先月から、気になるひとがいた。
いつも面と向かい合った時しか挨拶もしなくて、パソコンを触る横顔くらいしか見たことがなかった。昨年末から今年に入りコロナが流行し、マスクをつけるようになると、ますます表情がわからず怖いくらいだった。そしてなにより、彼はもう20年くらい前から顔を知っているひとなのだ。きっかけは、ある日私がそのひとのいる職場に読んでいた本を忘れてしまった時だ。
色々な場所を探した末に、そこへ電話をかけて確認しようとすると彼が出た。私は前述の印象で少しだけ苦手意識を持っており緊張したけれど、思いの外やさしい口調で「あ、ちょっと待ってくださいね」と受話器を置き、私がいつもいる場まで行ってくれたのだろう。見つけて「置いてありました」と言った。その声が微笑みを含んでいたので戸惑った。一体私はどれだけ恐ろしい印象を彼に持っていたのだろうか。とにかくその日、忘れた本を取りに再びその場へ行った。彼はすぐに私の姿を見つけ、すっと本を差し出してくれた。向かい合い、にっこりとマスク越しに笑っていた。その笑顔を見て更に動揺して「お手数をおかけしました」のひとことすらめちゃくちゃになったが、そのくらい驚いてしまったのだ。
その日以来、どうにも視線が彼に向いてしまう。
おおよそ、その場にそぐわないようなことまで話したりして、私は何を言ってるんだろう、絶対変なやつだと思われている、と家でひとりバカみたいに思い返しては赤面した。大体、名前も知らない。だから知りたいと思い、ある日、その場にそのひとしかいない時を見計らって駆け出し、アクリル板越しに名前を聞いた。そのひとは驚いて「僕ですか?」と逆に問いかけて来たので「はい」とだけ言った。そして彼は上の名だけ名乗ったので更に「下は」と聞いた。下の名前を教えてくれた彼に向かって反芻してみた。彼は頷いた。名前を知ることができた。その時よぎったもうひとつの質問があったのだが、誰か来たら困るのでそのままそこで面と向かうことをやめてしまった。
そこから数日経ち、年内彼に会えるのが今日で最後だったため、思い切って声をかけようと思った。もちろん、好きです、とかではない。そこまで知らない。ただ仲良くなりたい。学生のようだが友達になりたいと思った。けれど名前を聞いた日のようになかなかふたりになることができない。年末だし多忙な時期なのだろうしできる限り邪魔したくない。だから小さなメモに託し、今日何とか彼がひとりでいる時を強引に見つけて手渡した。時間がある時に、と言って。
しばらくすると彼が本を読む私の許にやって来て、そばに屈んで「読みました」と言った。
彼は既に結婚していて、小さなお子さんもいると言う。既婚者であることは年齢的に想定内であったが彼自身の口から聴いてしまうとそこから進められるものは何もなかったので、私はただただ恐縮して頭を下げるだけだった。でも、ここでなら全然話をしても平気です、と仰ってくださった(敬いすぎか)私が書いたメモの中には、どんな返答であったとしても私はこれまでとまったく変わらず接するのでお気になさらないでください。と既に記していた。だから来年もごく普通に変わりなく、おはようございます、と挨拶をするだろう。別に恋愛ではなくて、友達になりたかったのだから。
そんな訳で、それでも今日は本を読めず放心していた。
メモを読んでくれて、そばに来て向かい合ってくれたことが嬉しかった。せつないだとか泣くとか、そこまで重い気持ちではなかったけれど少し堪えた。鼓動が早く打ち、何も手につかない気持ちで返事を待つ、と言う感覚が久しぶりで疲れてしまったのだろう。ただ、彼を意識した月日(と言っても一か月ほど)の中で如何に自分が自分に優しくなかったかを知ったように思う。髪はずっと灰色で、時にはすっぴんで服さえ着ていればいいだろう、というくらいの酷い出で立ちで、今考えると本当に恥ずかしくてサンドバックがあったら全力で殴りたくなるが、そこから彼の目に触れる場所をできる限り、少しだけでもきれいに見せたくて、毎日化粧を研究し、アイラインなんかも工夫し、髪の色を明るくしたのは言わずもがな、直接、いちばん目に入るであろう指先を整えたくて毎日、毎朝、手入れをした。そんなふうにしていた私を俯瞰で見て、悩みが分散されずひとつに絞られていて答えが見える状態でいいなと思った。だから、自分をきれいにする、ということはやめたくないな、と思う。自分がいちばん心地良いからだ。
何も始まってはいないまま終わったけれど、この時間が私自身を少し繊細にしたことは確かで、これをこの先、創作活動に活かせたらいいな、と小説書きは思うのだ。私は幸せだ。
ー そこにそっとそのひとがいるだけで、目に入るすべてのものが輝きに満ちて映る。