三つの癒し 1 『寂しさと向き合わない』」その2です。

前回も書きましたが、お題小説が更新されてから感想を書くのに随分時間がかかってしまいました。しかもあのふたつの物語を書く上で私の中にみっつ、大きな影響と癒しがあったのです。一時は時間もかかったことだし、もう書くのは諦めようかなと思ったのですがこれほど大きな影響がみっつもほぼ同時に起きたことは奇跡だと思い直し、これからの自分のためにも書いておこうと思った次第です。どうかお付き合いください。

「軌跡」という物語にはお題小説なので当然お題があった訳ですが、少し物語全体に溶け込ませて文章としては入れない方向にしました。わがままを言うとお題がない方がもう少しわかりやすかったかなと思います(笑)事実、今現在の私はあまり恋に大きな比重を置いていないので、主人公が恋を失くして彷徨っている、という描写は完全に一人歩きしてしまいました。彼女を熊も現れる田舎の夜道から救い出す相手に最初考えたのは男性でした。それで一端完結したのですが、言いたいことが歪曲してしまったので1からやり直しました。

ヒロインの相棒探しをしていたとき偶然耳に入ったのが宇多田ヒカルさんが椎名林檎さんをフィーチャーして歌った「二時間だけのバカンス」(2016年9月28日発売アルバム「Fantôme」より)でした。ミュージックビデオにはふたりの楽しそうに過ごす時間、規則正しさを表すような記号やアイテムの数々、そしてせつなく時間ぎりぎりまで抱き合うふたりが映し出され、日常から抜け出すことで日常を営む難しさを実感するような素晴らしい映像でした。その曲と映像をひとめ見て、ああ、小説の彼女の相棒は女性にしようと思いました。そして、その関係性をより影響ではなく小説としてはっきりさせるために、これはきちんとアルバムを聴かなければ、と思いました。久しぶりにビビビと(古語)来たのです。ジャケットやブックレットの宇多田さんの姿はぞっとするほどにお母様である藤圭子さんを思わせました。確かに宇多田さんなのだけど彼女の傍らに、すい、と藤圭子さんがいるような。髪型も化粧も時折歌い方も藤圭子さんの存在がありました。そこになぜ宇多田さんがこのようなアルバムを作ったのかなど野暮なことはここでは語りません。聴けばわかることだ(生意気か)透明な水のように流れ出す彼女の歌声と心臓の鼓動のような音、その歌詞すべてに彼女が感じてきたひとつひとつが細かく丁寧に伝わってきて、気がつくと何度もリピートしていました。

ここで2番目の「癒し」の話になります。私もそれなりに母との葛藤がありました。
それは全然立派なものではなく、母の金銭問題のだらしなさや恋愛問題、まだ幼かった私と姉のやり場のない気持ちなど、すべてを散らかしたまま母は自分の世界に閉じこもってしまい、多分もう出てくることはないでしょう。納得するのに一体何をどうすればいいのかわからなかった。そのままでここまで来てしまった。そんなときに偶然聴けたのが宇多田さんのアルバムでした。もうこれは運命だなと思えるほどで、あれよあれよという間にアルバムは発売日になり、戸惑う間もなく入手していました。敬愛する大澤誉志幸さん以外では最近手にしていなかったCDという形態。じっくり歌詞を読み、曲を聴いた。彼女からお母様への激しい恋慕(恋ではないけれど敢えて)や、葛藤、そしてもう触れることのできない大きな存在が歌詞の中に曲の中に溢れ、胸が痛くてそれでも途中で聴くのをやめることはできなかった。

私は母の介護を数年していて、最初は身体の手伝いという感覚で取り組んでいたことが、ある日を境にどんどん症状が進み、ゆっくり考える時間もないまま濁流のように介護に追われました。今思い返しても疲労が蓄積される日々は辛い思い出です。あのとき考えていたことを敢えて言葉に起こすなら、介護は赤ちゃんを育てるときとよく比較され、その内容も重なるのだけれど、気持ちはまったく逆。育み、生きていくのが子育てならば、相手に合わせて自分をひたすら殺して合わせていくのが介護だと思いました。もちろん育児も介護もそれぞれが感じることで、これはあくまでも個人的なものです。けれど私にはそんなふうに思えた介護生活でした。

介護を終えてからの私は多分、以前の私には戻れないほど変化してしまいました。
もちろん悪い影響ばかりではありませんが、他人から言われることでもありません。そして時折思い出し、夢に見る母はいつも元気に猫と戯れ、よく笑う母なのです。この夢は今でもずっと続いています。今は慣れましたが当初は夢から醒めたとき、なぜ夢なの。行かないで欲しい。とベッドにすがりついて切望するほど現実が受け容れられなかった。今現在母は私の手を離れ、経鼻経管栄養(鼻から管を通し栄養を摂る方法)をして病院にいます。脳梗塞を2度起こし、言語野を破壊されてしまったため言葉は既にまったく話せない。私のこともわかっているのかいないのかも知りえない。それでも会いに行けば私は笑顔を作り、母に必死に話しかける。生まれて間もない赤ん坊が母親の顔を真似るように私の笑顔に釣られてほんの少しでも母の口角が上がってくれた日は心がほんの少し軽くなる。

宇多田さんはお母様を唐突に亡くし、歌詞にはそのときのその想い、愛しさや憎しみまでも赤裸々に綴られている。私の母はまだこの世にいてくれている。話せないけれど元気ではある。怖いのは先のことだ。母がいなくなったときのことをやはりまだ想像できない。けれど宇多田さんがこうして痛いほどの想いを作品にしてくれた。その歌詞や楽曲には救われるような想いが多大にある。私もその濃密であった介護や死にたいほど辛かった思いを形にしたいと思う。介護を離れたとき、周りから「よくやったね」「がんばったよ」と言われた。けれどその言葉は終わりではなく、できる限りアップデートしながらも継続して私の中に息づかせていかなければと思う。「忘れちゃったら私じゃなくなる」と「真夏の通り雨」という楽曲の中で宇多田さんは歌う。だから無理矢理忘れようとしない。忘れないでいる私も私自身なのだと思いたい。多分私はそれを望んでいる。母の存在、女性としての言葉もなく抱きしめるような存在がたった今、小説の中の彼女に必要だと思い至りました。

※「宇多田ヒカル「Fantôme」歌詞特設ページ
 http://www.utadahikaru.jp/lyric/
 
「二時間だけのバカンス」「道」「花束を君に」「真夏の通り雨」の4作品の歌詞が読めます。
聴いて落涙し、止められなかった曲の歌詞もこちらの4作でした。こちらには掲載されていませんが「桜流し」も。「止まない雨のように降り注ぐのに癒えない渇き…。」(「真夏の通り雨」を改竄しています。ご了承ください)宇多田さんの作る世界は、とても開けていて戸惑う。その戸惑いが語弊があると申し訳ないけれど心地良い。自分の感じたものを放っておくのはやめようと思った。放っておくことは生きていく上で最も自分を大切にしないことだ。そんなわかっていたけれど忘れていたことを思い出させてもらいました。宇多田さんのこのアルバムがなかったら小説は書けなかった。そしてこれからも書こうと思えなかっただろう。

Fantôme
宇多田ヒカル
Universal Music =music=
2016-09-28