ち着いて考えようと思ったが、考えられない。 
母の事や今後、具体的にショートから戻って、など、 
頭に浮かべただけで動悸がひどい。 
やっぱりもう限界だったのだろうか。 
それとも私のがんばりが足りないのだろうか。 
わからない。 
重い。 
気持ちも体も。 

もちろん、未遂の話は先生と姉と私だけしか知らない。 
姉に「言わなくてごめん。言ったらショック受けると思ったから」と言うと、 
「言われなかった方がショックだよ」と言われた。 
こんな事告白されても受け止めきれないだろう、と思ってしまったのだ。 
多分、私ならムリだ。 
そんなムリな事を、自分でした事自体がもうおかしかった。 
そしてこの日、パークゴルフの大会に行っていた父にも、 
「楽しんで戻って来てすぐに母入院とか特養入居の話をしてもかわいそう」 
と、言葉が出て、姉に、
「落ち着いて。そもそもこうなった原因の一つでしょう」と言われた。 
姉はかなり頻繁に手伝いに来てくれたが、
既に家庭も仕事も持っている人だから限界がある。 
 
父は、 
そうだった。 
なにも手伝ってくれなかったんだ。 
いつもそれを嘆いて悩んで、結局自分を痛めつけてしまったんだ。 
冷静になり(なってないかもだが)少しだけ、 
私のせいでもなく、母のせいでもなく、
もちろん、姉でも、そして父のせいでもなく、 
一番悪いのは病気だ、と思った。 
父は、それをどうやっても受け容れられない子どもなだけで。 
何にせよ、このままでいたら誰かが危険だっただろう。 


乱文ですが、日記代わりに。 
読んだ方、重い文章でごめんなさい。

2013年05月14日

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2013年(平成25年)7月3日 転載 


※mixi日記

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今月17日から21日まで母のショートステイなのですが・・・。 

まず前回の4泊5日の話を。
4日目の朝「食べ物をもどした」と連絡があり、  
約束より早い時間に迎えに行った。  
その後、嘔吐物のついた衣類や触ったところなど、 
ハイターを10分の1に薄めたものでシュッシュッ。 
マスクは常に着用。 
トイレなどにも気を遣った。
帰って来てからは変化なし。 
ショート先から連絡が来た直後、今は大丈夫です、 
と電話もきて、確かに便も普通だし、 
結局、もどしたのは何だったのかな、という感じでした。 

それからもずっといつもの調子で、 
羨ましいほどの快便だし、食欲旺盛だし、 
元気すぎて掴まれた手に痣はできるし(苦笑) 

そしてまた週3回のデイに通い、 
通常の介護生活に戻り、 
そして、今回の17日である。 
なぜにショート行くともどす? 
事実、母が健康だった頃だってもどすなんてなかった。 
それはもちろんデイでも家でも。 
なんでなんだよ。
 
今日も朝から連絡が来た。
ショートに預けた日は電話が怖い(笑)
今回はもどした上に熱もあるとの事だった。 
しかも39度!高い! 
すぐに座薬を持って行き、救急病院に行くか色々話し、 
施設内との温度差などを考え、今晩は様子見で一晩寝かせておく事にした。 
母と話をさせてもらったら、疲れていたけど目の焦点は合ってたし、 
「わかる?」と私の事を聞いたら「うん」と答えた。 

今日はたまたま看護士さんが来ていたので、 
あれこれしてくれたのだけど、 
完全な入所でなければ医療行為はできないとのことで、 
座薬を入れるのもこちら側の承諾がないとできない。 
うちは短期入所だから・・・と。 
とにかく私が行った時は38度台に熱は下がり(それでも高い) 
38度を越えるようなことがあれば座薬を使用するという話で落ち着いた。 
それ以外に不安要素があればすぐに連絡をください、と言って施設を出た。 
手には大量の洗濯物。 
嘔吐物をあちらで洗濯する、ということもできないらしい。 
うん、まあ。それで仮にノロだったりして菌をばらまいたりしたら大変だしね。 
頭での理解と割り切れない気持ちを抱えつつ、帰宅。 

70度~80度くらいのお湯に浸けておけば、
菌は死ぬと看護士さんに教わった。

姉にも連絡をした。
お湯を沸かして洗濯の準備をする。
姉がいたせいか、責任感かは謎だが、 
洗濯物を絞って洗濯機に入れてくれたのは父だ。どうした、父よ。 
先日は「こうこうこうしたらいい」とか指示しておいて全部私に任せたじゃないか。 
今日施設から電話があった時、 
私がふらついて冷蔵庫に激突したのを見たから? 
さすがにわっかんなーい。 

ちなみに今回の私の過ごし方として、 
とにかく身体を休める、というのが目標だった。 
17日は母を送った後、2軒目の特養に入所申込に行き、
どっと疲れ、その日は撃沈。 
18日は何だか知らないけど疲れは取れたようだけど、
感情的になりやすく、父とケンカしそうになり、慌てた。 
そして19日、やっと何となく落ち着けそうだと思った。 
ビールの350ml缶を2缶飲み、 
20日の夜は母を迎える心の準備にしよう、
と、考えていたんだけど、そのとおりにはいかないね。 

でもほんとに疑問。 
どうしてショートに行ったら母は体調悪くなるの? 
なんで?なんで? 
こんなこと続いたらやってられない。 
父は「しばらくショートは休むか」とか言うが、 
それなら代替案くらい持ってきてから言ってよ、と思う。 
言いっぱなしだから手伝ってない、と思っちゃうんだよ。 

・・・・・・・・・・。 


疲れた。


2013年04月21日

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2013年(平成25年)7月2日 転載

父の事を悪く書きすぎてる気がする(笑)
性格も悪くなっていて、かなり穿った見方をしていたのだろう。 

※mixi日記

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今日、母を「予定通り」ショートステイに預けた。 

初めての4泊5日。 
大丈夫だと願うばかり。 
「予定通り」、という言葉に含みをもたせているのは、 
3月に一度3泊4日の予定があったのですが、 
施設内でノロウィルスの疑いがあったため、 
急遽その日の朝、電話が来て中止になったのでした。 

もちろん、ノロは怖いし、賢明な手段だとは思う。 
わかっているけど、とてもがっくりした。 
数日後に。 
なぜ数日後か。 

その日の前日、ショートがあると思うと、 
とても気持ちが穏やかになれて、 
久しぶりにブログを更新できたせいだ。 
書けたことが嬉しくて嬉しくて、 
まだその嬉しさが身体に残っていたから、
落ち込むのを忘れていたのだ(笑) 
本当に真剣になれるものを持ってるって宝だ、
と、つくづく。ああ、つくづく。 

で、現実に戻ってから襲う急な虚脱感。 
・・・誰も悪くないんだよ。母はしかり、父だってもちろん私だって。 
だけど、ものすごく母がいる部屋の空気が恐ろしかった。 
表現は良くないけれど幽霊がいるような感じ。 
ふらりとどこも見ていない目をして歩いたり、
父が母に話しかけているようで、その実、
私に気づいて何かして欲しい時のあの胸が爆発しそうな感じ。 
あの状態を続けているのが本当にしんどかった。 

なので、おっかなびっくり今日を迎えた。 
幸い、母はショートステイを嫌がらない。 
ゆっくりして過ごし、お茶の時間もお風呂も何もかも素直に応じるらしい。 
なので急に「明日からお泊りだよ」と言っても拒絶反応は示さない。 
「じゃあねー、またねー」と言って私と父が帰る時も笑顔だ。そこは助かっている。 
そして何事もなく、いつもの荷物チェックと印鑑を押して施設を出た。 

そして帰宅後、米だけ研いでばたりとベッドに横になった。 
何度も、母が帰ってくる時間だ!とか、 
母を起こさなくちゃ!とか、寝ぼけて、 
その度に、ああ、違った、と肩の力が抜けた。 

この数日間、私は私の好きな事だけをやろう。 
今晩、母のものはすべて洗ったので、 
明日は私のしたいものだけ洗濯しよう。 
シーツも毛布もピローケースも、
一度に替える事ができずにいたから、 
明日すべて春用に軽くしたい。 
服も、好きなものを着よう。 
髪も、なびかせよう。 

どうか天気に恵まれますように。 


明日はきっと、ハレルヤ。 


2013年04月02日

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2013年(平成25年)7月2日 転載

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