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しつこい話になりますが、
介護したことを早くある程度「過去」にしたい。
特に食事について。

私は幼い頃から食べ物を当たり前に食べるのが苦手だった。
なにが理由なのかは今ではわからない。
たくさんありすぎる。
食卓に着くとき、当時の父が厳しく、
マナーとは別の所で食べ方を制限されたのも一因だと思う。
そして食べるのが遅かったので、保育所でも幼稚園に入っても、
お弁当の蓋を開けた途端、時間内に食べきれない、
と、恐怖感があり、おかずを見た瞬間、蓋を閉じてしまった。

人前で物を自由に食べることができない。
それは今でもそうで、外食になると、
失敗せず食べられるメニューを必死で探す。
簡単に言うと食べ方がヘタなのだろう。
食べ方がわからない。
だから食べるのが怖い。
そんな悪循環。

しかし、母が要介護状態になり、
私が台所仕事を引き受けなければならなくなったとき、
母は私より更に食べ方がわからず、
おまけに拒絶されるようになった。
その時、テーブルに一緒についている父の態度、
背を向け、テレビをただ一人で観ては笑う。
私は「いらない」「おいしくない」と母に叫ばれながらも、
口に運ぶ。嫌でもへりくだる。疲労が目に見えそうな時間だった。
母が何とか食べ終え、薬も服用させた後は、もう気力が残っておらず、
私は食事することがなくなっていった。
しかし、母に食べさせている間、コーヒーを手元に置いていたので、
私が食事をしない、或いは、食べる量がかなり減ったことに気づかれなかった。

今読んでいる本は、食事礼賛のお話で、
きちんと手作りをしてみんなでわいわい言いながら食べることが理想と言う、
そこが結局は戻る場所である、という話。
物語は田舎独特のそうした連帯感から逃れ、都会へ出向き、
最終的には田舎に戻り、そこで食事を作り、食べる。
それはとても幸せなこと。そこで終わった。
私はまだそこまで思えない。

しかしそれはもちろん、作者のせいではなく、
素直に読み進められなかった私自身の心の状態のせいだ。
物語自身はとてもよくできていて、ありきたりのお涙の感動を押し付けていない。
きっと、食べることに劣等感を持っていなければ、
私はもっと素直にこの物語を読むことができただろう。
とてももったいない、と思った。

母に最後にさせていた食事は(※今は施設に移っている)
刻み食ではないけれど、限りなく刻み食に近い細かいものだった。
父は何も言わなかったが、あまり好んではいなかった。
けれどそうしなければ母は喉に食事をつかえてしまう。
刻むより他はなく、日に日に味もへったくれもなくなってきた。
口に入れ、お腹を満たせば良いだけのものになっていった。
今でもスプーンでひとくち分をすくい、
母に「あーん」と言い、口に入れるその間、
スプーンと茶碗を持って母の方を向いているため、
固定された状態で身体を動かせない私と対照的に、
まるでこちらを見ず、テレビを観て笑う父が思い出される。

先にちらっと書いたが、今、母は施設で暮らし、
すべてを職員さんに任せている。
家には私と父だけが残った。
父は文句自体は言わない。
けれど遠まわしに「こういう味は好きではない」と訴える。
ひとくち口に入れるのを、まるで値踏みするように舌で味を見て、
好みでなかったら、その後、頑なに口をつけない。
ご飯に水を注いで流し込んだり、
味噌汁をかけて、おかずに手をつけず、終わらせる。
いくら私が素人だからと言ってそこまでまずいものは出していない。
けれどこの行為は、私を虚しくさせるには十分だ。

私は食事を作る事自体は好きだと思う。
食べたいものが形作られていくのを見るのがとても好きだ。
塩分やカロリーを抑えつつ、旨みを出すなどゲームのようで楽しい。
けれどそれが薄味、と思われ、何でも醤油や塩漬けにされてしまうと、
私は一体何をしたのかと思う。
自分ひとりで食べるのなら遠慮せずに各国の料理を作ってみたい、
と、いう好奇心も出てくるだろうな、と卑屈になっている。

だから早く、自分を落ち着かせ、
自分の行きたい道へと進みたい。少々、慌てている。


画像は「ALL THAT AND A CUP OF TEA」様より。