「嘆きの唇」


地下鉄の中が暑くて、気持ちが悪い。

風を浴びたくて、知らない駅で降りた日曜の夜。
飲み過ぎて、千鳥足になっていた。
誰もそばに来ない。
小気味がいい。
みんなよけて行っちまえ。
あいつのせいだ。何もかも。


オレは路地裏に入ってどこか休めそうな場所を探した。
立ち塞がる物を蹴飛ばし、非常階段を見つけた。
何段か這いつくばるように上り、座った。
煙草を口にくわえて火をつけた。
空に目をやると、満天の星空。
天まであいつを祝っているのか。


今日は、あいつの結婚式。


少し背中に痛い階段に凭れながら、あいつと初めて会った日を思い浮かべた。
いつも行く本屋の片隅、あいつはひとり、涙を流していた。
長い髪で隠されて、他の奴は気づいていなかったけれど、
その細い指が震えていて、オレは放っておけなくて話しかけたんだ。
驚いたその目は、丸くて美しい宝石のように映った。
あいつは、あの時から婚約していたんだ。
ぽろりと灰が落ちる。
あの涙は婚約者との諍いが原因だった。
なのにオレはお節介にも相談に乗っちまったんだ。
あいつも、こんな見ず知らずにくっついていく世間知らずのお嬢様だと思った。


けど違った。


あいつは気持ちがいいくらい婚約者を罵倒して、
こんな結婚やめる、と唇をとがらせて言った。
オレはしおらしい涙とやんちゃな素顔に呆れて笑い、
あいつもオレのそんな態度に照れて笑った。
それからオレ達は始まったんだ。
毎日毎日愛し合った。婚約も解消したと思っていた。


なのに。


「結婚するわ。さよなら」


煙草が階段に落ちて、オレは足で踏みつけた。
こんなに憎い、なのに、愛しい。
もう一本煙草を出そうとして、箱を落とした。
舌打ちしながら拾おうと屈むと、ジャケットの胸ポケットから小さな手帳が滑り落ちた。
あいつが入れたのか。
真ん中のページには一行の走り書き。


「あたしを愛してるなら奪いに来て。愛してるって言って」


オレはその文章を凝視する。あいつの口癖。オレは一度も言ったことがない。
そう言えば、と必死に思考する。あいつは、別れを告げる日も訊いてこなかっただろうか。
オレはバカにするな、とあいつを見なかった。時計を見ると、式の最中。
酔いはとっくに醒めていた。オレは手帳をポケットにしまうと、立ち上がった。

あいつの手を掴んで、逃げてやる。どこにでも。オレは階段を駆け降りた。
視線の先のドアには「非常口」と書かれてあった。


<Fin>

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「嘆きの唇」/幸坂かゆり


*800字小説 お題 「初めて会った日/非常階段で/手帳が」
 お題元「いっぺん

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ゴザンスライターの小日向とわさんのブログで募集していた、
800字お題小説を書きました。
今回で7回目の募集なのですが、私が参加したのは3回目なので、
「Vo.3」と表記させていただきました。
これからも、できるかぎり参加したいと思います。