First Kiss

幸坂かゆり Weblog

うお。
もう一週間以上経ってしまったのか。

お久しぶりです。
そして私自身、久しぶりに大澤(誉志幸)さんのライブに参加して参りました。
「大澤誉志幸 SASURAI TOUR 2019 夏の宵」です。
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※2枚目の画像は北海道の大澤さんファンの方が作ったものだそうです。すごい。使わせていただきます。

今回は大澤さんがこちらに来てくれたと言っても過言ではない。誘ってくれたのは大澤さんの記事の時にいつもお名前を出させていただいているM姉さん(ブログはコチラ
実際、大澤さんの北海道ツアーと言っても毎回遠い場所ばかりだったので諦めていて客観的に眺めているばかりだったのですが今回はなんと網走市美幌町という町で北見市のほぼ隣! メールでそんな情報があったことにも気づかずにいた俺。バカ! 俺バカ!

M姉さんの魅惑のお誘いに秒で「イエス」の返事をした自分にも驚いたが、フットワークも軽くあれよあれよとチケットにホテルまで予約してくれた姉さんには感服してしまうのであった。そして年齢を経たこともあるのか若い頃ほど緊張感がなかった。これは洵に嬉しいことです。緊張感というもので言いたいことも言えない過去が山ほど積み重なっているのだから。今回の旅行は100パーセントめちゃくちゃ楽しかった! 体調も(体重増えたせいか)あまり疲れを感じず万全。地元でありながら普段近すぎて行かなかった観光スポットなどにも赴いた。

話がめちゃくちゃになる寸前なので一端戻しましょう。
大澤さんのライブは令和元年7月9日、美幌「ぷちパーティ」というライブハウスにて行われました。小さなお店ですが音も良くきちんと座れる空間でお酒も飲める好みの場所でした。(ただトイレがまさかの和式…)ライブ前、ごく軽く食べたいね、と言っていた私たちに「今日はフードは提供していないんですよ」というライブハウスのスタッフさんのひとこと。ちっ。オススメしてくれたお隣の焼肉屋さんに出向き、なぜライブ前に焼肉なの、と愚痴を言いつつ匂いのつかない配慮をしてくださっているその店でたっぷりサガリ(ハラミの脂身が少ない感じの肉。或いはハラミの北海道の言い方)や野菜を食べる。美味しかったです。スタミナつきました。

さあ、ライブですよ…。
以前行ったのがいつか思い出せないくらい月日が経っていますよ…。
確か最後に行った時、唇が荒れ放題で口紅すら塗れなかったはず。しかも駅の階段から落ちたはず。今回もまあ肌荒れがあったけれど何とか前日にケアが間に合い、ファンデーションはつけられなくてもコンシーラーに救ってもらい、何とかなった。個人的か。

私と姉さんは前から2番目の席を選び、大澤さんの膝小僧がやたら目に入る位置でした。大澤さん、お膝ぴかぴか。途中何となく幽体離脱しているような感覚で、自分がこの場にいること、10年ぶりくらいに再び大澤さんの魅力的なハスキーヴォイスを目の前で聴けていることが不思議でならなかった。ツアーはまだ途中なのでセットリストの解禁はいけないですね。しかし馴染みのある曲、珍しい曲、あの曲この曲どんな曲(大澤さんが何度も言ってた)雰囲気に合わせ、色々と演奏してくれました。つくづく思ったが大澤さんは本当にギターのテクニックがすごい。あの細くて長い指を見ていてもわかるけれど器用でとにかく上手い。3本のギターを駆使して色んな奏法も楽しめました。キーボードの青木庸和(つねかず)氏との相性も素晴らしく、魅了されました。アンコールも含め、全19曲、いやあ楽しめました! 大澤さん! 心の故郷! …と言わせていただきます! もうやはり会わずにはいられない!

大澤さんとはライブ後、5000円以上グッズを購入したお客様に「Two Shot Ticket」なるものがゲットでき、グッズにサイン、握手(お好みによっては)ハグ、などしてもらえるチケットが貰えます。パンフレットは既に持っているものでしたがなんのその。何冊あってもいいので買いました。その他こちらも個人的にずっと欲しかった扇子を購入。ああ、デパートとかで買わなくて良かった。立派な誉マーク(大澤さんのサイン)のついたものは私にはどんなブランドものよりも尊い。ちょっと雰囲気でパタパタしたくなるがうちには猫がいるので要注意。大事にします。夏の間、どこに行くにもお供させます。

と、言う訳でかなり遅れた上にもう大澤さんは北海道から離れてしまっていますが、ここは書かなければ。ライブ前後、M姉さんと道東観光もとても良かったのでこの後書きますね。もう一度言う。めちゃくちゃ楽しかった!

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平成最後から令和元年にかけて夢中で読んでいた本がある。
青空文庫なので電子書籍になるけれど本は本だ。最初は病院の待ち時間などで何となく目にしただけだった。それなのにいきなり夢中になり続きが気になり、結局すべてダウンロードして読了した。それは与謝野晶子訳の「源氏物語」だった。令和にいきなり平安時代の物語。しかし構わない。おもしろいんだから。私は今の今まで「源氏物語」をきちんと読んだことがなく、興味はありつつ読むきっかけもなくここまで来た。大和和紀さんが好きなのでいつでも読める体勢は整っていたはずなのに読まなかった。これも縁なのか。

そして読了後、私の光源氏への印象が変わった。
あんた、まめでええ奴やな、といきなり関西弁で答えたくなるような感じだった。まず初めに一夫一婦制の世の中で数え切れないほどの女性を愛人に持つような男を信じられなかったというのがある。第一夫人として最後まで愛される紫の上にしたって誘拐のように引き取り、むりやり手篭めにするのをあらすじで知っていたため違和感があった。けれどいざ読むと確かに紫の上との初夜となる場面は痛々しい。ただ源氏の生きる時代での女性の立場の弱さというものを考慮しなければならない。現代のようにひとりでも生きて行くというのはほぼ不可能に近く、大抵ひとりで生きると決めた女性は尼になり世を捨てる。最初こそ馴染まなかったが大体2帖くらいから慣れた。

そして光源氏の描写が驚くほど美しく、彼に敵うものはないという書き方なので何となく納得して読み進めた。終いには光源氏にどこか好感を持つようになった。と言うのは、彼は自分が手をつけた女性を絶対に見捨てないからだ。読む前から有名だった、容姿があまり良くないとされる末摘花に対しても、途中疎かにはなるものの最終的に思い出し、きちんと妻の座を与える。その辺りの物語の進み具合は痛快だ。なかなかそういうのはできるものじゃない。しかも他にも尋常な数ではない女性と付き合っているので、その人たちの生活の面倒を見ているというのは多分、彼にしかできないことであっただろう。それだけでもすごいと思ってしまう。あくまでもあの時代に於いてだが。何しろ女性の自由がまったくきかない時代の物語で、肝心なのは著者が女性だということだ。そこにますます説得力を感じてしまう。

源氏亡き後の物語にも美しい男は登場する。
それは源氏が生きていた時代、彼がむりやり関係を持った女性が遺した子供の薫であるが、彼は本当の父親の反対を行くような真面目な性質で読んでいてあまりにも恋に関して呑気なので、苛々すること多数であった。彼のライバルとして匂宮という男も出てくるが、彼は源氏の女癖の悪いところを凝縮したようないやなヤツだった。絶対彼は紛うことなきヒールキャラだ。女性に対していい加減でその興味の理由もライバルの薫が気に入ったから奴より先に取ってしまえという単なる負けず嫌いの感情だったりするから救いようがない。最後の最後に登場する浮舟という女性がなかなかに面白かった。性格自体は面白がってはいけないような真面目な女性だが、彼女は薫にも匂宮にも惹かれながら、そして迫られながらも結局靡かず出家し、尼としての人生を選ぶからだ。

そこに私はどうして紫式部が源氏亡き後もこの物語を続けたのだろうという答が潜んでいる気がした。最愛の女性であっても出家してしまえばどうしても手に入らなくなる尼という道。それは光源氏に対しての、そしてあの時代の男に対しての紫式部の筆での復讐であり、登場した女性たちへの救いのような気がした。あの時代にはそれしか方法がなかったのではないか。今も充分女性にとって不便な世の中だが比較できない。何しろ女というだけで罪だと言われるのだから、出家しか男から逃れる方法はないだろう。少なくとも読者である私はそれしか思い浮かばなかった。しかも美しい盛りの頃の出家なのだからもったいないし遣る瀬ない。しかし最高の復讐だ。

ただ女性たちは出家しながらもやはり苦しんでいる。本来ならそんな道など歩みたくなかっただろう。普通に恋愛をし、普通に夫と結ばれ、できれば子供に恵まれ、平穏に過ごす。それが望みだったのではないだろうか。しかしそんな理想も宇治でのお話、いわゆる「宇治十帖」と呼ばれる最後になると恋愛そのもの自体にうんざりしてくる。紫式部とは何者だったのだろう。今読んでも共感できるってすごい。初めて読んで夢中になって続きがどうなるのかどきどきした。こんな読書ってなかなかない。ただ与謝野晶子の訳では「源氏」とか「紫の上」とか名詞が決まっておらず男は位の高さが変わるとその位で呼ばれるし、紫の上など「女王(にょおう)」とか呼ばれるので頭がついて行かず、何度読み返したことか。次回は好評だという瀬戸内寂聴氏の源氏物語を読んでみようと思う。そして大和和紀氏の「あさきゆめみし」もどんなものか読んでみたい。

細かいところで気になったのはあの時代だから医者というものがどういう立場かわからないが、体の不調があると何かと「物の怪」のせいにしていた部分。いや普通に考えて病院行こう!と思うがあの時代の病院などの施設はどんなものだったのかわからないので何とも言えない。宇治十帖に出てくる大君という姫君などは自分の妹を心配し過ぎて死んでしまうのだから儚すぎる。夕霧や葵の上、紫の上や女三宮にも降りかかる生霊としての存在も知識では「六条の御息所」という女性の仕業となっているが、物語の中では「六条」に住んでいる「御息所」という位の人、というくらいなのでちんぷんかんぷんにはなった。

物語のあらすじだけを追うと、昭和から平成にかけて人気だったどろどろしたお昼のメロドラマのような展開だが、ここまで夢中にさせ、今でも胸の奥に息づいているように印象深くなる理由のひとつとして描写の力がある。自然の風景はもとより、着るもの、焚き染める香、凝った手紙、男女の美麗さ、ゆったりとしたあの時代の催し物等、見逃せない魅力がふんだんに散りばめられているからだ。決して現実だけでなくこちらの想像力をくすぐるような抽象的な帖のタイトルなども小説としてとても豊かだ。ここまでの物語をほんの56帖ほどで完結できるなんて本当は短いのかもしれないとも思う。そのくらい紫式部の文章にはセンスとブラックユーモアがある。でなければここまで多くの人を虜にしないだろう。その虜になったひとりに私もまた加わった。世の中、何に夢中になるか本当にわからない。面白い読書体験でした。

上画像 / 岡田嘉夫

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すべてはこの一冊から始まった。







画像から見つけて激しく読みたくなったので次はこちらを読みます。


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 Happy Birthday. My pretty baby!

5月1日、元号が変わり令和を迎えました。
さてその次の日もまた幸坂にとっては記念すべき日でございます。
かわいい愛猫、みみちゃんの22回目のお誕生日です!
すごいよ!平成と令和をまたにかけてるよ!
上画像は平成最後に撮ったみみちゃん。
下画像が最新!令和元年を迎えたみみちゃん。
心なしか、おねむのようです。
いつもまんまるな瞳できょとんとしたお顔がキュートなみみちゃん。

現在、色々と悪いところも出て来て病院通いなどはしておりますが、
よく遊び、食べて、眠って、たまにべんぴちゃんになるけれど、
そこは飼い主がマッサージなどをして解消させ、元気に暮らしております。
最近はツイッターにて毎日服薬させる錠剤をのませる様子を必ずつぶやいておりますが、
これには自分なりにどこまで続くかわからないルールがあって、
「みみちゃん」(基本)をいかに違ったニックネームで呼ぶか、と言う、
何気なくハードルの高いことを自分に課して続けております。
みみちゃんは毎日嫌がりながらもきちんとのんでくれて、
その後は何も根に持つこともせず、じっとかわいい瞳で見つめてくれたり、
遊んで、と言って来たりします。
あなたがなるべく元気で、この先も快適に過ごしてくれたらとても嬉しい。
あなたがいてくれて気持ち良さそうにあくびをしているところを見るのがしあわせ。

心から誕生日おめでとう。
また私からは炎の連続ハグになる一日です。

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かわいこちゃん、今宵のおやつは大好きなホタテ味のちゅ~るにしようね。

猫アンソロジーバナー
新元号が決まりましたね。

「令和」

しなやかで強そうなかっこいい元号だな、という印象です。何もわからないけれど希望を感じられるという心持ちがとても心身に良い影響を与える気がします。

さて、話をいきなり自分に寄せますが、
3月1日に発行した新刊「君と僕の記憶のすべて」から、はや1か月経ちます。
時が過ぎるのが最近本当に早く感じます。そこから3月31日に、
こっそり表紙デザインと内容を変更し、BCCKSさんから紙の書籍の販売も行いました。
もちろんこれからも無料で読むことはできます。
ただ単に著者が紙と言うもので手にしたかった、というのが理由です。
そんな訳で紙の方は売り上げ0ですが閲覧して下さった方が60人もいらっしゃって、
EPUBも13冊ダウンロードしていただいております。大変ありがたいことです。
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右が最初に発行した時の表紙
左が31日にこっそり変更した表紙
(どうしても画像の大きさが揃わない…)

その後、以前参加させていただいていたサークルを離れ、
これからどうしようかと考えていたところ、
ツイッターにて来年の文学フリマに発表する予定だと言う小説を募集しているのを見つけました。
しかもその内容は「猫アンソロジー」!
「手のひらに猫を乗せるしあわせ」とキャッチコピーがついていました。
冒頭の可愛らしい画像が「猫アンソロジー」のバナーでございます。

そちらを笹波ことみさん(@kxtxmi )が主宰で 書き手さんを募集しており、
締切日に知ったのでギリギリのダメ元で応募しました。何とか間に合い、
そこから応募要領の条件を満たした方を選別し、当落が決まる、とのことでした。

それから数日後、メッセージが届き、幸坂、当選いたしました。
私は黒猫が出演する物語を担当することになりました。締め切りは9月22日、
何としてでも傑作を書きたいと思います。がんばれ私。
まずは一ヶ月間、猫の書籍群を読み、そこからテーマを決めて書き始めようと思います。
アイディアはいつも書き留めておけるようにメモを持ち歩いております。


先月は悪夢のような鬱状態に悩まされて何もできない状態でしたが、
カウンセリングの場で思い切り感情を出せたことが良い方向に向かったようで、
もちろんまだ気は抜けないけれど、それでもふつふつと元気は復活しています。
これから春もやって来るし、私のスピードを保つことを忘れず、色々行動できたらと思っています。
あ、それからもうひとつ発表したいことがあるのですが、それはまだ少し時間がかかるので、
完成次第、ブログにて報告します。久しぶりにブログを書くと、まあ長くなりますわ(笑)

ではまた近い内に!

最近、自分がぶれにぶれてしまって片言で生きているようだ。
何に対しても自分の反応が薄い。影が薄い。夢の中に片足を突っ込んで日常を暮らしているようだ。覇気がないとも言う。焦っているようでぼんやりしている。思考が分断される。集中力がおかしな方向に向く。…などと、今考えつく限りの寝言を言ってみた。いや、実際困っている。次に何をしたらいいのか、よくわからなくなっている。


上の記述までが下書きに残っていた文章。2019年3月8日になっている。
この後も先の状態は続き、充分な栄養と睡眠を摂ってネットからも離れていれば落ち着くだろう、と考えていたがもうその段階を過ぎてしまっていた。夕食の支度をしていても順番がわからなくなる。買い物に行っても何を買っていいのか決められない。意味もなく淋しい。どう考えてもこれは10年ほど前に罹ったうつの状態だ。うつはただふさぎ込むのが症状ではなく感情が見えなくなり、一見周りからすれば落ち着いて見えるのでわかりにくいのだ。実際本人はただただ焦燥感で考えることすら困難になっているのだけど。そんな訳で、かかりつけである病院に相談し、カウンセリングを受けることにした。

自分が何を悩んでいたのかは既に混乱してわからなくなっていた。
ただ精神心理士さんとは初めて顔を合わすのでまずは話すことをなるべく考えておかねば、と動かない頭で思いついた時にメモするようにしていた。しかし何せ、考えることができないので4行くらいしか書けなかったのだけれど。

そして19日、カウンセリングの日が来た。結果から言うと、号泣しました。
感情が決壊したかのように。カウンセラーの方は何を言う訳でもなく、まだよくわからない患者と向かい合い、ここ2週間くらいのことを教えてください、と何とか言葉を引き出そうとしてくれた。私も前日までは何らかの言葉を返せると思っていた。それなのに驚くほどまったく整った言葉が出て来ない。自分でも何を言っているのかわからない。ただ焦った。こんなに話すのが困難になるなんて経験がないので余計に慌て、口惜しさも手伝った挙句、涙が溢れ、止めようがなかった。

きっと私が話した言葉は途切れ途切れで何を言っているのか聴き取れなかったのではと思う。
けれどカウンセラーさんに否定もされず聴いてもらったことと、泣ける状態にまで感情が戻ったこともあり、帰宅後、私の心にはほんの少し余裕ができた。とは言え、その心の余裕は帰宅後に気づいたことなので、しばらくはカウンセリングを続けてみましょう、という話に落ち着いた。1ヶ月に1度、時間も30分、午前中、と決まっている。その方がきっと良いと思う。

ちなみに、今回の不調の原因のひとつに医師の言葉がある。
何とか保っていた昨年から次から次へと起こっていたダメージを、具体的にではなく最終的な報告と言う感じで医師に「色々あってこんなふうに思っていました」と話し、ひとことふたこと言葉をいただき、お薬の処方をしてもらえれば充分のはずだった。だからこそ診察してもらった「とある日」の医師の言葉は信じ難くて認めたくなかった。医師は話を進めようとする私に「他にもまだ患者さんがいるから」と言って遮った。違和感があった。それでも意地で話をした。最終的に「ねえ、こんなにがんばっているのにね」という言葉ももらった。だから医師のせいではなく、人間誰しも色んな心理状態があるものだと思い込もうとした。私は医師を悪く思いたくなかった。そうして押さえつけていたことで不安と行き場のないストレスが増して行った。多分、その言葉の後に話した私の言葉は受け流されていたと思う。患者、という役に私は入っていないのだと否定されたようだった。それでは私は何なのだろう。ただ精神科の待合室をサロン代わりにするような一部の人々と私は変わらないのだろうか。そんなふうに思われるのは嫌だった。

そして、そのまま我慢を重ねた結果が最悪の調子の悪さに凝縮された。
あまりにも普段の生活に支障をきたしていたため、発達障害の検査もしてもらった。結果はただの私の特性だった。では何故こんなにも毎日が大変なのだ、と考えた末に行き着いたのが医師の言葉だった。もちろん医師だけのせいではなく、それまでに積み重なったストレスがあった。しかし最後の砦、いわばオッケーという印鑑を押して終われる時に捺印を拒否された感じがした。あ、何だか今も語彙がおかしいな。まだまだ無理をしてはいけない段階なのだ。いかん。とにかく何もかもが怖くて外にも出られない、家でも落ち着かない、朝も昼も夜も義父の食事の支度をしなければならない。食材が尽きれば自分が調達しなければならない。誰も行ってくれない。これが死ぬまで続くのだろうか。重荷だった。そんな最悪な思考のループの日々にとりあえず一端タイムがかかった。私には友達もいるし姉もいるが、こういう悩みは専門家に話さなければと思っていたことでカウンセラーさんを紹介してもらうところまで進めることができた。医師がだめでもどこかに道はあるはずだと思い続けたことは正解だったと思う。でなければこんな長文も書けなかっただろう。いや本当に長いな(笑)

私は今年50歳になる。今ある悩みをうやむやにしたら、誰からも相手にされなくなるような怖さがある。差別的な見方だろうか。けれど周りの高齢になる精神的な病を抱える人を見ていると、年齢からか少し図々しくなり医師とツーカーの仲のような関係だと言わんばかりに話すのでそう感じてしまう。だから怖いのを隠していた。でもまずは落ち着いて座れる椅子を見つけたという段階だと思う。とりあえずはその椅子に座り、ゆっくりお茶でも飲んで一呼吸置いてみようと思う。まだ私はこうして分析する力がある。大丈夫だと思いたい。

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幸坂かゆり / 著「君と僕の記憶のすべて
2019年3月1日、BCCKSさんから電子書籍として新作の本を刊行しました。
タイトルをクリックすると本の詳細ページに飛び、そこから読めます。
完全無料公開しておりますのでぜひご覧ください。

しつこいくらいあとがきや解説にも書いたのですが、2006年頃から2018年にかけて書いた小説の中から12篇選んで1冊に纏めました。過去のブログや掲載していただいたサイトの作品もありますが、今回本に纏めるということでかなり執拗に推敲し、中には物語が変わってしまったものもあります。そのくらい成長しているのだ、と思いたいです(笑)

この本を作ろうと思ったきっかけは2006年から書き続けていた「微?エロで32のお題」というお題サイトさまからお借りした32編の物語が2018年にやっと書き終えたからでした。
書いている途中でお題サイトさん自体が消滅してしまった、ということもあり、実際自分でも途中で投げてしまおうかな、とか思ったことは一度や二度ではありません。
それでも半ば意地と、やはりどこか最後は自分自身で読みたいと言う自己満足的な部分があり、この32編を1冊に纏めて本にしよう、と思い立ったのが発端です、が、いざ纏めてみるとなんというまとまりのなさ。酷すぎました(笑)そのままだと自分の好きな作品もおかしなふうに見えてしまうような違和感。そういうものを感じまして色々削っていくうちにどんどん違う内容になり、32のお題も関係なくなり、気づくと私がこれまで生きてきたことをまるで彼岸から見ているような不思議な物語が集まりました。

表紙の無防備に肢を投げ出して毛づくろいをしている猫は、らむ子さん。
かゆり家にいてくれたやさしい女の子です。彼女の写真を偶然見つけて表紙にしようと決めてから、タイトルも内容もすべて変化したほど彼女の存在は圧倒的でした。そんな彼女の写真からは「あんまり攻撃的なおはなしじゃないほうがいいよ」というメッセージを向けられているような気がしました。まともに顔も映っていないのになぜだか私に語りかけてくれていました。らむ子さんはやさしい子だったから…。私は彼女のメッセージを受け、できれば表紙に恥じないような本にしたい、と思いました。

3月1日、というのは自分が決めた締め切りです。
これだけはどうしても守りたかった。編集者がいないので自分で規制を設けるしかありませんでした。そんな訳で過去作品の推敲のすさまじさは格闘としか言いようがありませんでしたが、随分読めるようになったと思います。
そしてタイトルにもなっている「君と僕の記憶のすべて」はこれまでの作品の中でいちばん素直で、自分に近くて、希望も見える大好きな作品になりました。本なので随分字数も増やせることができたので削ってきたものをすべて注ぎ込めました。なんてことのない物語、と言ってしまうのは容易い。けれど私が考える小説はストーリーありきではなく、心の記憶と風景の描写がまずありき、なのです。まだまだ修行しなければならない部分は山ほど見えますがそういった折れることのできないものが自分の中にあるのなら大丈夫だと思えます。
何だかだらだらと書いてしまいましたが、そんなふうに思えたこの本。今回は電子書籍ですが、ゆくゆくは書籍化にもする予定です。そこは自己満足で私自身が紙で読みたいというだけです。値段もつきますし、もしもそれでも購入したいという方がいてくれたら非常に嬉しいことです。

とにかくです! こうして無事刊行できた大事な新刊。
ぜひたくさんの方に読んでいただきたいと思います。ぜひご一読くださいませ。

こちらも好評発売中です。↓ ※アフィリエイトではありません。



花の名残り
幸坂かゆり
BCCKS Distribution
2015-08-17

ashi
昨年の私は「散々」と「しがらみ」いう言葉を筆文字で書き、
藁人形に打ち付けたいような年でした。

しかし今年は何故だか大晦日からわくわくする感覚が沸いて来て、
まだ見ぬ2019年がとても楽しみに思えたのが驚きでした。
別段何をした訳でもない。そこで思う。

年が変わるというのはただ日付をまたぎ、今日から明日になるだけではないのだと。
確実に何か目に見えないものがしっかり息づいているのだと思うのです。
もちろん、だからと言って今年に入り、
いきなり悩みごとの元が断たれる訳ではなく、未だ継続しているモノもある。
けれど突如芽生えたその「わくわく」という気持ちひとつで物事の捉え方に変化ができ、
少しずつと言うよりは強引な形で幸せへと進んでいます。
昨年失くしたものがあった分、心の器には他のものを受け入れられる余裕もできました。

それがとても神秘的に感じたので神社だけは参拝に行かなければと思い、
初詣に出かけ、今回もしっかり勢い良くお賽銭をバーン!と投げ、
神様に昨年の感謝とお祈りをしましたが、今年は少し図太く言わせてもらった。

「私は精一杯がんばる。だから神様、困った時には助けを求めるから救え」

そのように伝えた。もちろん意訳だ。
そこまで神様に啖呵を切ったのだから、
私は今年、そして来年再来年と、1年だけではなく自分自身をきちんと見つめ、
自分以外の人間が抱える問題を自分と混同しないことに気をつけ、
幸せを目標にしようと本気で思う。
私自身を大切にする。
そんな私という人間を、
自分を大切にしようとしてちいさな手を合わせる誰かを、
神よ、
どうか救いなさい。


◆ ◇ ◆

この文章は自分の過去ブログにも載せましたが、
最初は「She is」というサイトのエッセイの公募に向けて書いたものでした。
そのときのテーマは「ハロー、運命」ぴったりだ!と膝を打つほどだった、が、あいにく掲載にはなりませんでした(笑)それでもこの時に感じたこの心の動きを3月に入った今も大事にしております。ちなみに上の画像は私の足元と凍る玄関前です。

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今年初めての更新になります。
もう1月中旬に入ろうとしていますが、新年明けましておめでとうございます。そして寒中見舞い申し上げます。今年も11日と日付は遡るのですが北見神社に参拝に行って参りました。おみくじは昨年同様「末吉」でしたが、何となく書かれていることに希望を感じたので結ばず、そのまま持ち帰って来ました。

1月早々反省の弁なのですが、わたくし、本気で年賀状の存在を忘れておりました。
友人知人に何枚かいただき、それではっとした次第です。申し訳ありません…。という訳でブログの方で新年の挨拶と代えさせていただきます。毎回毎回本当に平謝りでございます。いただいた年賀状は大事に保管させていただいております。はい。

昨年は「散々」という言葉がぴったりの年でしたが、今年は大晦日からわくわくする感覚が沸いて来てまだ見ぬ2019年がとても楽しみに思えたのが驚きであり、嬉しくもありました。確実に年が変わるのは日付けをまたぐだけではないんだ、という何か目に見えないものがしっかり息づいているようでした。そこまで神秘的に感じたので神社だけは参拝に行かなければと思い、今回もしっかりお賽銭をバーン!と投げ、神様に昨年の感謝とお祈りをしました。今年は少し図太く「私は精一杯がんばる。だから神様、困った時には助けを求めるから頼んだ」(意訳です)と伝えました。私の座右の銘でもある聖書からの言葉「求めよ、さらば与えられん」を意訳で伝えた訳です。

色々なことに悩まされた昨年。今年になっていきなり悩みごとの元が断たれる訳ではなく未だ継続しているものもありますが気持ちの捉え方で解決策が見えたりして、少しずつ、と言うよりは強引な形で光の見える方へと進んでいます。昨年失くしたものがあった分、心の器には他のものが入れるよう余裕ができました。そこに私は今年、そして今年から来年再来年と、1年だけではなく自分を大切にし、きちんと見つめ、自分以外の人間が抱える問題を自分と混同しないことを目標にしたいと思います。

もちろん、大変な人を放っておくということではなくその人の問題をその人自身に帰依させる、というのを自分の中に持ちたいのです。そうでなければ私まで惑わされてしまう。今までがそうであったから私はおろおろし続け、結果的に自分の意見も出せないまま終わることが多かった。うまく行かせるかは場数を踏まないとわからない。だから積極的に色々なやりたいと思うことには関わって行こうと思います。おみくじ裏面の「神の教」が印象に残ったので書き出しておきます。
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「神の教」

なさけこもったその一言に死んだ心も生き返る
優しい一言がどれほど先方の胸に暖かい光を与え、力を添えるか。言葉には魂があり、
力がある。常に神様と御一体になって、暖かい心を養ない、良い言葉、優しい言葉で
人を慰め、人をいたわり、明るい世の中を作りましょう。とげある言葉は人をきずつける。

◆ ◇ ◆

写真は昨年のものです。今年はどんど焼きの日と重なって混んでいたため撮影を断念しました。北見神社は天照大神様を祀っております。

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さて、2018年振り返り記事です。
大晦日に突然重い話から始まりますが、必要だと思うので書きます。

私は子供の頃、家族と縁の薄い少女だった。家でも学校でも落ち着かず不登校になっていた私が誰よりも安心して身を寄せた音楽があった。それがタケカワユキヒデさんだ。彼は周知の通り、ご結婚もされたお子さんがたくさんいてお孫さんもひ孫さんもいらっしゃる。彼は家族というものを愛し、愛されている。昔から。そんな当たり前のように差し出される愛に溢れた作品を私は子守唄にして生きてきた。学校に行けなかった日は情けなくて仕方がなかったが真夜中に彼の歌をヘッドフォンで隠れて聴いた時間だけは自分を許してあげられる唯一のものだった。

時は移り、現在です。
2018年9月17日、平成30年、手稲神社秋季例大祭。私はその日を一生忘れないだろう。

昨夜書いたように5日深夜、胆振東部地震と名づけられた地震が起き、道内でも遠い道東地方ですら被害があった。その約2週間後の17日、タケカワユキヒデさんのソロライブが手稲神社で行われるのを友達が教えてくれた。札幌は本当に同じ道内でも北見との距離がかなりあるので、大概のライブなどはスルーしてしまう。同じ遠方に出向くのなら友達がいる東京や大阪に行った方がいいと思えるくらいだ。
そんなぼんやりした考えでいた時に地震と停電が起こった。しかも道内全域のブラックアウト。私はその時も灯りのつかない中で、ああ、これはもう手稲へは行けないな、と半ば諦めて道順なども調べるのをやめた。しかし手稲神社の公式サイトやFacebookなどで秋祭りの準備が進んでいると知った。ようやく私は往復バスの予約をし、色々と準備を進めた。決めてしまうと準備はあっという間に整った。しかし前日ベッドに入る前に思った。

何しに札幌に行くんだろう。

あまりにも淡々と物事を進めて明日に迫っているという日に思ったのはそんなことだった。心に感情が入っていなかった。眠れなかったがバスの中で眠ればいいだろう。でもそこまでしてどうして、と心に問いながらその日が来た。私ひとりだし仮にバスをキャンセルしてキャンセル料を取られるにしても自分が悪いのだから全額支払う気でいた。でもここまで来て行かないのも変だ。何だったら札幌に着いたら駅ビルでぶらぶらして好きなカフェもあるし、そこに行ってそのまま帰って来よう。そんなことも考えていた。

しかし、あれよあれよと言う間に時間が経ち、通常通りの電車に乗ると手稲神社に着いてしまった。ライブの始まる時間は19時45分だったが私が着いたのは17時だった。まだ時間があったが席は座ったもの順だったので空いてる席を確保したあと、動けなくなってしまった。通路が隣にある一番端の前から4~5番目の席でスピーカーのまん前。ライブ前のお稚児さんの舞や風雪太鼓を観た。そわそわしていたけれど芸術が大好きなので感激した。心にじわりと笑みが広がるようになってきた。

19時45分。タケカワユキヒデさんがステージに現れた。斜めからだと遮るものがなくてものすごく近い位置でよく見えた。彼が出て来た瞬間、やはり気持ちが高揚した。そして歌い始めると慣れ親しんだ声と人懐こい笑顔にこちらもつられる(眼鏡をかけたのでよく見えた)。今書きたいのはライブ内容のことではないので細かいことは省きます。今回は一人きりで感動も恥ずかしさも享受できたことが大事なことだった。誰かと分かち合うことも大事だけれど私は数年の間、肝心の私というものがおざなりになっていて他人の人生を生きているような錯覚に陥っていたので、私自身を喜ばせてあげたかったのだ。「一人で」他のお客さんたちと盛り上がる。私の人生を楽しむことを思い出す。それがきっと手稲神社に来た意味だったのだと思う。

ライブ後、サインと握手と軽くお話ができる機会があったにも関わらず私はお礼以外何も言葉にできなかった。そこだけがもどかしい。まだまだ自己肯定の低い私はうまく喋ることができなかった。上手いというのは芸人さんのようにというのではなく、自分の話したいことを相手に伝えられるかどうかだ。その時に必要なのは自分の感情と決意だ。自分ではない誰かばかり見ていたら一人になった時躓く。口から出る言葉が本当に自分の言いたいことなのか相手を気遣っている言葉なのかわからなくなってしまうのは自分をきちんと見てあげなかったからだ。今ならあの日言いたかったことがわかる。それは「こんな大変な時期に来て下さってありがとうございます」という感謝。それだけだ。いつかきちんと自分の言葉を話せる機会があるだろうか。だとしたらその時までに自己評価を通常まで引き上げておきたい。直接会えて、あなたの歌を聴けて良かった。本当に良かった。

帰りも迷子になりまくったけれど、結果的に色んな人に道を尋ね行きたい場所へと辿り着けた。そしてなぜあそこまで道に迷ったのか、それは札幌がまだ地震直後という状況だったので節電のため普段目印にしているものの照明が消えていたという理由もあった。帰りは夜行バスで5~6時間揺られた。夜なのでそこでも照明は消され、スマホも手書きもできなかったが私の心は感情に溢れてすぐにでも何かに書きたかった。この感情を書くまで死ねないとも思った(笑)明らかにこの日を境に私の中の何かが変化してきていた。もちろん感情に上下はあったがそれでも。一人きりになって充分自由に思考できることが重要で、そこで私は改めて自分を取り戻せたのだと思う。時折感情の波に押され、躓きながらも一度手に入れた大切な自由はこれから芽吹くことと思う。

そして今日は大晦日。
やっと心から微笑できるようになった。しがらみとの決別。仲違いしていた古い友達との仲直り。色んなことが私を前に進めて行く。今年、私が初詣で引いたおみくじは末吉だった。確かに1年として考えると散々だったと思うけどやはり散々さにも最後が訪れたようだ。もう来年はとっくに目標に突き進んでいるだろう。最後に、ライブの動画を上げている方がいらしたのでお借りします。

『ガンダーラ』
いきなり1曲目からでした。

『銀河鉄道999』
ラストの曲。ものすごく盛り上がりました!
 
今年の最後、この気持ちを来年は行動に移して行きたい。
長くなりました。今年は本当に厄年かと思うほどの1年でしたが大晦日にその呪縛から逃れそうです。もう全身で空気が変わるのを感じている。来年への課題もある。そこへひたすら向かうのみ。来年は良い年になりそう。長々とつき合わせてしまいました。皆様、来年もまたお会いしましょう。良いお年をお過ごし下さい。

さて、少しだけ今年のことを振り返りたいと思います。
何度でも言いますが今年は私にとって精神的に大変多忙な年でした。
その中でも日常を脅かす2018年9月6日胆振東部地震は非常に大きかった。地震は深夜でした。例によって宵っ張りの私は起きていて、それほど動揺はしなかったのですが直後に起きた停電が長引いたことが色濃く残っています。そして皮肉にもこれが私に様々なことを1から再始動させるきっかけとなった。もちろん電気が点かないのでPCも電池残量が気になるスマホも消した。その時はとにかく夜だったし、明るくなるまで待とうと義父と話し、怖がって私にくっついてきていた愛猫、みみちゃんとななちゃん(当時)が落ち着き、朝になるのを待ってから寝室に行った。

電池残量が気になってスマホを開くことをためらい、メモ帳を取り出し、気がつくとあれこれとその時の状況…と言うよりも自分の感情を書きなぐった。つい最近それが見つかったので読み返してみると案外忘れていることも多かった。そしてそのメモだけ見ていると最近人にも言われたがやはり私はどこか呑気なのだろうか、とも思った。書き出してみますね。

◆ ◆ ◆

※9月5日 深夜
ビールを飲んでゆったりしていたところ、いきなりの地震。突然の停電。ブレーカーを確認したらそれじゃない。窓を開けるとすべてが真っ暗だった。ああ地震はうちだけじゃないんだと思った。スマホでの確認は必要最低限に。何と全道全域だそう。不謹慎だけど漫画「ドラゴン・ヘッド」を思い出した。あれは電車が止まって真っ暗で地震ではないけれど動けない状況が続き、日が進むにつれ、食べ物も傷み出し、人の気配もまったくしなくなり…書いていて気が狂いそうになった。そして現実の話、冷蔵庫の中身。刺身が…牛乳が…。

※9月6日 午後15時15分
停電中だけど近所の子供達が元気に遊んでいて救われる…気温は30度になり、エアコンは使えないけど窓から風が入るので涼しい。自然な風は呼吸をさせてくれる。滑らかで流れの決まりごとの一切ない気ままな風。ありがたい。

※9月6日 午後15時45分
砂川市は電気が復旧した様子。ガスと水道は使えるので今日はこのままカップラーメンだな。ツナ缶に穴を開けてロウソク代わりに、という知恵もあったがうちは猫たちが騒ぐので却下。

※9月6日(時間記入なし)
陽が暮れてきた。懐中電灯の電池もばっちり。けれどそわそわと時が空く。そんな時手に取って落ち着くのが写真集だった。特にかわいい動物の本はホッとする。みみは割と落ち着いて周りを観察しているのだけど、ななは敏感なので体のほとんどを私にぴったりと預けたままでいる。大分外は気温が下がってきた。

※同、17時~
近所のコンビニ(徒歩2~3分)は閉店。電池等売り切れ。

※同、18時~
懐中電灯の明かりだけで書くと不思議だ。自分が羽ペンなどを使用していた時代の人になったように感じる。外はどこも暗い。時折ふくろうのような声が聞こえてくるほど静寂。

※同、19時~
ほくでんの車が通る。「今日中に復旧の目処が立ちません。」だけ聞こえた。避難所も用意されている。私は家にいる。ここまで暗くなるとジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」を思い出す。あれは計画停電で男女の物語だったけれど。

※同、20時~
窓を見ると星が非常に鮮やかだったので懐中電灯を持って外に行くと満天の星空!幼い頃に見たままの星の姿だ。星にも命があるけれど風景は変わらない。人間の作る電飾が増えて見えなくなっていただけだ。星はいつも静かにそこに「在る」。

※同、20時半~
何とか冷えを保っていたビールを飲む(笑)もちろん深酒は禁物。
それでも思う。夜は、眠るか、お喋りするか、愛する時間。

◆ ◆ ◆

メモはここで途切れていて、私もさすがにこの日は早々に寝たのだろう。結果的に停電は2日間で済み、私の住む道東地方の被害は少なかったが母のいる施設は断水までしたというのだから深刻だ。なんでもなくて良かった。義父はテレビっ子なのでテレビも音楽も何もない2日間は叱られた子供のようにしょげてしまって気を使った。実はそれが一番疲れた。電気が復旧してつけたテレビからは被害が酷い地域の画面が映し出され、3月11日の震災を思い出し、具合が悪くなった。あまり見続けてはいけないと思った。私は妙に共感性が強く人より疲労を感じやすい。

この日から約2週間後、私は札幌に行こうと計画を建てていたのだけど、この状態じゃ行けないだろうか、それより目的であるイベントそのものが中止になるんじゃないか、と思い、頭が真っ白になった。2018年は運気がめちゃくちゃだったので諦観する気持ちもどこかにあった。
あれから3ヶ月経ち、最後の避難所も閉じ、住民の皆さんは帰宅したり、仮設住宅に移った。北海道は元気にやり直そうとしている。仕事をしている人のはきはきとした声にとても救われたのを思い出す。彼らは仕事だから率先して客を導く立場にいるが当然彼ら自身も被災していて、停電の時は家に帰ったら電気のつかない心細さは一緒なのだ。なのに勝手なことを言う人間がいる。思慮の足りなさが一番恐ろしいと思った。

そして、私は先ほど書いた札幌のイベントを迷っている最中でした。なんてことだ。大晦日なのに書ききれないぞ(笑)また明日改めて。

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