First Kiss

幸坂かゆり Weblog

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昨年、私はごく普通に人を好きになった。
ただその人はネット越しで会ったことがなかったから、好意を持っていた、というのが妥当だろう。最初は仲間内のTwitterのDMで少数グループを作り、わいわい好きなアーティストのお喋りをしていた。筈だった。そのうち、仲間から離れてふたりだけでDMをするようになった。とても楽しくて久しぶりにわくわくする毎日だった。ひとつ気がかりなことがあったのを除けば。

私は早々にその人に好きだと言ったが、その人はあらかじめ、恋はできない、と私に返事をした。私も、それでいいよ、ただ好きだと言いたかったのだと告げた。DMでのやり取りだけの友達がいたっていいじゃないと思っていた。その人は自分のことをほとんど話さなかったけれど、同い年だとは言った。私はそれを丸ごと信じて話を続けた。こうして7ヶ月毎日DMをしていた。なぜDMか。メールは危険だからだめ、スマホを持っていないからLINEはできない、と断られたから。スマホを持っていないことについても疑うことなんて微塵もなかった。ガラケーが使いやすいという人は私の周りにもいるからだ。クリスマスも互いにDMで「メリークリスマス!」と言い合い、年末も年明けの挨拶も、愛猫が亡くなった時も慰めてくれた。とても救われた部分だ。

しかし先に書いた気がかりとは、彼が微妙にマウントを取ろうとしている部分だった。
わざと私の特徴を挙げてそういう人が嫌いだと言ってみたり、嫌いじゃないと言ってみたり。最後の方は私がTwitterに書いた言葉を否定された。もちろん、恋はできないと言っていた彼のことを恋に似た気持ちとしてツイートしてしまったのはいけなかった。でもいや待てよ、と。誰が私たちの関係を知ってるの?と。そんな誰が誰に言っているのかわからない広いTwitterの中のちいさなつぶやきひとつを拾って、やめてください、と遮られた。そこでもう一度だけ、好きになれないのか確認したところ、文字で注意された。つーか怒鳴られた。「!」マーク付きで。男の人に怒鳴られるのは苦手だ。ものすごく怖いから。それに理不尽さも感じた。どうして好きだと言う気持ちをやめろと言われなくちゃいけない?人の心を支配なんてできないのに。そこでもうだめだと思った。その人のことは相変わらず好きだった。けれど自分の経験が、もうこの付き合いはやめなさいと忠告してきたのだ。そこは実際に会わなくて良かったと思う。ひとりで考えて答を出せたから。

もしも私がまだ10代だったら、きっと彼が一言でも、きつい言葉をかけてごめんね、なんて言ってきたら、ほだされて許してずるずるしていただろう。そしてマウントを取られ続ける演技をして疲れ果ててどちらにしてもだめになっていただろう。私が彼に「あなたの言葉はモラハラです」と言った時、私はスマホ越しに泣けてきた。決定的な決別の言葉になるとわかっていたからだ。どれだけ相手に惹かれていてもマウントされる存在になるのは嫌だったから。49歳になるまで職場で数々のモラハラ、パワハラ、セクハラなどに遭ってきた。そのせいで心の均衡まで崩した。けれど今はそれが非難される時代だし、そのことに私も賛同している。現に私はそんなに気軽に扱われていい人間じゃない。そもそもそんなことされていい人間なんて男女問わずいない。だからこれからの私のために最後の言葉を言った。彼は多分、言葉の丁寧さとは裏腹に非常に憤っていたと思う。乱暴に自分のアカウントを削除してしまった。ただその時も「責任を取るために辞めます」と言ってきたので「自分が辞めると決めたんだから人のせいにしないで」と言った。

心臓が痛くて死ぬかと思った。…もうね。三半規管も弱まってるし、この年になると恋愛って生死に関わると思うんですよ。今だからこうして少し笑えるけどその時は泣きながらだったし、相手がTwitterという唯一の繋がりから消えてしまった時、相手が死んだみたいに悲しくて空しかった。その後、それからは現実の人間たちの中でネット恋愛について話してみた。詳細ではなくてそういうやり取りから始まる恋に対してのこと。要約すると。

・あなたはそんなのに引っかかるとは思っていなかった。
・詐欺に遭うよ。
・どうせネットでしょ。
・現実で結婚相手を探したら。

多分すべて正論だ。でもね。そんなことすべてわかってるの。
失恋と呼んで差し支えなければ、それは初めてじゃない。けれどその痛みはわかってる。一度心から懸命に関わろうとしていた関係を失うのは体が引きちぎられるような辛さがある。詐欺に遭うというのだってネットだから相手が見えないことだって、言われなくても私本人が一番わかってることだ。だから口惜しくて悲しくて仕方なかったのだ。そして胸だって痛いままだった。みんなそこを放置してああしろこうしろ、とうるさかった。傷をほっとかないでよ。膿んで血が出てる人を前に正論を言ったって止血になんてならない。更にムカついたのは既婚者で友達だと思ってた男から「ショックだ」と言われ、慰めてくれるどころか、聴いてもいないのに、ま、俺にはもう大事な人はいるしね、と真正面から止めを刺された。もうほんと、みんな私を殺す気だったのか…。ちなみに上の正論でひとつ当てはまらないのは、私は別に結婚相手を探していた訳じゃないというところだ。

私は好きだったその彼を詮索などはしなかった。あれ?と思うような人から鍵付きアカウントでフォローされたりしたこともあったけど放っておいたし、おすすめユーザーに明らかに彼とわかる人がいても見に行かなかった。それはYouTubeなどでもそうだった。私の動画にコメントを入れてくれた人に対して又しても、おや?と思うことはあったが(事実彼だったのは後でわかった)やはり見に行かなかった。ただね、こちらがどれだけ見ないように心がけていても私以外の人もこの世の中にいるのだよ…。何となく知ってるかな、と思い知人に「もしかしてこの人って…」と話したところ、どうも知らなかったのは私だけだったようで、今までの疑問が繋がっていたと知った時は唖然とした。

彼は同い年でもなかったしスマホも持っていた。
新しいTwitterアカウントも知ってしまった。彼の新たなアカウントは今までの彼と同じ人なのか戸惑うくらい違っていた。そっちが本当の姿だったのだろう。私は思わず「あの人とこの人が同一人物だったとは…」と言う類の、誰のことを言っているのかわからないような言葉をつぶやいて、仮に彼の言葉がTLで流れて来たら嫌なのでミュートをしにもう一度彼のアカウントを見に行くと既にブロックされており、見られなくなっていた。私が見たのは「池沼(知的障害の略で知と障を合わせ、漢字を変えたネットスラング)の中年女性に粘着されたから」アカウントを変えた、という部分だけだ。知人もその人の本当の年齢などを知り、そっとしてあげたいという気持ちから私が気づくまで一切教えなかった。けれどその言葉遣いを目にしてからはそういった擁護の気持ちを失くしたそうだ。その時の知人の心遣いにとても感謝している。こんなふうに本当の大人は人を傷つけないものだ。

それから、私に放ったモラハラのような言葉はとある物語、と言うことにしておこうか。すべてはそれらに出てくる台詞だったのだ。そして私と毎日やり取りしていた期間の内、同い年の人たちと砕けた言葉でやり取りをしていたらしい。最後の数ヶ月が被っているからもしかしたらバカにされていたのかもしれない。それは既にもうわからないし知ろうとも思わないけど。途中、本当に立ち直りかけたのに後から後から出てくる彼の虚像だったものに私は縛られて、再び落ち込んだ。その時もどうしたら良いのかわからなくなった。

そんな時に起こった胆振東部地震。しかもブラックアウトで全道停電。
私の住む場所での停電は2日で何とか済み、被害も少なかった。だから言えることだけど電気が使えずネットから完全に隔絶できたのは私には安定剤のような役割をもたらしてくれた。ただこれは本当に被害が最低限で済んだから言えることで未だ仮設住宅どころか、避難所暮らしの方もいます。ここは個人の話ということで心に納めてください。

ちなみに彼が言った「知的障害」という部分ですが私は彼にその話をしたことはない。
しかし私は現在、病院通いをしている障害持ちだ。治るものではないからうまくつき合うために最低限の薬物治療と医師との会話により現状維持を保っている。そしてその細かい話はごく僅かな人しか知らない。これも他者にとっては秘密になるだろう。隠しておきたいことは誰にでもある。おそらくは彼の身近にそういう障害の人がいないのだろう。だから気楽にそんな言葉を吐けるのだ。しかしそんな私が今、自分でどうにかしたいのは「紳士的だった彼」の幽霊のようなもの。あの幻影にうなされていることだ。ただこれも時間の問題でうなされている悪夢ならいつかは醒める。その醒めるまでの時間は何とか平和にしていきたいと願っているのだ。多分私の希望はそれだけなのだ。だからどうかもう私を責めないで。正論で私を殴った人たち、あなたたちは大切な友達がオレオレ詐欺や結婚詐欺に引っかかったとしたら、まず誰が悪いと思う?
私が苦しんでいるのはそこなのです。

◆ ◇ ◆

平成最後日記です。
既に1年経とうとしている事実に驚愕しながら書きました。これはうだうだ思い悩むより大きな出来事だったので書いてスカッとした方がいいだろ、と思い極力情報は出さずに書いてみました。震災があった9月6日から約10日ほど経ち、私は札幌へと出向きました。それは私を支えてくれるとても大きな出来事でした。その話については今後。長くなりました。

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ずっと大好きなモデル、アドリアナ・リマが20年継続していたVictoria's Secret(以下VS)のランウェイを11月で終わらせました。まず彼女の話をする前に長い前置きがあります。私自身が好んできた道からお話します(笑)

私はブログを始めてから、セクシーな女性に憧れているということに気づきました。
今までそんなこと知らなかったのですが、PCを2002年に購入し、大澤(誉志幸)さんを筆頭に色んなサイトを見ていると、まー!出てくる出てくる美女軍団!(笑)そういえば、と思い出したのは、PCがなかった頃から私は雑誌で見ていたスーパーモデルと呼ばれる女性たちが大好きで、彼女たちを撮影していたピーター・リンドバーグなどの写真集が欲しくてすぐにPCにて探しました。

90年代、クリスティ・ターリントンの清涼感を失わないエロティシズムや、挑発的でありながらどこか遠慮が見え隠れしたクラウディア・シファー、かと思えば自らの家を撮影場所に提供して、ドレスのままシャワーを浴びるという大胆な撮影をしてしまう小悪魔のようなカーラ・ブルーニ(ニコラ・サルコジ仏大統領夫人)他にもたくさん大好きなモデルさんがいた。ある日、雑誌を読んでいると海外で下着のショーが開かれると話題になっていた。そこでVSというランジェリーカタログを知ったのでした。その頃はステファニー・セイモアがどのページにも載り、細い体ながらとても挑発的で美しかった。そこから私は海外からこのカタログを取り寄せるようになりました。間もなく、とても若いレティシア・カスタがページの端に載ったのですが、無造作な金髪とグラマラスな肢体、この上ない美しさは端だろうが目を惹き、あっという間に表紙を飾るようになりました。ほんと、あっという間だった。

そして運命の出会いがあったのです。
私はまだ紙媒体でしか彼女たちを見たことがなかったのですが、PCではVSのファッションショーを動画で閲覧できました。そこで、驚くほど挑発的な瞳を持ち、豹が人間になったのではと思うほどの、しなやかな細さと手足の長さを持つひとりのモデルさんに出会いました。ここまで長かったですね。

そう。彼女がアドリアナ・リマでした。
最初に見たときには既にデビューしてから何年も経っていたものでしたが、遡って見ていくと初めてVSに載った自分を見て嬉しくて本を抱きしめるところなどを見つけ、しかも非常にセクシーな下着なのにそれを見る彼女はまるで子供なのです。社長さんも喜ぶ彼女の頭を自分の娘のように撫でているのです。とても不思議な光景でした。そんなアドリアナ・リマ、私はリマっちなんて呼び方をして、たびたびブログにも書いてきました。彼女がVSのファッションショーを勤めたのが、なんと20年だそうです。途中、驚くほど体型が変わってしまったりして非難を浴びた時期もありましたが、彼女なりに健康な痩せすぎではない体を目指しカポエイラやボクササイズを始め、どんどん美しく健康的な体を作り上げて行きました。

今まで写真でしか観たことのないリマっちが動いたことの感動ったら!
手前味噌ではありますが私のGIF専用ブログにてリマっちカテゴリがあります。そこにたくさんの魅力的なリマっちがいますのでぜひ! ご覧ください! ぜひ!
http://blog.livedoor.jp/beatrice/archives/cat_27074.html
94020290
2005
2013
2016
2016_1
で、2016年のリマっちが可愛くてねえ…画像見てたら見とれたよ(笑)


彼女のショースタイルは非常にユニークで、そこが通常のファッションショーとは違うところでした。服を見せるためにただ淡々と歩くのではなく、よそ見して目をつけた観客を指指したり、歩き方、ポーズの決め方、すべてが独自でとても楽しかったです。彼女の独自性はVSでも群を抜いていたと思います。そんな彼女が今年2018年、とうとうVSのランウェイを終わりにする日が来ました。

彼女がVS最後のランウェイとなるステージに出てくるとき「Thank you Adriana」と書かれた扉が用意され、真ん中から開くとジュエリーを縫いつけた豪奢なレースを纏ったアドリアナがランウェイを歩きました。いちばん最後、笑顔を欠かさなかった彼女が一瞬だけ顔を歪めてしまいました。うん。そうだよね。感極まっちゃうよね…と思いながらも彼女はすぐに笑顔に変え、さっといつものように早いスピードで鮮やかにランウェイを歩ききりました。画面越しではあったけれど、惜しみない拍手を私も送りました。あなたがいなかったら人生の面白みに欠けていただろうな、型破りな美というものを考えずにファッション誌に流されて個性も何もないスタイルになっていただろうな、なんて思い返しています。

しかし、リマっち自身はあくまでもVSの仕事を終えたということで、まだまだ彼女は色んなことに挑戦中です。Instagramではボクササイズ風景や、超きれいな素顔などの投稿が多くてこれまた眼福です。
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Pumaのアンバサダーにも選ばれておりますし、これからどんなリマっちの人生の一部を私たちに見せてくれるのだろう、とわくわくしています。噂ですがVSと契約中だと他ブランドとはなかなか組むのは難しいとの話も聞きます…。しかし! リマっちはこれまでもこれからもリマっちだ! 応援するよ!

◆ ◇ ◆

少し早いですが2018年の振り返り記事になります。
今から振り返り記事を書かなければ、平成最後に間に合わない気がするくらい、2018年は私にとって心身ともに揺れ動いた年でした。あと1ヶ月残っているのに過去形で書いているのは、もうここまで振幅の大きな事柄などが起こらないように、との願いを込めています。

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2018年10月15日、
突然、21年一緒に暮らした愛猫、ななちゃんが逝ってしまいました。
お腹に毛玉が数個できていて、ここ最近の粗相も酷くなっていた。
14日昼、突然足腰がふらふらし出したので、これはおかしいと思い、
この日は日曜日だったから明日お医者さんに行こうね、と、
話していた矢先だった。ひとつ飼い主側の勝手で救いになったのは、
苦しまず、眠ったまま逝ってしまったことかな。
場所も、ふかふかでななちゃん仕様にしていた座布団の簡易ベッド。
たくさんのお気に入りのタオルと枕、暑くも寒くもない空気の通る場所だった。
まだ土の柔らかい時期だったのでそのままおうちの庭に眠ってもらいました。
お気に入りのタオルにくるりと巻いてカリカリも一緒に。

ななちゃんはうちに来た1番目の猫、くろちゃんの娘で、
唯一、妊娠しなかった子。生まれた時からどの子よりも体が小さかったけれど、
気位だけは高くて、人も猫も寄せ付けようとしなかった。
私も本気で叩き合いのケンカをしたことがある。
けれど、そんな彼女でもなぜか私は一緒にいると楽だったんだなあ。
気が合ったんだろうなあ。他の家族や猫たちにすら威嚇する子だったけど、
頭が良くて、ななちゃんが決めたことにはみんなが従うほどだった。
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そんな一匹狼(猫)ななちゃんでしたが、くろちゃんやろでちゃんがいなくなってから、
急激にらむ子さんに接近し始め、ついには一緒に眠るまでになった。
多分、誰よりも驚いたのはらむ子さんだと思う。
らむ子さんはよその子、というのが抜けなくて人間以外に懐いていなかったので、
ななちゃんの態度にはほんとうに驚いた。けれどらむ子さんの優しい性格は、
すぐにななちゃんを受け容れてくれた。
結果的にそんなふうに仲良くなったふたりを見て警戒していたみみちゃんも、
らむ子さんと眠るようになった。らむ子さんがうちに来て最後に心から安心できたのは、
ななちゃんの行動力のおかげだったと思う。

体が小さかったから機敏で細いところもするりと入り、
どんな扉であろうが、らくらくと開閉した。若い頃はそこに悩まされた(笑)
年を重ねてからは眠る時間が増え、私の膝に顎を乗せて眠ったり、
甘えた仕草を見せてくれて赤ちゃんのようになり、ひたすらに可愛かった。
今年は1月2日にらむ子さんを亡くし、今年のうちにななちゃんまで見送ることになるなんて、
と、呆然として唐突過ぎて涙は出ないかなと思った。
けれど土に返す前、用意中、タオルにくるんだ彼女の後頭部にちゅーをすると、
私の熱もあったのだろうけど、まだ柔らかくて暖かな被毛で、
私はちゅーをしたまま、そのまま彼女を手放したくなくて抱きしめて泣いた。

しばらくはななちゃんがいなくなったことに実感が湧かず、
実は10月最後の今日になってもまだ隣に寝ていたり、足元をうろついている気がする。
まだいてくれるのかなあ。夢に出てきていいよ。夢でたくさん遊ぼう。
ななちゃんは、私のベストフレンドなのだから。
おさかなに目がなくてななちゃんを避けながら歩いてごはんを食べたりもしたけど(笑)
あれほど何に対しても真面目な子は、ななちゃんだけだったと思う。
怒るのも遊ぶのも、甘えるのも。

…… いや、ほんとにまだ実感が湧かないのだけど、
そんなこと言ってちゃいけないよね。きちんとさよならは言わなくちゃね。
ななちゃんと一緒にいられたこと、ずっと忘れないから。大好きだよ。
ずっと一緒にいてくれてありがとう。
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そして、この次の日またGoogle Photosが自動生成で動画を作ってくれました。
ななちゃんの愛らしい姿がたくさん収められています。最後にこの動画を貼りますね。

2018/10/16 @Google Photos

※この文章は、とあるWebの公募に応募したものです。落選してしまいましたがこの日のことは今でも瞬時に思い出すことができます。ひとつの思い出としてブログに残しておこうと思いました。
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20代後半の頃、現在のカフェのような軽食喫茶に勤務しており、
仲の良い女友達が仕事帰りに時々寄ってくれた。その日もそうだ。混雑した昼も過ぎて客の減った店内で私は少々疲労があったが、何かを言いあぐねているように見えたのでしばらく自然に任せて黙っていた。やがて彼女の方から口火を切った。

「あたし、結婚することにした」

彼女とは小学校から高校に入るまでずっと同じクラスだが性格は正反対だ。私は内向的。彼女は好奇心旺盛で行動力がある。そんな私たちは行動範囲が違うので一緒にいることは少なかったがなぜか気が合い、ふたりで旅行などに出かけた。20代になると彼女は同じ職場でアルバイトをしている大学生の恋人ができた。彼とは喧嘩と仲直りを繰り返しながらも続いていたが大学卒業後は実家のある街に帰ると言う。彼の実家は海を越えた遠い場所だが彼女に一緒に来て欲しいと言った。つまりプロポーズされたのだ。しかし彼女はこう答えた。
「結婚なんて考えたことなかった」
私と彼女の気の合う部分に、結婚に憧れを抱いていないという点がある。そのため、他の友達が婚活などの話を始めるといつも饒舌な私たちが困って黙り込んでしまう。それが突然現実として彼女の眼前に迫っている。私はただ彼女の戸惑いや葛藤を聞くことしかできなかった。

そして彼女が考え始めてから数週間経ち、出した答が先ほどの言葉だ。私はメレンゲが溶けていくようにまろやかな気持ちになり、瞬時に『おめでとう』と口に出していた。海を越えた街で暮らすことを選んだ彼女に、心から幸せになって欲しいと思った。彼女が店を出た後、スタッフに『先を越されたな』と冷やかされたが、もしも言われたのが私ではなく彼女なら辛辣で的確な言葉を返すだろう。彼女は彼について行くのではなく彼と一緒に暮らし、一緒に何かをしたいと考えたから決めたのだ。そこに先も後もない。
そこから双方の話はすぐに決まったが出発にかなり日にちがあったので『少しの間ここでバイトしない?』と話を持ちかけると彼女は喜んで提案を受け容れた。

ところが、同じ職場で終始一緒にいるようになると、元々の性格の違いが炙り出されたように彼女は信じられないほど感情的になった。普段何を言われても冷静に言い返せる彼女が雑誌の占い如きに涙ぐむようになり、同様に普段気にしないようなことに怒りを爆発させた。感情の波が激しくなった彼女のどこをどうなだめたら気持ちが落ち着くのか把握できず、私はしばらく彼女を友達だと思うのをやめた。毎日は殺伐としたものとなり、気軽に一緒に働こうなんて誘ったことを悔やんだ。そのままで彼女のバイト期間は終わった。

すると、憑き物が落ちたように私たちの仲は元に戻った。何の理由もなく突然に。私は彼女にバイト中の様子を伝えると、彼女も自分の何かがおかしいと感じながらどうすることもできなかったのだと教えてくれた。そこからはふたりで反省し合い、歩み寄り、きちんと話をした。彼女だって感情の起伏くらいある。それは私にも言える。今回のことで私たちは初めて苦い経験を味わった。けれどもう何のわだかまりもない。そしてあれはマリッジブルーだったのかも知れないと今なら思う。

出発当日、私はあらかじめ見送りはしないと彼女に伝えて店にいた。しかし突然彼女が店にやって来た。
「え? どうしたの? 飛行機の時間大丈夫?」
「皆さんにもお世話になったから」
彼女はスタッフ全員に挨拶して回り、私の前に来たところで立ち止まった。
「今度......」
彼女が改まって言葉を止めた。
「うん」
「遊びに来て。いつでも気軽に」
彼女は私の手をぐっと握ってから店を出た。窓から彼女の後ろ姿を目で追うと何度も振り返って手を振ってくれた。私も彼女の姿が見えなくなるまで手を振り返した。

その後、彼女は離婚したが帰ってこなかった。とても住みやすくて面白い街だからと言うのが理由だ。現在40代になった今も私たちは飛行機に乗って互いの住む街に会いに行く。変わらずに話は弾む。おまけに年齢を重ねて話題も増えている。遠い街でひとりになって歩く彼女は世間と言う遮るものを素早く翻し、とてもしなやかだ。いくつになっても楽しく笑い合える女友達。沢山の経験を踏まえた私たちは絶対これからの方が楽しくなる。そう確信している。

※ ※ ※

信頼のおける「おんなともだち」を持つのは宝だと思っています。それは心から強いものです。その強さは常識をアップデートしない人たちの言う「女は強い」という概念ではなく、竹のようにしなる臨機応変さだと思うのです。「me too」運動も起こる昨今、時代は見えないところで変化しています。
「おんなともだち」は細やかで勇気があります。
時にきつい真実を投げかけ、時にそっとしておいてくれる。そして私からも発する彼女たちに対する細やかさや伝えたい言葉も受け止めてくれます。年を取った時、自分で稼いだお金、保てるだけの健康、おんなともだち、と言う三種の神器が存在してくれれば、鬼に金棒、基、悔いなく笑ってあの世に逝ける気がしています。そんなことを自らの経験から今回のテーマで書いてみたいと思いました。

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気づくと5月も最後。
3月から何も書いていないのも驚いたが、それほど時間が経ったように感じないことにも驚く。今の時期は家の庭がいちばん色づいていて活気がある。つつじ、さつきが満開。チューリップは2本だけ。なぜ2本だけなのか。数年前、雹(ひょう)が大量に降り、それは屋根にもダメージを与え、チューリップの土の場所にも直撃してしまった。その辺りには鉢植えのミニバラも植え替えていたのですがそちらも見事にやられてしまった。雹は時期を選ばずに降るから困る。時期を選んだとしても困るが。それでも毎年2本、可憐にその姿を見せてくれて嬉しい限り。

4月から5月中旬にかけては自分の書いた過去の掌編小説の推敲と言うか、手直しをしていた。
主に2004年から2006年にかけての小説に絞って行っていたが、これほどまでに今と文章の書き方が変わったのかとそこでまた驚いた。そして推敲、手直し、と言うより物語そのものを変えてしまったものもあった。そこまでしなければ現在の自分が過去の自分に説教したくなったためだ。もちろん、そこまでしてもだめなものはやはりだめで完全にボツ扱いにしたものもある。そちらの方が多い…。
それから困ったのは過去の小説ばかり見ていると妙に気が滅入ってしまった。そこは意外だった。なぜそのようなことをしているのかと言うと、以前使用していたブログを閉鎖して現在主に使用している小説ブログに統合しようと考えたから。そこでどうせ引っ越して載せるならきちんとしたものにしよう、と思い、当初は誤字脱字や三点リーダー、登場人物の言葉使いを直すことになると思っていたのが、おおごとになってしまったのです。いやはや。この作業はもう少し続きます。

これが終わったらとうとう「32のお題」の32作目に取りかかります。
アイディアは既にあって、どのように動かしていくかという段階なので近日公開になると思う。どうぞお楽しみにお待ちください。いえ、どうか待っていてください。

5月29日は家で最初に飼った黒猫、くろちゃんの3回忌でした。別にこれと言ったことはしませんでしたが、元気にはしゃぎ回り寝そべったりした姿の写真を見ては思い出にふけった。3年前のことなのに今でも思い出す景色は鮮やかなまま眼前にせまる。美しかったなと思う。今はくろちゃんが産んでくれた、みみちゃんとななちゃんの姉妹がいる。彼女たちも21歳という高齢になり色々と健康面に問題も出て来ているがそれでも可愛くてたまらない。私にできる限りの安心感を味わって日々のびのびと暮らして欲しい。

そんな訳で、久しぶりに書きました。
こうして書かないといけませんね。簡単にものごとが過ぎ去ってしまう。四季は毎年忘れずにやってきているというのに。明日は私の住む地方に大雨警報が出ています。暑くなったり寒くなったりなかなか情緒不安定な天気ですが、私も天気のことを言えたものじゃないのでまたこうしてちいさなことでもここに記していこうと思う。長いこと更新しなかった自分を省みています。

最後に載せる動画はGoogle Photoに自動生成されたものですが、そこには、くろちゃんもろでちゃんも、みみもななも、らむちゃんも、他にもたくさん家に来ていた猫たち、そして猫たちを可愛がる健康な日の母も写っていました。ほんの少し感傷的になりました。短い動画ですので観ていただけると幸甚に存じます…

Cats Photos @ Google


みみちゃんとななちゃんは元気!
miminana

2017 4 23 monkey magic compilation

(2020/09/08更新)

新旧ゴダイゴを取り混ぜて作らせていただいたものです。よしなに…
なんて時間が経つのが早いのでしょう。
昨年1月27日。私にしてみると大冒険であったゴダイゴライブのための大阪紀行。
血肉になっているのとは裏腹に、現実では既にもう過去の出来事になっている。

昨年、ゴダイゴやタケカワさんのことをおもいっきり喋りまくろう、と思い立ち、
2017年3月、専用のTwitterアカウントを作りました。
現在は閉じましたがとても楽しかったです。
何より会話が普段のアカウントと違ってものすごく多くて、
ひとつつぶやくごとに反応があるので、アドレナリンが出るほどわくわくしました。
ただ段々と思考の乖離が出て来てしまったのも事実で…

昨年2017年は、小中学校以来聴いていないゴダイゴのアルバムを探すことから始まりました。
タケカワさんのソロアルバムなんて知らない作品が10枚以上あって、
そのほとんどが廃盤になっていたので探すのも大変でしたが何とか入手して聴けました。
ゴダイゴの音楽と言うとヒットしたものがもちろん有名ですが、
少し浮世離れしているというか、スケールが大きくて、
通常の、例えば恋愛などに関しての曲は少なかった訳ですが、
タケカワさんの初期のソロアルバムではそんな恋愛的要素を思いきりフィーチャーしていて、
ゴダイゴ解散後、出したアルバムのタイトルはそのままずばりの「I LOVE YOU」だし、
ストレートな恋やそれにまつわる出来事なども描かれた作品が多く驚愕しました。
順を追って聴いていくと、恋に始まり、家族ができて、子供が増え、
その子供たちを励ますやさしい歌へと変化していったように思います。

私はそれが、彼が模索した中で完成した音楽のテーマなのかな、と思っていたのですが、
それを拒否する人が多くて辟易してしまって。もちろん感想は人それぞれではあるけれど、
「アーティスト」自身が取り組んでいる音楽的要素を否定されると、どこか私の本能が痛むのですよ。
そのうち、盛り上がっていた彼の体型やら声の変換について話すのが疲れてきてしまった。
そんな話はどうでもいい、と。

嫌なら見るな、とは簡単に言うけれど人間て、話をしてみないとわからないじゃないですか。
それまで仲良く話していた人が実は考え方の全く違う人だった、ということだってある。
その考え方の違う人を否定するほど私は偉くもないし、権利もない。それこそ人それぞれ。
元々考え込むタイプの人間なので段々悩みが深刻化してきてしまい、
そのアカウントもそろそろ潮時かなと思い始めました。
そして、一昨年9月くらいからライブの計画を建て、
実現したあとに報告してアカウントをやめようと考え、実行しました。

削除一日前はひとりでお祭をやっているかのごとくたくさんつぶやきました。
もっと本音を書いても良かったかな、と思うくらい。
私の考え方の譲れない部分として、
「完成されたものへの否定」というものがあります。たらればですとか。
そこを侵害されるとやはりその中にはいたくないな、と思うのです。
何かのファンになる。それは何でもいいのですが彼らの仕事内容に関しては、
素人であるファンが口出しをしてはいけない領域だと思うのです。
ファンが支えているからアーティストが活動できるのではなく、
アーティストが続けてくれるからファンは応援できるのです。
そこを履き違えたくないといつも思うのです。

どうしても夢中になったものの専門の話になっていくと、
狭量な世界になってしまうのだなとアカウントを作って実感しました。
要するに濃厚すぎた。説教のように知識を教えられるのも面倒だった(すまん)
そして、ちょうど四季もひとまわりして区切りが良いところで終わらせることができました。
けれどそれじゃあ印象が悪いのかと言うと、そんなことはなく、
とても勉強になったな、と思っています。
風通しの良い空間をどれほど自分が切望していたか思い知らされた。
アーティスト自身を嫌いになることはないけれど、もう深入りはしない。
そう決意させてくれた別アカウント体験でした。
と、まあこう書くと皮肉じゃないけど皮肉に聞こえるな(笑)

それと正直に書くと、
元々、私が大好きな大澤誉志幸さんとゴダイゴって逆の立ち位置にいるようですよね。
大澤さんはもう見える範囲では「気楽に行こうぜー。ゴーゴー」てな感じですが、
本来はめちゃくちゃ情熱的なアーティストで勉強家。でもその部分を見せない。
悲しみを悲しみで表現しないとか、逆説的な作品もたくさんある。
私はそういう思考の影響も多分に受けているし、大澤さんのような人を知るからこそ、
アーティストが持つ複雑さは到底素人にはわからないと思うのです。
作品という形になってやっとそれは姿を現すものだと思います。
そこを批評家気取りしてみたってもう作った本人は先を見ています。
だからこそ、尊重がまずありきでなくては。

でもそれとは違って、精一杯愛したな、とも実感しているのです。
どこか言い過ぎのひとに対して冗談を交えて否定を試みて、話題を変えたり、
とにかく会話に頭を使いました。ここまで愛せたらもう思い残すことはない。
今でもそのアカウントから交流のある方はおりますが、
皆さん、風通しの良い考え方の持ち主です。
こうしてできた縁は大事にしていきたいと思います。

※ ※ ※

そんなわけで、普段どおり、また本と献立と猫、好きな意見をリツイートするという、
本来の地味な幸坂かゆりアカウントひとつに統一したわけですが(笑)
なんだか以前にも増してとても楽になりました。
社会不安というものを抱えている中で、私よくやったなと思います。
おかげさまで関わる楽しさを知り、以前からの友達と話すのも緊張より楽しさがあります。

そして、忘れていた感情をよみがえらせてくれた出来事もありましたが、
そこは物書きなので「懐かしい痛み」として、
しっかり感情を記憶して美化して利用させていただくとします(笑)
ご清聴、ありがとうございました!

all
@kayuri_y (Instagram)

なんて日付けを置いたことだろう、と他人事のように驚いてしまう。
まずはすべての事柄は置いて、いちばん書かなければいけないことを。

2018年1月2日、愛猫らむ子さんが逝ってしまいました。
昨年の12月1日に体の異変を感じ、猫病院にかかったところ慢性腎不全が発覚し、
今年の1月2日には永遠の眠りにつきました。
よって、昨年の12月はまるごとらむ子さんの月のようです。
その12月の通院に関しては毎日Twitterでつぶやいておりました。
Twilogにも残っているので思い出したいことがあったらそちらを見るようにしています。

らむちゃんの最期は病院でした。
12月30日に栄養がまったく摂れなくなり酸素も必要なため、
家で看るのはむりだろうとのお医者さまの判断によるものです。
いつでも異変があったら知らせてください、と電話番号を託して帰宅後、
新年を迎えた1日あとに、彼女は眠るように逝ったとのことでした。

2日、迎えに行った時には、院内に誰も通さないよう配慮してくださり、
らむちゃんの体に合わせた箱の中を見ると、きれいに毛を整えられ、
可愛らしく目蓋を閉じたらむちゃんの姿がありました。
傍らには薄い桃色のタオルとカリカリ数袋も添えてくださいました。
そこで、今までくろちゃんやろでちゃんはお庭に埋めていたのですが、
真冬で地面が掘れない旨を話すとペット霊園のことを教えていただいた。
ひとしきり挨拶が終わるときちんと窓のついた紙の蓋を閉じ、
紫色の布をふんわりかけてくださり、先生は小雪の舞う外まで見送りに来てくださった。
そして私たちの車が出発して病院から遠ざかるまで深々とお辞儀をしてくださった。

帰宅後、すぐさま霊園に連絡を取り、次の日に予約を入れた。
そこまで済んで私も義父もへなへな、という感じで床に座り、
静かにごはんを食べた。お弁当になってしまったが文句など出るはずもなく…
みみちゃんとななちゃんはなぜだかいつもより深く眠りについていて静かだった。

深夜、お風呂もすべて終え、ひとりきりになったとき、
らむちゃんを寝かせてある部屋に呼ばれた気がしたので上をしっかり着て行ってみた。
紫の布を外し、蓋を開け、閉じた目蓋のらむちゃんの横顔を見つめた。可愛い。
そういえばじっくりお話していなかったね、と、出会ってから今日までのことを、
らむちゃんに「憶えてる?」と何度も訊ねては溢れる涙を拭った。
何時間か経ち、箱もすべて元通りにして部屋を出た。
みみちゃんとななちゃんがぱっちり目を開けて私を迎えてくれた。
やっぱりわかってるんだな、と思う。私はふたりを同時に抱きしめる。

翌日、ペット霊園で遺骨は庭に埋めたいと話すと、
では陶器の容れ物などは必要ないですね、と可愛らしい巾着袋を薦められた。
青と桃色があって、らむちゃんに似合いそうな桃色を指定した。
焼き場ではずっと泣くまいとしていた決心が崩れてしまったけれど、
何とか笑顔で見送ることができた。
骨になった猫を見るのは生まれて初めてだった。
らむちゃんの骨はまるで恐竜図鑑で見るかのように、
しっぽの先まできれいに骨の形を残していた。喉仏も。
霊園の方が喉仏について説明してくださる。
まるで両手を広げているようなまるい形の上に、すっと伸びた上部は観音様のように見える。
だから喉仏と言うんですよ、と。そのお話を聞きながら、らむちゃんの骨を、
巾着袋に入れていく。最後の最後、その喉仏をそっと置いてきゅっとリボンを結んだ。

雪がちらつく中、家に戻り、巾着袋を前にして義父とお酒を少し飲んだ。
この子は野良だったのに家に入れてしまって、他の猫たちともなかなかうまくいかなかった。
人間が勝手なことをしてらむちゃんはしあわせだっただろうか、とずっと気になっていた。
けれど最後の一ヶ月間、急激に3匹は寄り添い一緒に眠った。
その柔らかな表情を見てこれで良かったのだ、と自分の中で納得した。
雪が溶け、春になり、土が柔らかくなったら、くろちゃんやろでちゃんが眠る場所に、
らむちゃんも一緒に眠る。絶対にらむちゃんだけ別の場所で眠らせるなんてしたくなかった。
だから最初は霊園でお墓を勧められるんじゃないか、とかそういった猜疑心もあったが、
きちんとわかっていただけて感謝の気持ちで一杯だった。
今もらむちゃんの遺骨はおうちにいます。
きっと、お庭に場所を移す日、新たに寂しさが襲うだろうな、と思いますが、
きちんと最後の最後まで全うさせようと誓っております。
ramumimi ramunana1 ramuutouto
懐かしい若い頃のおあそび動画を作ってみました。

◆ ◆ ◆

おひさしぶりです。いきなりの長文になりました。
この間にも小説を更新していたのですが、書く気にならず、
もたもたしていたら2月に入ってしまいました。
でも過ぎたとは言え、らむちゃんのことは必ず書こうと思っておりました。
こうして彼女のことを書いている今も、なぜだかみみちゃんとななちゃんは静かです。
まるで私の集中力を途切れさせないかのように。不思議だ。いい子だね。

小説の更新は久しぶりです。
「微エロで32のお題」29作目を「L'oiseau Blue」にて公開しました。
rain
「埋み火」(うずみび)
http://blog.livedoor.jp/y_yukisaka/archives/52274817.html

埋み火とは、火鉢を消した中で完全に消えきっていない火、つまり種火のことです。
この種火によっていちから火を熾すより早く火が熾るようになります。
私がこの言葉を使ったのはどんな燃えかすの中にも火はある、というもので、
お釈迦様の説法の本にも書いてあって参考に読みたかったのですが見つからず。
きっとこういうのってあとから忘れた頃に出てくるんですよね(笑)
もう消えてしまった火も実は隠れているだけで残っているのだと、
その部分を恋に置き換えて書いてみました。

タイトルに火を使用しているけれど裏のもうひとつのテーマは水です。
だから最初、タイトルに迷ったのですが水を主体としたタイトルにしようとすると、
どうも横文字ばかり浮かんでしまって、それも悪くはないのですが、
今回の小説に限っては日本語がいいなと思い「埋み火」を選択しました。

ずっとメモ帳などに思いついたことをつらつら書き、
アイディアが少しずつたまっていった頃、
気づくと充電期間に入ってから5ヶ月が経っていました。
あの電池切れの状態のときはもうこれ以上何も書けないのでは、と、
思っていたほどなのに、またこうして書くことができました。不思議ですね。
もちろん適当なものではありません。適当どころか今回書いた小説が、
今後自分のテーマになるような気がしています。
その種火のようなものが文章の中に埋め込まれているのだと思います。
今回はお題ありとは言いながらないようなものだったので、
完全に書きたいものを書きました。起も結もないまったく自由な小説。
自由だから下手したら物語すらないかも知れません(笑)
でも私が望んでいるのは実はその「物語のなさ」で、
揺れたまま答えの出ない文章を書き続ける旅のようなものを綴っていきたいのです。
今回の「埋み火」はその決まった方向性での一作目としてちょうど良かったと思っています。

なのであらすじは、と言われると、少し困ってしまうのですが(笑)
ジャンルとしては恋愛です。故に性描写も少々ございます。
起承転結のはっきりした小説がお好きな方にはつまらないと思えるかも知れませんが、
これが幸坂かゆりの目指すものの一歩です。
どうぞご一読くださると嬉しく思います。

前回の続きになります。

「母の日」ですね。
数年前までは姉とふたりでカーネーションと一緒に、
ちょっとしたお菓子などを渡していましたが、
今は入院しているのでお花も食べ物も遠慮しています。
父親との話を先に書きましたがもちろん母親との間にも葛藤はありました。

けれど数年前、認知症を患い、脳梗塞を2度起こし、
脳の言語を司る部分が破壊されたため一切話ができなくなりました。
現在は療養入院をさせていただいている病院先に洗濯物を届け、
顔を見に行き、二言三言話しかけて母の寝顔を見て帰る日々です。
その間、母は言葉を発することはなく起きているときはただ私の顔を見つめます。
家で介護をしている最中はその目がとても怖かったのですが、
今は見つめられたら微笑みの目を向けています。

治ることはもうないとわかっていて鼻から栄養を摂り眠るだけの母に、
ここまで進んでしまったんだ、という冷たい感想しかありませんでした。
それは介護中、距離が近すぎたため感情が麻痺してしまったせいだと思っています。
しかし母が家を離れ、感情が落ち着いたとき初めて治らない母に戸惑いが生じ、
家にいるときのような気軽な言葉のかけ方すらわからなくなってしまいました。

だからいつも、
「元気?」「寒くない?」「いっぱい寝た?」などの言葉をかけて終わり、
その後は再び洗濯物を袋に詰め、なくなりそうな備品の補充に行くだけでした。
そんなある日、突然自分の中から母に向けて出てきた言葉がありました。
「早く良くなってね」という言葉でした。
本来なら嘘になります。治ることはないのだから。
けれど、その言葉を聞いた母の目は明らかに微笑みを向けてくれていました。
そのとき、どうしてこんなに喜んでくれる言葉をかけてあげなかったのだろう、
と、悔やみました。けれどその言葉を母に向けるということを、
私は知らなかったのだろうと思います。
次からは毎回その言葉をかけ、母の微笑みの眼差しを受け取っています。
その眼差しは今、母からもらう唯一の〈言葉〉です。

こんな状態になった今、葛藤について書こうとしても何も出てきません。
圧倒的に世話を受ける立場になってしまった母が、
脳梗塞を起こす少し前、まだ話ができたときに言ったことがあります。
「こうやってできないことが増えていって死んでいくんだね」と。
病気がわかったきっかけとなったのは文字が書けなくなったことでした。
そこから70代前半という若さもあり、ものすごい速さで病気は進行し、
得意だった洋裁もできなくなった母を思い、堪らない気持ちになります。
どれほど口惜しく悲しかったことだろうと思います。

時折、幼かった頃の夢を見ては母を責めたりしているので、
記憶のどこかでは消化できていない部分もあるのだとは思いますが、
もうそれをぶつけることなんてとてもできない。
病気以前は手を繋ぐことすら嫌がるほど支えられるのを嫌がった母が、
今では手も足もすべて、看護師さんや介護師さんに任せています。
私も介護中、爪を切ったりハンドクリームを塗ったりと、触れる機会がありましたが、
母は何の抵抗も示さず、むしろ喜んでいました。観念してしまったのだと思います。
ただそうして観念した母は少女のように無邪気でした。
娘が言うのもおかしいのですが愛らしかったのです。
以前なら目上に対し、可愛いだなんて失礼だから絶対に言ってはいけない言葉でした。

昨夜「母の日」ということでふと、母が好きだった曲を思い出し、
動画サイトで調べて聞きました。
山口百恵さんの「秋桜(コスモス)」です。
元々、百恵さんの曲や顔立ちなどが好きだった母は、
アイメイクなどを真似ていたほどです。
姉と母と3人でカラオケに行ったときも、
(母は歌わないのですが聞くのが好きだからとついてきていました。)
私がふざけて八代亜紀さんの物真似を大げさにしたりして笑わせる中、
何となく入れた「秋桜(コスモス)」を歌ったとき、
その歌詞に感情が溢れそうになり、また下手な物真似をしてふざけてしまいました。
もちろんふざけずにはいられなかったというのが事実ですが、
きちんと歌って聞かせてあげれば良かった、とも思います。

「秋桜(コスモス)」の歌詞は娘が嫁ぐ前日のお話です。
始まりは庭に咲くコスモスを眺めながら母と娘がアルバムを眺めながら、
色んな思い出話に花を咲かせるのですが、
娘の荷造りを手伝う母が突如涙を溢れさせ、
「元気で」と娘にひとこと言うのです。
娘はこの結婚の前日のたった一日だけ、
もう少しあなたの子供でいさせてください、と返します。

私は成人式に本来母が望んでいた着物すら着なかったし、結婚もせず、
花嫁姿も孫の顔も見せることができなかったけれど、
曲中の気丈な母親と私の母を重ね、涙がとまりませんでした。
子供の頃、どれだけそばにいて欲しいときにもいなくて、父親が去ったあと、
恋愛を楽しむ母に反撥し、私自身が精神を崩してしまったこともあったけれど、
それでも私は母を愛しているのだろうとどうしようもなく思うのです。
こころのどこかで本当は気づきたくなかった感情かも知れませんが、それは多分、
ずっと憎らしい、と思うような元気な母でいて欲しかった私の甘えだと思います。
気づいてしまった今年の「母の日」は私にとってひどくせつない日に感じました。

※「秋桜(コスモス)」歌詞(リンク



時間が過ぎてしまいましたが、母のことを思う日は一日ではないなと実感しております。

昨年11月、以前聴いていたタケカワユキヒデさんの楽曲を再び耳にし、
動画を視聴しているうちに大家族と呼ばれる彼の人生観というのか、
どのような父親像なのかとても興味が湧き、
幸運なことに彼は自分が父親であるという目線からの本を、
多数執筆してくださっていたので読んでみた。

青天の霹靂というのか、言葉どおりの衝撃を受けたものの言葉は逆かな。
曇り空から強烈な光が差したようでした。
私の両親はお世辞にも子煩悩という訳ではなく、
子供側として少し被害者面して言うと、
人生を狂わされたと思っています。ひどい言い方ですが。

特に父親は母以外の人間を結婚後に愛し、
私たちがいるにも関わらず思いを遂げて家を出た。
のちに離婚はしたけれど養育費を払うという裁判の可決に対し、
結局謝るだけで最後まで払わなかった。
そのため母と姉と私は極貧生活を強いられた。
母親はずっと働きづめで常に疲労し、私葉その頃不登校になったのだが、
理由も問えないほど生活に追い詰められていたのだと今なら思う。
そう、今なら。どうして父親は養育費をくれなかったのだろうと。
父親の生活が苦しかろうが自分の生きたい人生を再び手に入れるために、
ひとつの築き上げた家族を捨てることの対価として養育費の支払いを命じられたのに、
たまに家に顔を出しては「ごめんな、俺も苦しくてな…」なんて言い訳をしていた。
甘い。今ならそう思う…。哀しいかな。すべてはもう遅い。
遅いから仮に実際会ったとしても問い詰めたりはしないけれど気持ちには傷痕として残った。
男女関係について、友人知人、親戚、テレビの中、本の中、様々なメディアで観て来て、
父親ってなんだろう、と私は小学生の低学年と高学年のちょうど中間辺りで、
そう疑問に思ったまま成長しました。

本題の前に長くなりましたが、これらは必要な要素なので…。
そこで先に書いた晴天の霹靂が起こったのです。
タケカワさんの著書「ビューティフルネームの本」と「娘を持つ父親のために」の2冊は、
私のそれまでの人生観を覆し、大いに戸惑い、戸惑ったままこうして書いている。
どちらの著書でもタケカワさんは偉ぶらず、タイトルとは裏腹に、
〈父親〉という括りではなく〈親〉としての立場から、
〈娘〉であり〈自分の子供たち〉に目線を置いて書いている。
〈親〉として子供たちがこれから育ち、自立して生きていくために自分たち両親は、
何をしてあげられるのか、また何をしてはいけないのか、そのことを読みやすく、
また大切な箇所は何度も繰り返しています。

タケカワさんの動画やインタビューなどでも子供たちに関するお話をされているとき、
本当にちいさなことにも目を見張った。例えば、車酔い。
私も例に漏れず車酔いをよくする子供だった。
そしてドライブ中、車の中を汚してしまったのと父親の顔から表れ出ている、
〈俺の運転が悪いというのか〉という非難めいた視線が怖かったのを今でも憶えている。

タケカワさんは車酔いをする子供にどうしたら良いのかと奥さんと一緒に対策を考える。
彼の提案は、年齢の違う子供たちに共通した曲をみんなで歌うというものだった。
それは音楽を生業としている彼の思考だから一見、特殊に思えるけれど、
実は私にも当てはまる対策だった。うちも両親共に音楽好きだったので、
当事から車中ではよく音楽を流していた。
しかしそれは父親が選択した音楽で私たち子供はそれほど馴染めないものだった。
そこで、私と姉のお気に入りの音楽の中から、
車でかけても雰囲気に差し支えのないお気に入りの曲を選び、
カセットテープで編集したものをおずおずと父に差し出してはかけてくれるか気遣った。
ほんの僅かな時間だったがかけてくれたときは、
それらに合わせて一緒に歌っているので決して車酔いしなかった。
そのことに気づいて以来、音楽のかからない中で酔いそうになったときは、
上を向いたり窓を開けたりしながら一番の効果である〈心の中で歌う〉ことを実践していた。

もちろん今さらあの頃の自分の父親に対し、
タケカワさんのようだったならとは思わない。比較は馬鹿げている。
けれどタケカワさんのように酔わないための対策を考える、
という親がいることに非常に驚いたのだ。時代の差とも思わない。
今健在なら70代後半であろう実父だが音楽が好きだという共通項があり、
タケカワさんでさえ既に60代を越え、後半に入ろうとしているからだ。
これはひとつのエピソードだけれど、
その他にも父親が率先して食事を作ったり対話の徹底性など、
子供と関わるためのアイディアがたくさんありここには書ききれない。
ますます父親ってなんなんだろう、と混乱を極めた。それが現在です。 

最近、とある書籍にて〈愛着障害〉なる言葉を目にした。
まだあまり咀嚼できていない状態なので明言は避けたいところですが、
〈愛着というものはストックしていける〉というひとことに目が留まった。
愛着の基本は〈子供が安心して暮らせる保護にある状態〉を指すので、
〈愛情〉とは区別して書かれています。
〈愛情〉は感情的な問題なのでそこはまた違う話になります。
もしかしたら私はたった今〈愛着〉をストックしている真っ只中なのかもしれない。

事実、タケカワさんの書籍(「娘を持つ~」)を参考にして、
一緒に暮らすあまり仲の良くない義父におずおずと接してみたところ、
現段階では驚くほどコミュニケーションがスムーズになっている。 
とても単純なことです。相手の話に頷きを入れるか否か。それだけ。
私は相手の顔を見て話したり、相槌を入れるということは随分前から行なっていたけれど、 
義父は相槌も打たず、話していた話題から自分のエピソードを思い出すことが多く、
みんなが会話している場面でも話をさらっていってしまう癖があった。 
そこをとりあえずあからさまにムッとして黙り込むのをやめてみて、
話をさせて積極的にではなくても〈聞いてるよ〉というアプローチをしてみた。
まずは自分からそうして態度に表してみる。そこから始めた。次に言葉を。
まだまだ昨年末から今年にかけての試みなのでこの先のことはわからないけれど、
それでも話をしたくないからと、それまで逃げるように寝室に隠れ、
ひたすら眠っていた段階からは一歩進めたような気がしている。
思いを口に出すのは怖いけれど生活を楽にもしてくれる。
相槌のないおしゃべりを仕掛けるのはしどろもどろになるしなかなか困難だけれど。

少しずつ少しずつ。 
義父も高齢なのでできないことが増えてきている。
私が多少手伝いに回るとき、コミュニケーションが取れないとほんとうに大変だと思うのだ。 
そして今までずっと私の癖であった鼻歌、いや割と真面目に歌いながら行動する、
という、はた迷惑な私の癖が復活したのが嬉しい。もうずっと忘れていたから。
口元を緩ませるのは心をほぐすことにも繋がると思う。
それを思い出せたことが一番大きいかも知れない。

今日は「母の日」ですが、まずは父親に関することから書かなければ、
母親の話に言及できないと思い、気持ちの整理をつける上でも書いてみました。
これだけでもブログとしては充分長いので得意の第2弾へともつれ込もうと思います(笑)

※参考動画



※参考文献

娘を持つ父親のための本
タケカワ ユキヒデ
集英社
2001-12


ビューティフルネームの本
タケカワ ユキヒデ
T-time
2012-11-15


アタッチメント―生涯にわたる絆
数井 みゆき
ミネルヴァ書房
2005-04


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