First Kiss

幸坂かゆり Weblog

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今年に入り、小説を書くことが難しいと感じるようになった。
文章を書く時は、上手かどうかはさておき、いつもためらったりしなかったのに。
必要以上に筆が止まるのがもどかしい。どうしてなんだろう。

しかしそれにはきちんと理由があって。
いくつか原因になる事柄なんかも考えた。以前よく投稿していた場での「書き癖」があったり、日常の変化で本を読む頻度が減っていたり…etc, etc, でも一番の理由は、多分これだ。
「きれいに書こうとして、かっこつけるようになっていた。」
ちょっと気取ったふうに、小難しく見えるように。もちろんそういう文章が好きだからだけども、自然に出てくるものでなければそれはそのまま不自然になるし、肝心の思いが伝わらない。

だからここ数日、自分の過去の小説や読書感想、このブログなども振り返って読んでみた。
日によってかなり差がある。もちろん調子が出ない日もあり、それは(多分)自分にしか判らない部分だけど、それでも残すからにはある程度の水準というのかな、自分の中の尺度でその水準を満たしている文章だけを残したいと考えている。
その水準を上げ過ぎたのだろう。書き始めから妙にきれいに書こうとしてしまうものだから、肩に力が入って緊張して、つっかえて、言葉が繋がらない。今もまだ少し指が止まるけれど、それは新しいPCの文字入力に慣れていないという理由もつけておく(笑)その上で、意識してかっこつけていない分スムースではある。ただ文章自体はきれいではない。簡単な言葉ばかりだし、情報量も少ない。本来ならばもっと緻密で、きめ細かくなだらかで、短くても長くても情報量がぎゅっと詰まった重いケーキみたいな文章を想いを込めて書きたいと思うが、そうやって最初の一行から無理するから(笑)脱落すんねん(突然の関西弁)

そう。このように、色々ごちゃごちゃ絡めて、お喋りみたいな部分があるのが実は私の文章の特徴なのかな、とも最近、思ってきている(あまり認めたくなかったけど…)で、ぺらぺら喋るように書いて調子が良い時は上等だと思える比喩が生まれたりする。要するに日記的な感じでもう少し以前のように、ちょこちょこ更新していないと実際に紙に書く時のように書き方を忘れてしまうんだろう。学生じゃないから毎日ノートをつける訳でもない。大人になったらスケジュール以外に自らの感情を書いて行かないとスムースからは遠く離れてしまう。気づいているようで実は一番忘れやすいことだ。反省。

さっきからスムースという単語を何度か使っているけど、私が書くことで大事にしているのがこのスムース(smooth)という部分。だだだーっと書けること。もちろん推敲込みの話で。そこが強みだとも思っていて、1から書き出して100も1000も書いた中からいらない箇所を見つけて削る、という「大幅な推敲感覚」が私に必要なスムースで、それができないと来れば…焦りもしますね。自分の色だったり核だったりする部分なんだから。そこに気が付けて幸いだった。ずっと書けない理由も判らず、ただ慌てていたって解決しなかった。

そんな訳で、こうしてただ喋るように書く、という大事な部分、多分過去にも何度か書いているであろうこの部分をもっと意識的にやっていかなければ、と思う。いつでも本番に備えられるよう、普段から言葉の柔軟性を鍛えておかなくてはならない。ちなみにこのスムースは読まれて初めて活きる部分。書く時は表すものの倍以上、言葉が必要になり、そのあといらない部分を削る。当然、文字数は少なくなるが、それは大事なスムースのために必要な作業。

現在、夕飯の献立を考えるだけで憂鬱で、しんどくなってしまう精神状態だけど書くことは放棄できない。私は書くことしかできないから。もう、この間51歳の誕生日も迎えたことだし(これは大きい。もう人生の半分以上を生きているということだから)言い切ってしまおう。私にとって書くことは、脳から心を通って指先へ伝わり、PCのキーボードへと流れだし、視覚で感じること。生きてる、と。

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※画像は StartupStockPhotosによるPixabay より。

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昨夜、かなり長いこと寝かせた小説を蔵出ししたところ、
ものすごい下手さが湧いておりました。
ストーリーも、文章も、結びに向けての抑揚もおかしい。

2004年。私はこんなに回らない頭を持っていたのか、と今思います。
元々、エンターテインメント小説とは程遠かったのは確かですが、
それにしてもひどい。まずあり得ない状況が登場人物を悩ませている。
いや作者(私ね)気づけよ、気づかせてあげなよ、と頭を抱えました。
もう完成してしまったものは仕方ないので、
できる限り推敲、改変して小説ブログから、
大澤誉志幸さんの曲名を作品にするブログ、
「ソファーの上でロマンスを」へと移動して掲載しました。
これは、突っ込みどころ満載の掌編です。承知の上です。
しかし恐ろしいことに推敲する前の2004年のオリジナルは、
もっと酷かったということを考えると、マシだ!と思えるのです(作者がw)

軽く作品の内容に触れると、
恋人同士だったのに何らかの事情で会えないまま数年過ごしている。
ある日突然、女性宛てに送られてきたのはグアム行きの片道航空券。
差出人に名前も書いていないが字に見憶えがある彼女は行ってしまうのです。
そこで送り主の彼と再会するのですが、これまで会えなかった理由が酷すぎる…。
2004年のものは何度も書きますが更に酷いので、そのエピソードは丸ごとなくしました。
なので、何か起こりそう、しかし何も起こらない。ドキドキハラハラ、
…いや、ちょっと待って。そのまま!?  と、いうところで終わります。はい(笑)
すいません。山なし小説でございます。雰囲気を楽しんでいただけたらと思います。

なぜ舞台がグアムなのかと言いますと、
以前大澤さんのファンクラブにて物語と同じ日付にてグアム旅行の計画があったのです。
私はもちろん参加できませんでしたが、行ったような気分になるためにその日の月を調べ、
当初のタイトルには副題にファンクラブでついていた名前「Sweet Honey Moon」を、
お借りして付けていました。ハネムーンと初蜜のような月。発想はいいですよね(笑)

ただ、お話をかなり替えたので無駄にハードボイルドなシーンが入ったりして、
本当に何か起こりそうな気配がぷんぷんする小説となりました。
どうなったかは、あ、あなたの目で確かめてみてください!<(_ _*)>💦
ちなみに「g.o.a.t ブログ」、文字規制があるようで一気に載せることができず。
図らずも前後編に分かれてしまいました。
決して長くないし、引っ張りたくなかったので少し残念です。
もしよろしかったら作者がここまでボロクソに言う小説、興味本位で読んでみませんか?w

タイトルは大澤誉志幸さんの1998年のアルバム「Love Life」より、
「Private Heaven」と名付けました。優しい愛に溢れた傑作のアルバムでして、
その優しさと溢れ出すポップさをぜひ、小説にしてみたいと思っておりました。ぜひ。

ヒロインのイメージは我が家にいた猫、ななちゃん。冒頭画像の女の子は、Inka Williamsちゃん。気が強く、それでも包み込むようなまなざしを持っていることからイメージ画像にしました。

◆前編


◆後編


大澤さんのアルバムはコチラ↓

LOVELIFE
大沢誉志幸
ダブリューイーエー・ジャパン
1998-04-25

Karl Houtteman
現在の私は、義父と二人暮らしの、独りである。
年を取り、体の自由が段々利かなくなってきた義父の身の回りの世話、なんて大げさなことはしていないけれど、それに近い状況になっている。しかし母の介護の日々を思い、あの時とは違うと考えている。

母の時はもちろんだけど、私個人の前例がなく、全くの初めての経験だらけだった。
地域包括センターという場所があることも、デイサービスにショートステイ、そんな言葉も初めて知った。だから、という訳ではないけれど現在、私はまだ息切れしていない。もちろん「まだ」なんて言うと今後を予期しているようで嫌だけれど。ただ義父は今年7月に発症した病気が、たった一か月でかなり進行している。正直、別人のようだ。

母と義父の違うところは、できないことが増えても認めたがらないとか、義父自身に直して欲しいところをなぜか私に直すよう仕向けるところか。そのふたつだけでもかなり苛立っているのだけど、とりあえず感情的にならず日記のように時折書き綴っていけたらと思う。母の時は「日常ダイナマイト」なんてカテゴリにしたけれど、同じではない。私はどこか冷めた目で見ている。だからどんなふうにでも書ける「独り言」というカテゴリを作った。

母の時は、自分の人生まで浸食して来て、入浴も食事もすべて自分を後回しにし、すべてが母優先になった。もちろんそんな生活は継続できず、文字通り、私は壊れてしまった。しかし今回は義父のために自分を壊したくないと思っている。できる限り手を抜きたいし、自分のやりたいことは諦めずにやっていきたい。犠牲になりたくない。まだ慣れないケアマネージャーさんとそれでも密に連絡を取り合い、利用できるものは利用していく。もちろんそれは制度だけではなく、薬の管理が難しいのであれば市販の「お薬カレンダー」の「手」を借りるなど。大したことじゃない。それでも大きく手間は省ける。

母の施設入所が決まった時、ほぼ手を貸してくれなかった義父が母のことを「最後まで面倒見てやろうや」と疲れ果てた私に言い放った時、叫びだしそうになって口を塞いだ。そんなの言われなくても判ってる。散々そうやって「私が」やっていたことじゃないか、と。だから私は母のいずれ訪れる最期と大事な猫たちを見送ったら、すぐにでも今の家を出られるようにしておこうと思った。実際には母の介護から離れてすぐに「荷おろし症候群」に陥ってしまい、休むべき時に休めず、色々なことが手つかずのまま時間が経った。
その間に、5匹いた愛する猫たちはみんないなくなってしまった。最後の子は今年4月の出来事だった。22歳という高齢で持病も抱えていたことからいつ悪化してもおかしくない状態ではあった。それでもいつもそばで丸くなって眠る姿は、言葉がない分、純粋に愛情を惜しみなく与えさせてくれる存在だった。しかし、ついこの間、Twitterにてフォロワーさんではないけれど、とある意見を聞いた。動物を飼う際の心構えのようなことだ。
「ペットは要介護の家族、と言えば容易に飼おうとは思わなくなる」と。

非常に納得する言葉だった。身に沁みる。
事実、振り返ってみれば猫たちもいつまでも若く、おもちゃにじゃれている訳じゃない。年齢を感じるようになるのは寂しかった。その寂しさは、もうすぐこの子はいなくなってしまう、という寂しさだ。あの子たちは不意に手を離れてしまう。何の予兆も感じさせず、時折飼い主がぐっすり眠ったその隙を選ぶかのように。そんな彼らはもういない。もしも次に飼う、と考える日が来るならそれは相当自信ができ、金銭的にも人脈的にも余裕のある暮らしができる時になるだろう。

話が逸れてしまった。
現在、義父は介護認定で要支援2の段階だ。利用できるサービスは2つ。生活上必要な杖のようなものはレンタルできたり、手すりなどはつけてもらえる。(義父はすべて断ってしまったが現段階なので今後は判らない)サービスは運動系のものを利用し、週に1回だったものを支援度が上がったので2回にしてもらった。義父の病気はパーキンソン病で、どうしたって運動が必須になる。しかし独特の前のめりになる歩行は既に悪化している状態なので毎日の病院は付き添っている。正直、義父の生活すべてが重荷ではある。けれど今は事故の危険性もあり目が離せないので、このたった今の間にもどこか受け入れてくれる先を探しつつ、自分の住む部屋も探している。ヘルパーさんだったりそういったサービスがこれから使えるようになったら何も私が一緒に住む必要はないし、仮に離れてもできることはある。そんなふうに考えてしまうところが、母と違う一番のところだ。軽薄かもしれないが、それも仕方ないと考えている。
まずは先にも書いたように記しておくことから始めてみようと思う。こう言ってはなんだが、母や義父がいなくなったとして、私は猫以上に悲しむことができるだろうか、と感じる。彼らは、私の人生の中でとびきり特別な存在だった。それだけは間違いない。

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Photo / Karl Houtteman

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遅くなりましたが、6月27日に、
うちでは今のところ最後の猫、みみちゃんが亡くなってから2ヶ月経ちました。
驚くほど呆けたような毎日です。色んなくせは抜けないし、
思い出しては未だ郷愁のように涙ぐみそうになるけれど、
同時に、確実に時が経っているとも思える。
そしてより一層猫たちと私の距離だとか、性格だとか、私の接し方だとかが見えてきた。
何かが起こった時、いつもほぼ私一人でやらなければならなかったのはストレスだった
一緒にやっていたはずの母は、病気になり、いつの間にか猫のことを忘れてしまい、
いつしか一緒にいる時ですら撫でることもしなくなった。
母が連れてきた猫たちだがその猫たちの生涯を母は結局知ることはなかった。
義父は、悪い意味ではなく猫を飼う、ということに他人事で、
ひっくり返って寝てたりとかそういうご機嫌な時だけ撫でたりするのみだった。

猫たちとの暮らしは正直、重荷ではあった。
もちろん声を大にして言いたいのは、嫌いと言うことじゃなくて。
むしろ弱ってくると私よりも長くはない命を思い、
離したくない気持ちが強くなり、
その思いに圧し潰されてしまいそうだった。
年も取ってきて病気がちになった猫を病院に連れて行き、
毎日の薬を飲ませ、ご飯の工夫をし、排泄の状態を見る。
もちろん毛並みも放っておけない。
段々年と共に自分で毛繕いをしなくなる子もいた。
そうなると代わりにしてあげないとならない。
敷いてあるタオルなどはまめに洗濯しなければ毛だらけになる。
今こうして書き出していると、まるで悪口のように聞こえてしまうが、
そんなふうに、ただ可愛いだけでは過ごしていけない日常があった、という事実だ。

彼らを見つめ続けた22年間だった。
それが今年に入ってすべてがなくなった。なくなってしまった。
魚を食べる時もツナ缶を開ける時も後ろを気にしてドキドキすることも、もうない。
そして先に書いた「呆けた」状態へと繋がる。

私はまたいつか猫を飼う時が来るのだろうか。
今の時点では考えられない。まずは暮らしを整えなければという問題があるし、
年老いてきた義父のことを思うと毎日の暮らしは簡単ではなく、
母と同じようには見てあげられないので、可能な限りケアマネさんも巻き込み、
施設も頭に入れつつ、慎重に介護認定なども毎年行なってもらう。
私も今の家から出て、一人暮らしの準備もしたい。
一人暮らし、まで行けば色々とまた思考にも変化が起きるだろう。
何もかもに絶対、ということは有り得ないが、私はまず、私に還る必要がある。
誰かに属し、自分を二の次にしていたクセから抜け出さなければならない。
そんな客観性がやっと姿を見せた感じがする。長かった。本当に長かった。

その中で、たった今胸に残っているのは、ただひたすら可愛かった、すごく可愛かった、と言う猫たちへの想いだけだ。大変だったと書きながら、あの柔らかな被毛を撫で、
手が触れる位置で眠る姿を見たい、と思っている。
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画像は一番上がくろちゃん。
左上、みみちゃん 右上、ななちゃん
左下、ろでむちゃん 右下、らむ子さん
一番下、らむ子さんがうちに来る前のくろちゃん親子。

くろ、なな、ろではくっついてごはんを食べるのに、
なぜか、みみだけはいつも少し場所を離れて食べていた。

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令和2年4月27日、みみちゃんが22歳で逝ってしまいました。
もちろん大往生です。最後は持病が急変し、
病院に預けてそのままになってしまいましたが、
みみちゃんの最期はすーっと眠るようだったと教えてくれました。

彼女は暮らした猫たちの中で一番の淋しがりやさんだったので、
病院のスタッフさんが常時ワイワイ、と周りにいてくれて、
優しくしてくれて、安心して眠れたのだと思います。
看取ってあげられなかったのは残念ですが、
家に連れて帰ってから、ふたりになってお話をしました。
それでもやっぱり出てくる言葉は「ありがとう」でした。

この家で暮らしてくれて、
ずっと愛させてくれて、
そして、さよならもさせてくれて。
みみちゃんの存在そのものすべてに「ありがとう」を。

葬儀場でお別れ前にたくさん撫でて、
花に囲まれ、大好きだったカリカリを添えて送りました。
虹の橋を渡り、今は同じ場所にいるであろう、
くろちゃん(ママ)、ろでちゃん、ななちゃん、
そして、らむ子さんと会えたかな。
一緒に遊んでぺろぺろ舐めあいっこして、
どこも痛くもなく苦しくもない体で、自由に飛び回っているかな。
そうだといい、というこんな思いは都合の良い想像でしかありませんが、
どうしても願ってしまう自分がいます。
そしてわがままだけど、私の夢の中にも会いに来て欲しい。

みみちゃんが逝って、私の家に猫がいなくなりました。
みみちゃんが最後の子でした。
彼女たちのいない23年目に向かう春は、なかなか慣れない。
けれど、そのままで次の春へゆこうと思います。
悲しみも、愛したことも、記憶へと変わるけれど、
大切にしたい。忘れてしまいたくない。胸の痛みは時間にまかせて。
私の心に住み着いているのは優しい春風たち。
大好きだよ。これから先も、ずっと。
どうもありがとう。

※上画像の絵は、今日葬儀場にあったノートに描き残してきたみみちゃんです。

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お久しぶりです。
2月からまた随分時間を置いてしまいました。
ここ最近、普通に紙の日記帳にペンで書いています。
「マイブック」という新潮文庫から出ている、
本当に文庫本と同じ作りで、中身は日付けだけが印字してあって、
そこに文庫本と同じ形式で縦書きにつらつらと書いて1ページ。
毎日続けて12月31日になったら1冊完成する、というもの。

2002年にもこの日記をつけていて、
とても役立ったなあ、と思い返し、
2月の中旬辺りに購入して中途半端ですがそこから書いています。
ほぼ、スケジュール帳のように使っているので、
みみちゃん(愛猫)が通院した日のレシートや、
いただいた手紙やお菓子についていたシールなどを貼って、
ますます思い出を具体的な形にしていっております。
毎日1ページ、という量もまた続けやすいのだと思う。
どんなに遠慮なく書いているようでもSNSはいくらか気を使うので、
あけすけに書けるものがひとつでもあるのはいいものです(笑)

さて、そんな今日ですが、
お知らせは特にありません(笑)
あるにはあります。とびきり大きなお知らせが。
しかししばらくブログを書いていなかったので、
今日はとりあえず、PCで文字を書く練習ということで。
(小説とはまた違って緊張するのです)

令和元年末、まるで中世時代のように感染症が発生し、
現在、世界中を覆う勢いで蔓延し、連日報道されています。
ロックダウンなんて言葉も突然発表されましたが、
普段聞いたこともない単語なので時折忘れます。
「都市封鎖」という意味らしいですが、
日本はそこまでの意味ではなく「外出制限」と言うに留まっています。
漫画や映画の中でしか聞かなかったような、
パンデミックという状況に陥っており、死者も多数出ております。
発生した感染症(新型コロナウイルス)にはまだ治療薬がないため、
私たちが気をつけることは、ウイルスを体内に侵入させないように、
手洗いを念入りにして、急な用事以外はなるべく家にいて、
うつされないよう、またキャリアにならないようにすること。

私自身は普段から家のお仕事なので、
それほど困ることはないのですが、
それでも自らの意志で外出しないのと、
外出できない、というのは全く違うのでとても窮屈に感じます。
きっとたくさんの人がそう感じているでしょう。
世間ではマスクの他、なぜかトイレットペーパーが品切れになるなど、
昭和時代のオイルショックのような出来事が起きていて、
ドラッグストアには連日長蛇の列ができていました。
そのような職場で働く友達に聞いたところ、
品切れしたマスクを求める客によって、殺伐とした空気だったようです。
令和に起こった感染症パニックは思ってもいないところで、
人間の浅はかさが思いがけず掘り起こされたように思います。
けれど落ち着かなければ。せっかく人間なのだから…。
今年開催予定だった東京五輪も延期になりました。
様々なイベントも中止です。

それでも生きていかなければ。私にはみみちゃんがいる。
今も彼女は隣でまあるくなって眠っています。
現在の発表ではペットに感染しない、とのことなので、
何となくそこだけは安堵していますが、どうなるか判らないのも事実。
どうかこのまま収束に向かってくれれば、と願うばかりです。
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心を落ち着けるには、
みみちゃんと一緒に飲む一杯のコーヒー。

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それは記憶もおぼろげな幼少時代。
元々、左ききだった私ですが、直されてから絵を描くようになった。

それからは絵を描くことが大好きになり、
ちょっとした「隙間」を見つけるとどこにでも絵を描いた。
紙の上以外でも、チラシの裏、ダンボール、シールの余白、壁、アスファルトの上、鉛筆で、チョークで、十勝石で、軽石で、土で。

それを見ていた、当時パルプ工場に勤務していた父が、
本来なら処分される、何にも書かれていない紙を大量に持ってきてくれた。
何の見本もなく描いた人物の顔は長四角だった。
幼稚園になる頃には、とにかく気に入ったものを模写し続けた。

ある日、父が紙をまとめてホチキスで綴じ、本の形態を作ってくれてから、
鉛筆でコマ割ををし、セリフを書き入れるということができるようになり、
「ベタ」と呼ばれる背景の黒い部分も鉛筆で塗りつぶし、自分だけの本を作った。

ただ、私が幼い頃はどんな大人も、漫画というとすぐに否定された時代だった。
そんな中で、唯一否定せず、絵を自由に描く場を提供してくれて、
何も見ていない振りをしながら、実は一番評価して見てくれていた父。
色んなことがあり、今はどうしているのか判らないけれど、
その部分だけは本当に感謝してやまない。

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上の文章は私がウェブサイトを開設した当時「指先のプロフィール」と称して載せていた。
今は雰囲気を替えた仕様にしたので、省いてしまったけれど文章は手許にある。

なぜいきなりこの文章を出したか。
この間、Twitterにてふとしたこと、本当にふとした出来事から、先に書いた小学生時代読みふけっていた漫画家さんのお名前をお見かけしたからだ。

小林博美先生。大好きな「夜の雪がやさしい」という漫画。
いくつか年上のいとこのお姉さんからもらった雑誌に載っていて釘付けになった作品です。繊細な線、ただ大きいだけではない深さのある瞳、躍動感、情熱、そして美。そのすべてを備えた宝物のような漫画。引越しの多い幼少時代、どんな時も雑誌からその漫画だけ切り取り持っていたけれど、とうとうどこかで失くしてしまった。その後、成長し、パソコンを購入してからも覚束ない指で検索をしたが、その雑誌自体が高値になっており手が出なかった。何よりネットでお買い物をしたことがなくて、戸惑っているうちにそのサイトが消えてしまっていた。

もういちど読みたい。
心から思っていたその漫画が、なんと直接先生の下に届き、その後、DM(Twitter機能のひとつ、ダイレクトメッセージ)にてお話させていただき、なんと、コミックスに収録されていた(知らなかった!)その「夜の雪がやさしい」を送ってくださったのです!

おそるおそる、傷つけないよう袋を丁寧に開封し、懐かしい絵を目にする。ああ、亜子ちゃんだ、嶺(れい)だ、と最初は本当にただただ絵を追った。深呼吸をし、心を落ち着かせ、改めて読んでみた。

あらすじ:主人公の亜子は元気一杯の16歳だけれど、実はよくできた姉妹と比較され、孤独感を味わっていた。そこへ隣に人が越してくる。しかしその隣の庭にある特殊な生え方をした木は亜子のただひとつの居場所だったことから、そこにいても良いか許可を取りに行き、その隣人、髪の長い26歳の美しい男性、嶺と少しずつ言葉を交わし、心を打ち溶け合って行く。彼もまた孤独な悩みを抱えていた。とあるきっかけで亜子がどれほど普段感情を抑えて来たのか、木の隠れ家がどれほど亜子の感情を包み込んでくれたのかを知る。嶺は更に亜子をいとおしく思うようになる。けれど無常にも亜子の両親は亜子自身を認めてくれず、絶望した亜子は家を飛び出す。後で誤解だと知った亜子の家族と共に事情を知った嶺は亜子を探す。木の隠れ家に亜子はいなかった。それ以外なら一体どこに…。嶺はいちど二人で行った海を思い出す。亜子は海の中にその体を沈めようとしていた…。

私は当時いくつだったろう。
小学生か、中学生になったばかりだったか。不登校をしていて毎日何も解決しない日々、ただ学校へ行け、と怒鳴る両親。優秀な姉。私自身、なぜ不登校になったのか当時は理由が判らなかった。いつも昼間は居場所がなかった。けれど、心細い昼間とは反対にひとりきりの深夜は安心した。夜は私に優しかった。この本の亜子ちゃんほどきちんと言葉で伝えることはできなかったけれど、この本のラストのように何とか私の問題は解決した。そして今の私がいる。今でもつい先ほどのことのようにあの頃の感情が蘇る。私はこの本を読むことで自分で自分をセラピーしていたのだ。それがあの時、あの日々の中での存在だったのだろう。

読んでいて何度も涙を堪えた。当時は身近過ぎたため、そこまで感情的になることはなかった。まあ、年のせいもあるだろう(笑)今は、嶺のように亜子を抱きしめたいと思う。今の私は嶺の悩みや淋しさの方がどちらかと言うと身近だったりする。頭脳は別として。それから余談ではあるが当時、鳥を飼っていたこともあり、亜子のインコが(自粛)という場面は鳥たちの存在を思い出して号泣してしまった。あんな目に遭ったら…立ち直れない。きっとあの当時だったら猫ガッデム!と感じていたことだろう。

…逸れました。
この漫画は今後絶対に離すことなく、私の宝物として、同時に少しでも感謝の気持ちを忘れた時の戒めとして時折読み返し、きちんと保存しようと思います。いえ、思いますではなく保存します。

もちろんこの漫画のラストは嶺が助けてくれて、家族とも和解します。しかし亜子は性格がとても優しくいい子だ。裏表のない純粋性と包容力がある。だからこそ嶺も大切にしたいと思ったのだろうし、そこがこの物語の魅力のひとつでもある。今考えてみるとその上での素直さというのはギフトだと思う。こんなふうに書くと本当に私自身、年齢を重ねたんだな、とつくづく思います。もうとっくに亜子や嶺の年齢も越えてしまったけれど、この物語を通してセラピーした日々は大事な記憶です。私という人間を構成してくれたひとつでもあると思っています。貴重なご縁で、こうして再び出逢えたことに大きなしあわせを感じています。今いちど、心から感謝の言葉を捧げます。小林博美先生、どうもありがとうございます。

大切にする!心から!(ハグ)

さて、遅くなりましたが新年一回目の記事です。まずこのご報告から。

幸坂かゆりも小説で参加させていただいた、
小説9編、イラスト9点が収録された本、猫アンソロジー「手のひらに猫」
2020年1月19日(日)文学フリマ京都にて、いよいよ販売されます!
主宰の笹波ことみさん(@kxtxmi)は「コハク燈」という創作サークルにて、
小説やイラストなどを書かれています。


◆文学フリマ京都

◆猫アンソロジー「手のひらに猫」
手のひらに猫表紙
表紙イラストはalmaさん。Twitter →(@alllma_original
A5判二段組/152p(カラー9p含) / 1200円
【さ-03】コハク燈ブースで頒布。

猫と暮らす世界は、
陰惨な未来も絶望も、何もかもがない世界。
手のひらで、猫の柔らかさに触れてみて。
その一瞬でしあわせは永遠になる。
ぜひ当日、お手にとってご覧ください!

なお、通信販売でも購入できます。
(「猫アンソロジー / 手のひらに猫」は2020年1月19日に販売開始)
しかし他の作品も表紙からして素晴らしいので、私もぜひ購入しようと思います。

◆Webショップ「KOHAKUTO shop コハク燈」
https://kohakuto.booth.pm/



今から楽しみで、どきどきします。もうあと少しですね。
昨年3月に、笹波さんの募集に声をかけてからこつこつと進めて参りました。
参加が決まった時に、自分が担当する猫の毛色を指定する、という条件がありまして、
わたくし、迷わず黒猫を希望しました。
そこから間もなく書かせていただけることが決定しました。

うちには猫がいるし、もちろん大好きだし、書きたい、書かせていただきたい、と思いつつ、
大事だからこそなかなかストーリーも浮かばず、夏になる頃までまったく白紙状態でした。
その後、ちらちらと脳内を駆け巡るものがあり、やっと手をつけることができました。

あらすじを少々。
大学生の一人暮らしの主人公の許に突然現われたメスの黒猫。
黒猫は野良で、飼い主がいない。しかしとびきり美しくしなやかな彼女を、
放っておくことができない。さあ、どうなる!

いえ、特にサスペンスでもなんでもありませんが、説明が下手で(笑)
脳みそを空中浮遊させ、自由に自由に書かせていただきました。
そんな幸坂かゆりの小説、タイトルは「永遠の恋」です。
熱過ぎない適温ロマンスが大好きな私の得意分野でございます。
どうか皆様、行ける方は当日、ぜひ、お手にとってご覧くださいませ。
どうぞ、よろしくお願い致します。

/ 追伸

文学フリマ京都は大盛況のうちに幕を閉じたそうです。
当日、私はその場に行けなかったけれどSNSや、同じく参加された皆様からの、
ダイレクトな生の声を読んではわくわくしていました。
余談ですが、その日は一日中眠かったので、
多分、魂の半分くらいは京都に飛んで行ってたのでは、と思います(笑)

参加が決まった時点で、進捗状況もこまめに報告していただき、
その都度、連絡を取り合えて不安になることもありませんでした。
実に気持ちの良いお仕事ができて洵に感謝しております。
今回は本当にありがとうございました。
また縁がありましたら参加させてください。

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大晦日です。ブログは7月からご無沙汰しておりました。
私は元気です。みみちゃんも元気です。
1ヶ月に一度は書いていたはずなので振り返ってみると、
うむ。確かにいろいろあった。あんまり振り返るもんじゃないな(笑)
あ、大きな出来事があった。
3月3日、書籍を発表しました。
愛猫、らむ子さんが表紙の「君と僕の記憶のすべて」
現在も無料で読めるので、どうぞご一読ください。
平和で、歩幅を広く取ったゆったりとした短篇集です。
4月は過去に書いた古めの小説を別サイトにアーカイブとして公開しました。
そして2020年1月19日、
文学フリマに出品される「猫アンソロジー」に参加させていただきます。
もうすぐです。どきどき。

その後は少々調子を崩しましたが令和の始まりと共に、
次の目標も決まり、5月にはみみちゃんの22歳の誕生日!
可愛いべイビーですよ、いとおしいです。
6月にはずっと伸ばしていた髪を40センチ切り、
その髪はかねてから希望していたヘアドネーションをして来ました。

で、令和元年最大のハイライトは、
大澤誉志幸さんのライブに再び参加できたことです。
懐かしい友達にお誘いをいただき、会えたことが夢のよう。
でも夢じゃなかったんだな、これが!
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目眩がするほど香りも雰囲気も懐かしくて、
夢じゃないけどやっぱり夢のように楽しくて幸せで、
また絶対に行くぞ、と決心を新たにしたライブでありました。

それからは読書と日常。いつもどおりの日々。
源氏物語や泉鏡花にはまり、大晦日前日、2011年からずっと読みたいと思いながら、
なぜか読んでいなかった本をとうとう紐解き、大きく心を動かされました。
色々長々書きましたが、私のまいにちはイラストのようにいたって平和です。
来年も穏やかで、好きなものを愛し続けられるまいにちでありますように。

一日のひとコマ
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こちらは最近のみみちゃん。
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※書籍情報
「君と僕の記憶のすべて」幸坂かゆり / BCCKS刊
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※2020年1月19日 第4回文学フリマ京都
 笹波ことみさん(@kxtxmi)主宰「猫アンソロジー」参加
猫アンソロジー_フライヤー

最後になりましたが、来年もどうぞよろしくお願いします。

うお。
もう一週間以上経ってしまったのか。

お久しぶりです。
そして私自身、久しぶりに大澤(誉志幸)さんのライブに参加して参りました。
「大澤誉志幸 SASURAI TOUR 2019 夏の宵」です。
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※2枚目の画像は北海道の大澤さんファンの方が作ったものだそうです。すごい。使わせていただきます。

今回は大澤さんがこちらに来てくれたと言っても過言ではない。誘ってくれたのは大澤さんの記事の時にいつもお名前を出させていただいているM姉さん(ブログはコチラ
実際、大澤さんの北海道ツアーと言っても毎回遠い場所ばかりだったので諦めていて客観的に眺めているばかりだったのですが今回はなんと網走市美幌町という町で北見市のほぼ隣! メールでそんな情報があったことにも気づかずにいた俺。バカ! 俺バカ!

M姉さんの魅惑のお誘いに秒で「イエス」の返事をした自分にも驚いたが、フットワークも軽くあれよあれよとチケットにホテルまで予約してくれた姉さんには感服してしまうのであった。そして年齢を経たこともあるのか若い頃ほど緊張感がなかった。これは洵に嬉しいことです。緊張感というもので言いたいことも言えない過去が山ほど積み重なっているのだから。今回の旅行は100パーセントめちゃくちゃ楽しかった! 体調も(体重増えたせいか)あまり疲れを感じず万全。地元でありながら普段近すぎて行かなかった観光スポットなどにも赴いた。

話がめちゃくちゃになる寸前なので一端戻しましょう。
大澤さんのライブは令和元年7月9日、美幌「ぷちパーティ」というライブハウスにて行われました。小さなお店ですが音も良くきちんと座れる空間でお酒も飲める好みの場所でした。(ただトイレがまさかの和式…)ライブ前、ごく軽く食べたいね、と言っていた私たちに「今日はフードは提供していないんですよ」というライブハウスのスタッフさんのひとこと。ちっ。オススメしてくれたお隣の焼肉屋さんに出向き、なぜライブ前に焼肉なの、と愚痴を言いつつ匂いのつかない配慮をしてくださっているその店でたっぷりサガリ(ハラミの脂身が少ない感じの肉。或いはハラミの北海道の言い方)や野菜を食べる。美味しかったです。スタミナつきました。

さあ、ライブですよ…。
以前行ったのがいつか思い出せないくらい月日が経っていますよ…。
確か最後に行った時、唇が荒れ放題で口紅すら塗れなかったはず。しかも駅の階段から落ちたはず。今回もまあ肌荒れがあったけれど何とか前日にケアが間に合い、ファンデーションはつけられなくてもコンシーラーに救ってもらい、何とかなった。個人的か。

私と姉さんは前から2番目の席を選び、大澤さんの膝小僧がやたら目に入る位置でした。大澤さん、お膝ぴかぴか。途中何となく幽体離脱しているような感覚で、自分がこの場にいること、10年ぶりくらいに再び大澤さんの魅力的なハスキーヴォイスを目の前で聴けていることが不思議でならなかった。ツアーはまだ途中なのでセットリストの解禁はいけないですね。しかし馴染みのある曲、珍しい曲、あの曲この曲どんな曲(大澤さんが何度も言ってた)雰囲気に合わせ、色々と演奏してくれました。つくづく思ったが大澤さんは本当にギターのテクニックがすごい。あの細くて長い指を見ていてもわかるけれど器用でとにかく上手い。3本のギターを駆使して色んな奏法も楽しめました。キーボードの青木庸和(つねかず)氏との相性も素晴らしく、魅了されました。アンコールも含め、全19曲、いやあ楽しめました! 大澤さん! 心の故郷! …と言わせていただきます! もうやはり会わずにはいられない!

大澤さんとはライブ後、5000円以上グッズを購入したお客様に「Two Shot Ticket」なるものがゲットでき、グッズにサイン、握手(お好みによっては)ハグ、などしてもらえるチケットが貰えます。パンフレットは既に持っているものでしたがなんのその。何冊あってもいいので買いました。その他こちらも個人的にずっと欲しかった扇子を購入。ああ、デパートとかで買わなくて良かった。立派な誉マーク(大澤さんのサイン)のついたものは私にはどんなブランドものよりも尊い。ちょっと雰囲気でパタパタしたくなるがうちには猫がいるので要注意。大事にします。夏の間、どこに行くにもお供させます。

と、言う訳でかなり遅れた上にもう大澤さんは北海道から離れてしまっていますが、ここは書かなければ。ライブ前後、M姉さんと道東観光もとても良かったのでこの後書きますね。もう一度言う。めちゃくちゃ楽しかった!

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