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遅くなりましたが、6月27日に、
うちでは今のところ最後の猫、みみちゃんが亡くなってから2ヶ月経ちました。
驚くほど呆けたような毎日です。色んなくせは抜けないし、
思い出しては未だ郷愁のように涙ぐみそうになるけれど、
同時に、確実に時が経っているとも思える。
そしてより一層猫たちと私の距離だとか、性格だとか、私の接し方だとかが見えてきた。
何かが起こった時、いつもほぼ私一人でやらなければならなかったのはストレスだった
一緒にやっていたはずの母は、病気になり、いつの間にか猫のことを忘れてしまい、
いつしか一緒にいる時ですら撫でることもしなくなった。
母が連れてきた猫たちだがその猫たちの生涯を母は結局知ることはなかった。
義父は、悪い意味ではなく猫を飼う、ということに他人事で、
ひっくり返って寝てたりとかそういうご機嫌な時だけ撫でたりするのみだった。

猫たちとの暮らしは正直、重荷ではあった。
もちろん声を大にして言いたいのは、嫌いと言うことじゃなくて。
むしろ弱ってくると私よりも長くはない命を思い、
離したくない気持ちが強くなり、
その思いに圧し潰されてしまいそうだった。
年も取ってきて病気がちになった猫を病院に連れて行き、
毎日の薬を飲ませ、ご飯の工夫をし、排泄の状態を見る。
もちろん毛並みも放っておけない。
段々年と共に自分で毛繕いをしなくなる子もいた。
そうなると代わりにしてあげないとならない。
敷いてあるタオルなどはまめに洗濯しなければ毛だらけになる。
今こうして書き出していると、まるで悪口のように聞こえてしまうが、
そんなふうに、ただ可愛いだけでは過ごしていけない日常があった、という事実だ。

彼らを見つめ続けた22年間だった。
それが今年に入ってすべてがなくなった。なくなってしまった。
魚を食べる時もツナ缶を開ける時も後ろを気にしてドキドキすることも、もうない。
そして先に書いた「呆けた」状態へと繋がる。

私はまたいつか猫を飼う時が来るのだろうか。
今の時点では考えられない。まずは暮らしを整えなければという問題があるし、
年老いてきた義父のことを思うと毎日の暮らしは簡単ではなく、
母と同じようには見てあげられないので、可能な限りケアマネさんも巻き込み、
施設も頭に入れつつ、慎重に介護認定なども毎年行なってもらう。
私も今の家から出て、一人暮らしの準備もしたい。
一人暮らし、まで行けば色々とまた思考にも変化が起きるだろう。
何もかもに絶対、ということは有り得ないが、私はまず、私に還る必要がある。
誰かに属し、自分を二の次にしていたクセから抜け出さなければならない。
そんな客観性がやっと姿を見せた感じがする。長かった。本当に長かった。

その中で、たった今胸に残っているのは、ただひたすら可愛かった、すごく可愛かった、と言う猫たちへの想いだけだ。大変だったと書きながら、あの柔らかな被毛を撫で、
手が触れる位置で眠る姿を見たい、と思っている。
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画像は一番上がくろちゃん。
左上、みみちゃん 右上、ななちゃん
左下、ろでむちゃん 右下、らむ子さん
一番下、らむ子さんがうちに来る前のくろちゃん親子。

くろ、なな、ろではくっついてごはんを食べるのに、
なぜか、みみだけはいつも少し場所を離れて食べていた。