平成最後から令和元年にかけて夢中で読んでいた本がある。
青空文庫なので電子書籍になるけれど本は本だ。最初は病院の待ち時間などで何となく目にしただけだった。それなのにいきなり夢中になり続きが気になり、結局すべてダウンロードして読了した。それは与謝野晶子訳の「源氏物語」だった。令和にいきなり平安時代の物語。しかし構わない。おもしろいんだから。私は今の今まで「源氏物語」をきちんと読んだことがなく、興味はありつつ読むきっかけもなくここまで来た。大和和紀さんが好きなのでいつでも読める体勢は整っていたはずなのに読まなかった。これも縁なのか。
そして読了後、私の光源氏への印象が変わった。
あんた、まめでええ奴やな、といきなり関西弁で答えたくなるような感じだった。まず初めに一夫一婦制の世の中で数え切れないほどの女性を愛人に持つような男を信じられなかったというのがある。第一夫人として最後まで愛される紫の上にしたって誘拐のように引き取り、むりやり手篭めにするのをあらすじで知っていたため違和感があった。けれどいざ読むと確かに紫の上との初夜となる場面は痛々しい。ただ源氏の生きる時代での女性の立場の弱さというものを考慮しなければならない。現代のようにひとりでも生きて行くというのはほぼ不可能に近く、大抵ひとりで生きると決めた女性は尼になり世を捨てる。最初こそ馴染まなかったが大体2帖くらいから慣れた。
そして光源氏の描写が驚くほど美しく、彼に敵うものはないという書き方なので何となく納得して読み進めた。終いには光源氏にどこか好感を持つようになった。と言うのは、彼は自分が手をつけた女性を絶対に見捨てないからだ。読む前から有名だった、容姿があまり良くないとされる末摘花に対しても、途中疎かにはなるものの最終的に思い出し、きちんと妻の座を与える。その辺りの物語の進み具合は痛快だ。なかなかそういうのはできるものじゃない。しかも他にも尋常な数ではない女性と付き合っているので、その人たちの生活の面倒を見ているというのは多分、彼にしかできないことであっただろう。それだけでもすごいと思ってしまう。あくまでもあの時代に於いてだが。何しろ女性の自由がまったくきかない時代の物語で、肝心なのは著者が女性だということだ。そこにますます説得力を感じてしまう。
源氏亡き後の物語にも美しい男は登場する。
それは源氏が生きていた時代、彼がむりやり関係を持った女性が遺した子供の薫であるが、彼は本当の父親の反対を行くような真面目な性質で読んでいてあまりにも恋に関して呑気なので、苛々すること多数であった。彼のライバルとして匂宮という男も出てくるが、彼は源氏の女癖の悪いところを凝縮したようないやなヤツだった。絶対彼は紛うことなきヒールキャラだ。女性に対していい加減でその興味の理由もライバルの薫が気に入ったから奴より先に取ってしまえという単なる負けず嫌いの感情だったりするから救いようがない。最後の最後に登場する浮舟という女性がなかなかに面白かった。性格自体は面白がってはいけないような真面目な女性だが、彼女は薫にも匂宮にも惹かれながら、そして迫られながらも結局靡かず出家し、尼としての人生を選ぶからだ。
そこに私はどうして紫式部が源氏亡き後もこの物語を続けたのだろうという答が潜んでいる気がした。最愛の女性であっても出家してしまえばどうしても手に入らなくなる尼という道。それは光源氏に対しての、そしてあの時代の男に対しての紫式部の筆での復讐であり、登場した女性たちへの救いのような気がした。あの時代にはそれしか方法がなかったのではないか。今も充分女性にとって不便な世の中だが比較できない。何しろ女というだけで罪だと言われるのだから、出家しか男から逃れる方法はないだろう。少なくとも読者である私はそれしか思い浮かばなかった。しかも美しい盛りの頃の出家なのだからもったいないし遣る瀬ない。しかし最高の復讐だ。
ただ女性たちは出家しながらもやはり苦しんでいる。本来ならそんな道など歩みたくなかっただろう。普通に恋愛をし、普通に夫と結ばれ、できれば子供に恵まれ、平穏に過ごす。それが望みだったのではないだろうか。しかしそんな理想も宇治でのお話、いわゆる「宇治十帖」と呼ばれる最後になると恋愛そのもの自体にうんざりしてくる。紫式部とは何者だったのだろう。今読んでも共感できるってすごい。初めて読んで夢中になって続きがどうなるのかどきどきした。こんな読書ってなかなかない。ただ与謝野晶子の訳では「源氏」とか「紫の上」とか名詞が決まっておらず男は位の高さが変わるとその位で呼ばれるし、紫の上など「女王(にょおう)」とか呼ばれるので頭がついて行かず、何度読み返したことか。次回は好評だという瀬戸内寂聴氏の源氏物語を読んでみようと思う。そして大和和紀氏の「あさきゆめみし」もどんなものか読んでみたい。
細かいところで気になったのはあの時代だから医者というものがどういう立場かわからないが、体の不調があると何かと「物の怪」のせいにしていた部分。いや普通に考えて病院行こう!と思うがあの時代の病院などの施設はどんなものだったのかわからないので何とも言えない。宇治十帖に出てくる大君という姫君などは自分の妹を心配し過ぎて死んでしまうのだから儚すぎる。夕霧や葵の上、紫の上や女三宮にも降りかかる生霊としての存在も知識では「六条の御息所」という女性の仕業となっているが、物語の中では「六条」に住んでいる「御息所」という位の人、というくらいなのでちんぷんかんぷんにはなった。
物語のあらすじだけを追うと、昭和から平成にかけて人気だったどろどろしたお昼のメロドラマのような展開だが、ここまで夢中にさせ、今でも胸の奥に息づいているように印象深くなる理由のひとつとして描写の力がある。自然の風景はもとより、着るもの、焚き染める香、凝った手紙、男女の美麗さ、ゆったりとしたあの時代の催し物等、見逃せない魅力がふんだんに散りばめられているからだ。決して現実だけでなくこちらの想像力をくすぐるような抽象的な帖のタイトルなども小説としてとても豊かだ。ここまでの物語をほんの56帖ほどで完結できるなんて本当は短いのかもしれないとも思う。そのくらい紫式部の文章にはセンスとブラックユーモアがある。でなければここまで多くの人を虜にしないだろう。その虜になったひとりに私もまた加わった。世の中、何に夢中になるか本当にわからない。面白い読書体験でした。
上画像 / 岡田嘉夫
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すべてはこの一冊から始まった。
画像から見つけて激しく読みたくなったので次はこちらを読みます。
青空文庫なので電子書籍になるけれど本は本だ。最初は病院の待ち時間などで何となく目にしただけだった。それなのにいきなり夢中になり続きが気になり、結局すべてダウンロードして読了した。それは与謝野晶子訳の「源氏物語」だった。令和にいきなり平安時代の物語。しかし構わない。おもしろいんだから。私は今の今まで「源氏物語」をきちんと読んだことがなく、興味はありつつ読むきっかけもなくここまで来た。大和和紀さんが好きなのでいつでも読める体勢は整っていたはずなのに読まなかった。これも縁なのか。
そして読了後、私の光源氏への印象が変わった。
あんた、まめでええ奴やな、といきなり関西弁で答えたくなるような感じだった。まず初めに一夫一婦制の世の中で数え切れないほどの女性を愛人に持つような男を信じられなかったというのがある。第一夫人として最後まで愛される紫の上にしたって誘拐のように引き取り、むりやり手篭めにするのをあらすじで知っていたため違和感があった。けれどいざ読むと確かに紫の上との初夜となる場面は痛々しい。ただ源氏の生きる時代での女性の立場の弱さというものを考慮しなければならない。現代のようにひとりでも生きて行くというのはほぼ不可能に近く、大抵ひとりで生きると決めた女性は尼になり世を捨てる。最初こそ馴染まなかったが大体2帖くらいから慣れた。
そして光源氏の描写が驚くほど美しく、彼に敵うものはないという書き方なので何となく納得して読み進めた。終いには光源氏にどこか好感を持つようになった。と言うのは、彼は自分が手をつけた女性を絶対に見捨てないからだ。読む前から有名だった、容姿があまり良くないとされる末摘花に対しても、途中疎かにはなるものの最終的に思い出し、きちんと妻の座を与える。その辺りの物語の進み具合は痛快だ。なかなかそういうのはできるものじゃない。しかも他にも尋常な数ではない女性と付き合っているので、その人たちの生活の面倒を見ているというのは多分、彼にしかできないことであっただろう。それだけでもすごいと思ってしまう。あくまでもあの時代に於いてだが。何しろ女性の自由がまったくきかない時代の物語で、肝心なのは著者が女性だということだ。そこにますます説得力を感じてしまう。
源氏亡き後の物語にも美しい男は登場する。
それは源氏が生きていた時代、彼がむりやり関係を持った女性が遺した子供の薫であるが、彼は本当の父親の反対を行くような真面目な性質で読んでいてあまりにも恋に関して呑気なので、苛々すること多数であった。彼のライバルとして匂宮という男も出てくるが、彼は源氏の女癖の悪いところを凝縮したようないやなヤツだった。絶対彼は紛うことなきヒールキャラだ。女性に対していい加減でその興味の理由もライバルの薫が気に入ったから奴より先に取ってしまえという単なる負けず嫌いの感情だったりするから救いようがない。最後の最後に登場する浮舟という女性がなかなかに面白かった。性格自体は面白がってはいけないような真面目な女性だが、彼女は薫にも匂宮にも惹かれながら、そして迫られながらも結局靡かず出家し、尼としての人生を選ぶからだ。
そこに私はどうして紫式部が源氏亡き後もこの物語を続けたのだろうという答が潜んでいる気がした。最愛の女性であっても出家してしまえばどうしても手に入らなくなる尼という道。それは光源氏に対しての、そしてあの時代の男に対しての紫式部の筆での復讐であり、登場した女性たちへの救いのような気がした。あの時代にはそれしか方法がなかったのではないか。今も充分女性にとって不便な世の中だが比較できない。何しろ女というだけで罪だと言われるのだから、出家しか男から逃れる方法はないだろう。少なくとも読者である私はそれしか思い浮かばなかった。しかも美しい盛りの頃の出家なのだからもったいないし遣る瀬ない。しかし最高の復讐だ。
ただ女性たちは出家しながらもやはり苦しんでいる。本来ならそんな道など歩みたくなかっただろう。普通に恋愛をし、普通に夫と結ばれ、できれば子供に恵まれ、平穏に過ごす。それが望みだったのではないだろうか。しかしそんな理想も宇治でのお話、いわゆる「宇治十帖」と呼ばれる最後になると恋愛そのもの自体にうんざりしてくる。紫式部とは何者だったのだろう。今読んでも共感できるってすごい。初めて読んで夢中になって続きがどうなるのかどきどきした。こんな読書ってなかなかない。ただ与謝野晶子の訳では「源氏」とか「紫の上」とか名詞が決まっておらず男は位の高さが変わるとその位で呼ばれるし、紫の上など「女王(にょおう)」とか呼ばれるので頭がついて行かず、何度読み返したことか。次回は好評だという瀬戸内寂聴氏の源氏物語を読んでみようと思う。そして大和和紀氏の「あさきゆめみし」もどんなものか読んでみたい。
細かいところで気になったのはあの時代だから医者というものがどういう立場かわからないが、体の不調があると何かと「物の怪」のせいにしていた部分。いや普通に考えて病院行こう!と思うがあの時代の病院などの施設はどんなものだったのかわからないので何とも言えない。宇治十帖に出てくる大君という姫君などは自分の妹を心配し過ぎて死んでしまうのだから儚すぎる。夕霧や葵の上、紫の上や女三宮にも降りかかる生霊としての存在も知識では「六条の御息所」という女性の仕業となっているが、物語の中では「六条」に住んでいる「御息所」という位の人、というくらいなのでちんぷんかんぷんにはなった。
物語のあらすじだけを追うと、昭和から平成にかけて人気だったどろどろしたお昼のメロドラマのような展開だが、ここまで夢中にさせ、今でも胸の奥に息づいているように印象深くなる理由のひとつとして描写の力がある。自然の風景はもとより、着るもの、焚き染める香、凝った手紙、男女の美麗さ、ゆったりとしたあの時代の催し物等、見逃せない魅力がふんだんに散りばめられているからだ。決して現実だけでなくこちらの想像力をくすぐるような抽象的な帖のタイトルなども小説としてとても豊かだ。ここまでの物語をほんの56帖ほどで完結できるなんて本当は短いのかもしれないとも思う。そのくらい紫式部の文章にはセンスとブラックユーモアがある。でなければここまで多くの人を虜にしないだろう。その虜になったひとりに私もまた加わった。世の中、何に夢中になるか本当にわからない。面白い読書体験でした。
上画像 / 岡田嘉夫
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すべてはこの一冊から始まった。
画像から見つけて激しく読みたくなったので次はこちらを読みます。