本当の悪夢は、怖いものに追いかけられたり、
突然、穴の中に落ちるという類ではなく、
夢の中で、どんなに災難に遭ったとしても結末がわかれば、
それは悪夢ではなくて。本当の悪夢とは。


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小川洋子氏の「ホテル・アイリス」読了。
さあ、読むぞ、と意気込んで期待に胸を躍らせて読み始めたが、
あっという間に読み終わってしまった。
けれど読後感が非常に悪く、胸焼けのような胃がひりひりする、
あの嫌な感じによく似ていて私の頭は混乱してしまった。

どれほど一般的に言う残酷なラストが待ち受けていても、
彼女の紡ぐ物語で、好きな作品は何作かある。
むしろこの小説では(肉体的には)救われた、
そう考えてもいいはずのラストなのに何とも後味が悪い。
それは多分、冒頭部分に書いた文章のように、
きちんと物語が終わらない部分にあると思うのだ。
(もちろん、それがこの小説の肝なので批判ではなく)
ヒロインと一緒に短期間過ごす男は卑怯者だ。
最初から最後まで。なのに、謝りもしない。
もちろんだ。夢は途中で終わってしまったのだから。
目が醒める猶予もないまま、完璧に夢は途絶えてしまった。

ヒロイン、マリは美しい少女だ。大きな孤独を抱えている。心の中に。
酷く老成した態度の少女ほど、見ていて哀しい生き物はない。
幼い頃に大事なものを失ってしまうことで大人のような少女が完成する。
マリもまた容貌などは一切関係なく、世にも幸福で同時に不幸でもある出来事を、
少女という可憐な花であるはずの時期に背負わされた。
少女は少女という生き物は生き終わるとただの人間になる。
マリはこの物語の中の永遠の出来事によって普通ではない人間になるかも知れない。

では普通とは何か?悪い夢を見てもきちんと目が醒める人間のこと。
マリは目が醒める前に強引に夢から引き離されてしまった。
きちんと相手に失望したり、立ち直っていく前に。
無理矢理完結してしまったストーリーの迷路に取り残されたまま大人になっていく。
まだマリが少女の段階でこのストーリーは終わるが、
大人になったマリの姿を想像すると、それはあまりにも哀しい。

何かを失うと新しい何かを手にする、という希望の逆説があるけれど、
新しいものを手にするのは、ずっとずっと先の話で、
失ったものを解放しなければ手に入ったことにも気づかない。
気づかなければ絶望が待ち受けている。何に対しても期待をかけないという絶望が。
私はマリの無垢な美しい容貌に、その影を見てしまってやりきれなかった。

***

この間同じ小川作品で「貴婦人Aの肖像」を読んだばかりだったので、
「ホテル・アイリス」の作風のあまりの違いに驚愕。
しかし、物語に出てくる事柄は残酷だとは思わない。
エロティシズムと悲哀を感じた。読み終えたあと、
救いがひとつでもあったら、と思わずにはいられなかった。
ほんの少しだけ、愛がエロスを上回っていれば、
マリと同化して物語を進めていた私の中でこの夢は、
悪夢にはならなかったのかも知れない。
かと言ってこの小説が嫌いなのか、と問われれば、
間違いなく愛着を感じ大好きです。

小川洋子氏の小説に出てくる人物はキャラクター設定がしっかりしていて、
言葉遣いも時折、非現実めいているがそこがまた堪らない。
それから文庫版の表紙が物語の的を得ていてとても魅力的。
砂漠の中の美しく若々しい肉体。しかしその表情は見えない。
そう。登場人物の中で、マリと深く関わった人物以外、
誰にもマリの本当の姿を見抜くことができないように。