First Kiss

幸坂かゆり Weblog

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お久しぶりです。
何年振りだろう。サボるにも程がありますね(笑)

私は元気にやっております。
X(旧Twitter)でも夕飯の献立など、毎日ぽつぽつ呟いております。
最近の私は、年を取った、と感じることが多く、
また、文章を書くのが下手になった、とも感じてしまい、少々ため息をついております。
自己分析してみると、以前書いていたような物語が書けなくなったと言うか、
多分、興味を持つ分野が変化して来たんだろうなと思います。
それにしても、だ。
たった今こうして文字を打っていても、何度か考えて手が止まることが増えた。

一応、偏りはあるものの記憶力には多少自信を持っていた。
そして文字を書く時つっかえたりもしなかった……はずなのに。
先ほどまで考えていたことを次の瞬間忘却して、
あれ、何書こうとしてたんだっけ、なんてしょっちゅう。
本気で大丈夫か、と思う。これが年を取るということか。
でも、年を取り「物忘れが酷くなった」と言う現象は千差万別だろうから、
誰とも比較できず、やはり年を取ったら取ったで、
思春期の頃と同じようにこれからのことが判らなくて不安になり、
同い年の友人などに確認して、私もある、と言ってもらい、
安堵したり、反対に慌てたりするのは変わらないのだった。

そんな私ですが、現在相変わらず苦心しながらも物語や文章を書いております。
そして、周囲を見渡し、鮮やかに複雑な言葉を駆使して書く人を見つけては、
嫉妬や焦燥に駆られ、それでも書かずにはいられないので歯噛みする。
と、言うか、ある種書くことが私の健康維持法でもあるのでやめられない。
ありがたいことに興味が新たにできたので、一生懸命追いかけている。
その興味の話は長くなるので違うエントリーに書くとしましょう。
取り合えず、生存確認の更新でした。
少しずつ、またブログも書けるといいな。それではまた近い内に。

※上画像は下描きもせずに描き続けている謎のいきもの、にゃぞ子。彼女は年を取らない。

2022-12-30_21h03_23
早いもので令和4年(2022年)も終わってしまいますね。
私自身の日常は至って平和で、心が時折感情的になりはしたものの、それも通常の範囲内。

ただひとつだけ、大きな出来事を起こした。(あくまでも私比)
それはYouTubeに音楽をアップするのをやめたこと。
BANされた訳ではなく、自分からやめた。
もちろん後悔はしていない。やっていたことは著作権侵害で悪いことだったから。
けれど、777人の登録者さん(当時)は音楽のアップが楽しみだったろうからそこだけが心苦しかった。そして登録を解除しないで訪れて来てくれる方の優しさが沁みた。

人間て案外、罵倒の憎らしさよりも優しさの方が、何かをする動機に繋げて行ける。
以前のチャンネルがBANされた時は、直接著作権保持者の方からの報告のためだったが、そうやって著作権保持を誇るならどうして宣伝しないの? なんて強気に考え、悔しさから、すぐにまた現在のアカウントを作り、サムネイルなど作ってその著作権保持者の方の作品は除いて再度アップを始めた。

今考えると、基本的に廃盤が多く、著作権保持者にも気づかれてないのかな、なんて思っていたが、きっと判っていても目をつぶって下さっていて、その部分に私はずっと甘えていたのだと思う。そこから段々、それでいいのか? と思うようになって来た。もちろんずっと知らない人からの罵倒もたくさん受けたが、その人が著作権保持者ではないので、それならあなたが著作権保持者にチクれば? と、強気でいた。だから今でもそう言う注意する人たちのせいでやめた、とは思われたくない。あくまで私が選んだことだ。

「これ聴きたかった!」「ありがとう」「リクエストしていいですか」
など、様々な反応をいただき、その時は嬉しくて更に自分で持っているものならアップした。
けれど、私自身がこういう事をしたって、どうしたって自分のものではないもので喜ばれているので、素人でも作品を作る人間にとっては、その部分に耐えられなくなって来た。
アップするため、編集を施し、サムネイルを作ったりすると時間がかかるし、何より私の作品じゃないので、ウケが良ければその分、気を落とした。

そしてそんな後ろめたさを抱える自分をもうやめよう、と思い立ち、
きちんと日付を決めて、すべての音楽を削除します、とコミュニティ欄で報告した。コミュニティ欄は登録者さんが500人以上になって初めて使える場なのだが、現在、登録者が順調に減っているのでw この先どうなるかは判らない。

アップをやめたばかりの頃「私のせいです。ごめんなさい」と言って下さる方が多く、もちろんその方のせいではないので、丁重に違うと伝え、そんな気持ちにさせてしまい、強烈に申し訳なく思った。この罪悪感こそが、私への報いなのだな、と思った。

長くなりました!
と、言うことで、今ではすっかり私や友達の家の猫たちや、最近集め始めたフィギュア(ちっちゃいやつ)など、著作権をクリアした音楽に乗せて僅かな動画を作るチャンネルへと様変わりした。なので、新しい地味動画をアップするごとに以前のチャンネルを望んでいた方が消え、先にも書いたが地道に登録者数は減っている。

でもそれでいい。過度な期待をされても困るだけだ。
今は私の平和な日常でも見に来て下さり、時折挨拶に訪れてくれる方がいるのがとてもありがたく、嬉しい。こういう縁っていいなと思う。そして、それこそが私らしいチャンネルだと思える。

うん。これは結構重大な出来事でした。
でも今でも稼働してるので見に来てね

冒頭画像が私のチャンネルです。→ https://www.youtube.com/@yonagahime9231

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※ 画像はコレクションしようかどうか迷っているカプセルトイの「ネコのペンおき」
 グレーの猫ちゃんは地元の友人にいただきました。(お座りさんは友人の私物)

既に11月初旬に入っておりますが、遅ればせながら10月のまとめを。
10月と言えば、ずっとファンで敬愛する、大澤誉志幸さん(3日)とタケカワユキヒデさん(22日)の誕生月。大澤さんは65歳、タケカワさんは70歳です。特別何もしていませんが(してないんか)それでもひとつ年を重ねる、ということは「命を重ねる」ことでもあるので、非常に神聖な気持ちでその日を迎えました。また来年もお祝いできますように。

先月のブログ内容は割と内に内に向かっていて、家での食事に関することが多かったのですが、10月は小学時代からの地元の友人との交流が多く、その友人からお魚や野菜をいただいたり、ご自宅にお邪魔して飲んだり食べたり、可愛い可愛い飼い猫、美雨(ミウ)ちゃんと再会できて嬉しかった。相変わらず警戒されたが…うう…。
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↑ 彼女がミウちゃんです

このまま平和に10月を越せるか、と思った最終日31日。事件は起きた。
『仮面ライダー BLACK SUN』(※「仮面ライダー BLACK」のリブート作品)がAmazon Primeにて配信になったのだ。(大げさか)しかし、一挙に10話配信の上、R-18。

血みどろでライダー愛が強すぎた、と言える詰め込み方と内容の救いのなさに動揺。
また、私も1話ずつ鑑賞すれば良かったのに、妙な時に発揮する集中力のお陰か、全話一気見。次の日は先の内容のため、屍状態に陥った。感想はTwitterでも書いたので省きますが、夢にも出て来るほど強烈な悲哀を帯びた作品でした。ただライダーの造形が素晴らしく、また音楽もカッコ良くて、現在、フィギュアの販売を待っている状態です(しっかりハマりました

更に、数々の映画賞を受賞したことでも話題の2021年作品『ドライブ・マイ・カー』も、早々とAmazon Primeにて配信され、BLACK SUNで瀕死状態だった所を救ってもらいましたw あの映画は3時間ほどあり、物語上事件は起こるけれど、それらは登場人物の心の中の出来事として進行し、あくまでもなだらかなので私には辛い物語でもとても救われます。何だかんだで心の中に怒涛の嵐が吹き荒れた10月でした。

因みに10月夢中になったのはBLACKさん(愛称)の他、平庫ワカさん原作の漫画『マイ・ブロークン・マリコ』に心を掴まれました。煙草を吸い、トレンチコート、履き古したドクターマーチンを着用する痩せた主人公にハードボイルドを感じました。ルパンのような。このコミックは永野芽郁さん主演で映画化になりましたが、北見では上映がありません。ちくしょう。

  

今回、記事のタイトルにした「浮世離れ」というのは、今更ながら寝食や生活に関して以外の私の頭の中のことだ。そこが私らしさでもあるが、時折劣等感を煽るものとして相反したまま、保ち続けている。色々なものに自分でも驚く情熱でハマり、血肉にしているが、年齢を重ね、どんどん体力にも変化があるので、できる限りこうして言葉に紡いで残しておきたい。

あ、猫が大好きなことは幼少時から全く変化なしですw

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お久しぶりです。
最近時間を置くことが多いため、あった出来事を一度に書こうとするとごちゃごちゃになってしまうと思い、Twitterのログ「twilog」の力を借りて少しでもブログを更新して行けたらと思う。ええ。月に一度が目標です(笑)

9月は1日早々、夕飯の支度中、味見をしていて舌を火傷するという失態を犯していた(笑)
ここ数年の私のツイート傾向として「夕飯の献立」が主流になっているが、
実は料理は苦手、と言うかこれまであまりしたことがなかった。
数年前、母が病気になって私が台所を預かるようになり、初めて3食作るようになった。
その時で40代。自分1人の分なら適当に作れるけれど家族の分となると、突然、料理はのんびり作るものではなく、私には闘いの対象となった。

柔らかいものや食べられる食材、調理の仕方が決まっていて献立は大変だった。
刻み食は母には食べやすかったが義父は好きじゃないと言う。その意見は現在も時折、精神的に調子が良くないと顔を出す。当時は必死だったので失礼も鑑みず、会う人会う人に日常の献立を聞いていた。そこで、ただ豆腐を切って出すとか白菜のおひたしで一品になると知り、それ以降、あの頃よりは楽になった。

9月中旬は、ファンである西島秀俊さんが出演するドラマ『ユニコーンに乗って』映画『グッバイ・クルエル・ワールド』についてのツイートが多かった。(『グッバイ~』は北見市では公開されないため小説を読んだ。)『ユニコーンに~』では『きのう何食べた?』を彷彿とさせるような西島さんの料理の場面や丁寧な所作を再び見ることができて嬉しかった。

料理オンチである私の思考を肯定的な感情に向かわせてくれたのは西島さんの近年の出演作による影響も大きい。それらは小さなことかも知れないけれど、数年経ち、ハッシュタグをつけて毎日ツイートしている献立(忘れてない時だけ写真付き)を振り返るときちんと身になって来たなと感じる。それは自分が得意だと思う料理を見つけることができたからだ。twilogで9月の「今日の夕飯」の献立を見て参考にすることもできるようになった。そんな9月の主軸となる私のつぶやきを見つけた。これを載せて9月の振り返りを締めくくろう。ブログにツイート画面を表示できるはずなのですが、取得できなかったので画像を貼り付け。
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料理は夢中と言うより必死ではあるが(笑)
冒頭画像は9月に作った晩ごはんの一部。料理写真は大抵撮り忘れることが多い。

2022_0610_bungi19summer
お久しぶりです。
最近間を空けることが多くなっていましたが、私は色々ありつつも元気です。
元気に日常を暮らして、本を読んで、ちょっと映画やドラマなんかも観て(これは冒険なのだ)音楽を聴いて過ごしています。

さて、そんな中、今月6月10日発売の『文藝マガジン文戯 19』夏号(特集は「花火」)に幸坂かゆりの小説が掲載されました。文戯マガジンは「てきすとぽい」さんにプラットフォームを借りて文戯杯と言う企画があり、テーマに沿ったテキストを募集します。毎号発行される文戯マガジンのゲスト作家を決めるため、そちらに応募した作品から投票で決められた上位3位が文戯マガジンに掲載となります。

私は以前の作品ではありますが、自分の中では未完で終わっているような気がしてずっと気になっていた『涅槃の子』と言う作品を推敲し、ラストまで書き込んだ上で応募しました。作品を書いた当時はお題があったのでそちらの文章も消しました。
主人公に名前はついていませんが、誰にも言っていないモデルがいます。とある写真を見て一気に物語が広がっていきました。その作品をもう一度皆さんに読んでもらいたい、と思い応募して、ありがたく投票をたくさんいただきました。とても短いお話です。たくさんの方に読んでいただけるとありがたく存じます。ぜひお手元にどうぞ。

  

現在は私自身も個人で発表している「BCCKS」さんのみの取り扱いになっておりますが、もうじき電子書籍はAmazon他、各社にて購入できるとのことです。ちなみに紙版もございます。
詳しくはこちらまで ↓
『文藝MAGAZINE文戯19 2022 Summer』https://bccks.jp/bcck/173800/info



2021_真犯人フラグ_ラストの原稿
ひとつのドラマを追うのは久しぶりだった。
半年という期間、毎週このドラマを見てきた。理由は勝手に主演である西島秀俊さんのファンで「西島祭」と称して、色々作品を観てみようと思い立ったことと、このドラマの端々に文学が散りばめられていた所に魅かれたからだ。しかし「作中の現実」は想像を遥かに超える心の痛みを伴い、ラストは、心が千切れそうな喪失感があり、それでも、同時に浄化されるようだった。


  

『真犯人フラグ』(2021年10月10日 - 2022年3月13日、日本テレビ)は「考察ドラマ」と位置付けられたドラマのチームが制作と言うことで、その時と同じく、散りばめられた伏線を回収するため、考察をする人々でSNSが賑わった。私自身はこのドラマの打ち出すものとは裏腹に、考察要素を省いて観ていた。

オープニング映像は、デヴィッド・フィンチャーの『Seven』(1995)を思わせた。
細かく切り替わる映像と暗めなアート感がとてもかっこいい。筋書きは妻(こちらは子供たちもだが)が失踪し、残された夫が世間からバッシングを受けるという部分で、同監督作品『Gone Girl』(2014)を思い出した。事件収束自体は『Seven』並みのショッキングなものだったが、ラストは違った。

色々ばら撒かれているけれど、この物語の核となるのは大学時代からの友人として三人の男友達だと思う。主人公、相良凌介(西島秀俊さん)、河村俊夫(田中哲司さん)、日野渉(迫田孝也さん)。共に大学時代、文芸サークルに所属しており、彼らがサークル誌に寄稿した若い頃の小説のタイトルは結構禍々しい。(「蠢く臍の緒」「懺悔の小道」など。ちなみに古井由吉の著作「ゆらぐ玉の緒」なら知ってるぞ。)多分、彼らが若い頃は現在、文豪と呼ばれる作家のような、一筋縄では行かない愛憎を含む物語を書いていたのだろう。

事件について待ち合わせる場所の店名は『至上の時』(中上健司の小説タイトルの一部)。
店主は脱サラして店をオープンさせた日野。この店が自分の人生の完結作だと話す。凌介は大学時代のみんなの憧れだった女性、真帆(宮沢りえさん)と結婚し、子供に恵まれ、家を新築中だ。そして、河村は日本で一番売れているゴシップ雑誌の編集長をしている。そこに凌介と同じ職場で働く二宮瑞穂(芳根京子さん)や、凌介の娘の恋人である橘一星(佐野勇人さん)が協力者として加わる。もちろん、この後色々と問題は起こるが。

もう随分時間が経ってしまったので結末に触れていきます。
失踪事件は三つに分かれていた。子供二人は後に救い出されるが、真帆は世間が公にした頃には既に死んでいた。殺害した真犯人は河村だった。結果的に河村だけが若かりし日の愛憎の文学物語から抜け出せずにいた。もちろん思うだけなら問題はない。本来なら心にしまっておくか、自分で傑作を書くしか凌げない。河村は、文学に於ける才能が豊かで何もかもを手にした挙句、文学を捨てた(と思い込んでいる)凌介を妬みながら羨んでいた。だから大切な真帆を奪って殺した。仕上げに、大袈裟な演出で真帆の遺体と凌介を対面させ、憎しみや殺意を自分に仕向けるよう、挑発する。しかしそもそも挑発するという思考そのものが、凌介の中にはほとんどない部分だったと思う。

クライマックスでも、凌介はただ棺の中で眠る真帆だけを見て、真帆の亡骸に話しかける。
ここは凌介の性格を考えた時、とても自然な行動だ。彼はそれまで様々な憶測が流れようと、自分がどんなに酷い目に遭おうと、ただ真帆に会いたかった。そして形は違えどもやっと会えた。話したいことが山ほどあっただろう。真帆にひたすら話しかける場面は傍から見ると一方的に見えるが、凌介の中では会話が成立し、カウンセリングのような役目を果たしていたと思う。そこで初めてこれからを生きるためのテーマに辿り着き、本を書こうと思ったのだろう。

喩えだが物を創る人に対し、以前の作風の方が好みだった、と現在の作風の変化が好みに合わなくなりファンという席を立つ人もいる。しかしその空席には、また新たな誰かが座ることもある。生きていれば変化は当然だから。しかし以前の作風を忘れられず、距離を置くのではなく認めず動かそうとするファンがいるのも事実だ。そうなると創作以前に一人の人間に執着してしまうことになる。
河村がそうだった。河村は、表面的には生き方を変えたように思える凌介という人間に固執していた。固執と言うのは人を惑わせる。ひたすら円の中をぐるぐる回り続けるからだ。けれど私は思う。創作と生き方は自由なものだ。そうでなければ、と。

作中、凌介は頼りなくお人好し、という描かれ方をしているが、全篇見返してみると、案外言うべきことは言葉にしている(簡潔かどうかはともかく)。しかし本来持っている優しい性格が、彼をお人好しと言う人物にさせてしまっている。ドラマの最終回後、Huluで配信されたアフターストーリーにて、凌介もまた文学に関して挫折をしていたことが判る。それは河村にとって激しい悔恨の念に襲われる真実だった。けれどその挫折を知らなければ、多分凌介は真帆と一緒になっていなかったし、もしかしたら河村と同じ思考でいたかも知れない。

挫折を経験し、生き方を変化させたからこそ暖かい家庭を築くことができた。
それこそたまたま幸せになった訳ではなくて、真帆と一緒に努力をして作り上げた家族だと言うのが、そこかしこのシーンで描かれていた。そう言った意味でも、凌介は小説とは別の部分で創作を捨てていた訳ではないのだろう。一人の時間は大事だが孤独とは違う。人はずっと一人では生きられないのも凌介は既に理解していた。

何かを考える時、行動する時、誰かと関わらなければ決断もままならない。
ただ依存とは違う。依存は人を縛り付ける。人との関わりは信頼がすべてだ。信頼によって心は安定し、解放させることができる。それはパートナーでも友人でも誰でも。感情を言葉で伝え合いながら日々を過ごすことだ。このドラマはそのように生きて来た凌介の温かな眼差しで幕を閉じる。

僭越ながら、個人的にドラマで小説の話が出るごとに私自身と重ね合わせていた。
私も自分の書く物のテーマに日々変化を感じて来ていて、もう以前のように書けないのでは、と不安に駆られ、以前の自分と現在の自分が常に頭の中でせめぎ合っていた。しかし心の経験が増え、深みを増した時、テーマや作風の変化は自然なことだろう。

凌介を見ていて、身近な大切な人にどれほど小さくても生き方に変化が起こった時、意見を聞く耳を持ち、コミュニケーションを交わせるだろうか、と自分に問いかけた。コミュニケーションと言うのは大袈裟なものではないが難しい。心の変化に気づいたことを、先にも書いたが言葉にして伝え合うこと、そうした連絡を繰り返して行くことが、暮らしを、延いては人生を創り上げて行く。けれど時折忘れてしまう。そんな綻びで呆気なく失ってしまうこともある。ただ、もしもそれで離れてしまっても、人は別れても別れても誰かと出会う。いつだって変化する渦中にいるのだ。私は創ることと愛を同列に考えている。

そして改めて思うのは、たくさんの登場人物がいること。
このドラマの凄い所のひとつに、すべての登場人物に主要なシーンがある所だ。どれほど悪事であろうと、彼らが登場する場面に来るとみんなそれぞれが主人公になる。端役というものがない。演者のことを考えないとできないことだろうと思います。
真犯人を追うドラマではあるけれど、そこに集まる人間たちが織り成す関係や、過去から連なる物語を描くことは外せない部分だと思っております。みんな始めはちいさな嘘で、隠し事だった。それらを明かさず秘めてしまったことから悲劇が重なった。けれど人の数だけ人生があり、感情が動く。相手を思いやるからこその悲劇だってある。このドラマを観賞できて良かった。素晴らしかったです。偏った感想ではありますが絶対に書き残しておきたいと思いました。


   

そんな訳で(長いw)
心臓に悪い半年間ではありましたが(失礼か)最終回を迎えてからは時折、好きなシーンを選んでは繰り返して観ています。個人的に、随所に登場する食べ物がとても美味しそうなので夕飯の献立の参考にしました。すみれさん(須藤理沙さん)、光莉ちゃん(原菜乃華さん)、篤人くん(小林優人くん)の合作と言ってもいい、鶏むね肉塩麴カレーマヨソースとかサクサクのコロッケ、真帆から菱田さん(桜井ユキさん)に受け継がれたがめ煮、一星(佐野勇人さん)と光莉ちゃんが出会うきっかけになったパン、あんバターフランスとか。あ、書いててよだれが出て来そうになりました(笑)

ちなみにドラマのタイトルはもちろん視聴者を意識し、マーケティングした上でなくてはならないのでこのようなタイトルになったと思いますが、十分、文学的なタイトルでも似合うと個人的には思っています。ああ、1話から思いついたことを語り尽くしたいところですが、このままだと終わらないのでそろそろ筆を置きます。ここまで読んで下さり、大変ありがとうございました。

主題歌はNovelbrightが歌う『Seeker』という曲です。
歌詞を読むと、身につまされるような想いに駆られます。とても情熱的で良いです。



※メーカー特典付きDVDには凌介の職場、亀やん急便のボールペンがついて来ます。

「真犯人フラグ」DVD-BOX
宮沢りえ
バップ
2022-08-03


※もう売り切れておりますがこういうムックが出るほど話題になったのですね。



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冒頭の画像は、最後のシーン。
真帆に捧げる物語の1ページが既に始まっている。きっと優しい小説だろう。読みたい。

劇場版きのう何食べたポスター
11月の話ですが、劇場版『きのう何食べた?』を観賞してきました。
コミックが原作で、その後深夜枠でのドラマ化。実はどれも観たことがなかった。

一体どこで知ったんだっけ、と考えて主演の西島秀俊さんが好きで、
何か作品を観てみたいと思ったのが最初だ、と思い出した。
しかし、印象だけだとアクションだったりハードなイメージが強かったので、
痛いやつはヤダ、という偏見からどれも観そびれていた。
そんな時にYouTubeで『きのう何食べた?』のレシピ動画が公式で公開されているのを知り、
西島さん演じるシロさんの手際の良さと料理が割と庶民的で作りやすそうなのが気に入り、
何度も観ているうちにハマり、映画化を知り(本来、そこからレシピ動画ができたのでした)
調べると北見市でも公開されるというので、観賞に至りました。

最後に映画館に足を運んだのは母と義父と3人で観に行った『おくりびと』だった気がする。
そして今回のこの映画。驚きの連続だった。まず、映画館と言う大画面、臨場感で見る料理。
画面いっぱいに広がるぐつぐつ煮込まれる肉団子のなんと美味しそうなこと!
丁寧な調理が鮮やかに描かれ、8時間茹でる黒豆すら作りたくなるほど魅力的だった。

お話も、40代男性ふたりの恋人同士を中心に彼らを取り巻く人々や高齢になる家族との関わり方など考えることが他人事ではなくて、私個人にとっては非常に重要なテーマだった。更にコミカルだったり、ときめいたり、たくさんのお喋りがあって、多分大切な作品になって行くだろうな、と思う。

美容師であるケンジの自然な心配り、優しい性格といじらしさがとても好きだ。そして調理のほとんどを担うシロさんの、秘密主義的な潔癖性がどんどん和らいで行く所も。ふたりとも常識をわきまえた社会人だが、性格や考え方の違いが明白で本来の私はどちらかと言うとシロさんに近い。ただもちろんあそこまで徹底してきちんとはしてない。表に出る部分はケンジに近いだろうな、と思ったけれどとんでもない。ケンジの社交性や心の広さは私と似ても似つかないぞ。正直、映画のストーリーを追いつつもケンジの素直さに驚きっぱなしだった。

ふと考え事をした時、すぐそばで話しかけてくれる人に対して「いや、別に」と逃げずにその気持ちを話せる。あれ実はかなり高度な技術だ。私はそういった場合先に書いたように逃げてしまい、結果的に相手の意見も聞けず、自分の中に隠れて悶々として成長も何もあったもんじゃなくなる。
今まではそれでも何とかやって来たけれど、この映画は私の成長できていない痛い部分を逐一突いてくる。このままでいることの不安と、私は独身だが淋しいからって友達と一緒にいる訳じゃない、と頑なになってしまう葛藤。しかし「友達」ってむりやりそう名付けて突然なる訳じゃない。普段話をして段々「友達」になっていく。淋しいと言う気持ちだって独身だから、ではなくて、淋しい気持ちは誰にだってある。自分で判っているようで認めたくなくて素直さを失くしていた。
本来大事な、どこまで相手に踏み込んでいいのか、どこまで自分を曝け出していいのかという距離、そこを近づけて歩み寄って行く間のやりとりの部分は私に欠け落ちている部分だ。鈍感に成長してしまったそんな私の弱い部分をこの映画で問題として突きつけられている気がしている。

ところで、私は時折、映画やドラマは感情を揺さぶられるからあまり観ないと人に話す。
友達の家に遊びに行った時、見てもいないテレビがかかっていたらことわってから消してもらったり、かなり音量を下げてもらったりする。そのくらい感情的に「させられる」のが嫌いなのだ。なのでそれほど映画の本数は観ていないが好きな映画やドラマはとことん観る。それで最近気づいた。会話が主体になった物語が好きなのだ。更に余談だが、サスペンスなどで犯人が犯行を犯した場面などを振り返る時、台詞でも言ってるのに犯行時の現場検証みたいなミニドラマを挟まれるの、あれ地味に苦手だ。仕方ないけど。

大幅に逸れました。
そんな訳で長くなりましたが、劇場版『きのう何食べた?』は現在進行形で勉強になることがたくさんある作品でした。そして映画で興味を持ち、それが膨らんで我慢できなくなったのでAmazon primeに登録して未見だったドラマ版を全部観賞しました。そしてシロさんのレシピ本も購入して日々色々参考にして作っている。この作品に出会ってから日常生活がとても楽しい。日々かったるいはずのごはん支度や家事も、自分が気持ちよく過ごすための魔法のような行動に変化する。

で、そうして作る大切な毎日は、やはりシロさんとケンジのようにゆっくりと家族になって行けるような相手と共にして行きたいと思う。この作品をきっかけに暮らしを変えていくことを前向きに考えるようになった。来年の目標は一人暮らしをすることだ。現実にするぞ。

  

久しぶりの投稿になりました。お久しぶりです。
なかなか心が動くことがなくて(嘘です。あったけど面倒だったw)
普段Twitterにて日常的なことを書いているのでわざわざきちんと書くこともないかな、と思っておりました。けれど、今回この映画を観て揺さぶられた想いは記憶が薄れない内に記しておかなければと思いました。また忘れた頃にぽろっと更新します(笑)

※劇場版『きのう何食べた?』公式サイト ↓

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令和3年4月14日、
長患いしていた母が逝った。

その日の夜、私は体が妙にだるくていつもなら終えているはずのお風呂に入っていた。
そんな時に母が入院していた病院から突然の電話。
「ご家族の方、いらしてください」
慌てて髪も濡れたまま束ね、タクシーで急いだ。
母は既に息を引き取っていた。いつもの眠っているような表情だったので先に着いていた姉に「さっき午後11時に」と臨終の時間を告げられるまで気づかなかった。ただ母に大丈夫かい? などと間抜けな言葉をかけていた。

本当に? 本当にいないの? 確かめずにはいられなかった。ごめん、間に合わなくてごめん。そんな言葉を言いながらまったく信じられず涙も出なかった。

そこからは感傷的になる間もなく、すぐに現実に返り葬儀について話し合いをし、友引や火葬場の空きがないと言う事情で2日ほど斎場に安置してもらうことになった。お通夜、告別式、出棺を終える次の日が初七日と言う段取りになった。私は喪服も持っておらず、ほんの少し打ち合わせの開いた時間に買いに行った。失礼にならなければそれでいい。そんなに何度も着るものじゃない。
死因については元々、持病があったため、色んな要因は絡んでくるが誤嚥性肺炎が大きかった。ついこの間同じ理由で入院し、退院したばかりだったが日を置かずにまた体調が悪くなり何度も入退院を繰り返した。母の体力を考えると限界だったのかも知れない。

思えば寝たきりになってしまうまで、本当に長い介護生活だった。
途中から施設に入居できるきっかけも、私が心身共に限界になり、かかりつけの医師が母を療養という形で入院させてくれて、当時申し込んでいた施設にも早々に働きかけてくれたおかげだった。その頃の愚痴も交えた詳細はカテゴリ「日常ダイナマイト」で少々触れている。

まず、ここまで書き始めたけれど形式ばったことは多分、私には書けない。残念ながら説明と言うものが下手な物書きだからだ。書けるのは想いだけだから心が粟立ったことだけ記しておこう。そしてこのあとゆっくり触れて行こうと思う。お通夜には地元の情報誌の訃報欄を読んだ友人が仕事を抜けて来てくれた。小学校からの友人でもある彼女も昨年お母さまを亡くしていた。彼女の姿を確認して少しだけ気が緩んだ。そして彼女もとても驚いていた。庭の手入れや猫たちと戯れる若い母の姿しか知らなかったから。
いつも白髪交じりの髪を黒く染め、ひとつに結び、頭の上の方でお団子にしていた母の姿。私もその姿が一番印象に残っている。だから急ぎで選んだ地元情報誌には施設で写した写真を載せたけれど、遺影は病気に罹る前の母の姿にしたいね、と姉と話し、少ない写真の中から元気だった頃の母の写真を探した。きちんと自分の服を着て化粧もしている微笑んだ母の姿だ。

あれほど忙しなかった式のはずなのに、初七日を終え、役所へ赴いて書類等の手続きを終えると、すぐに静寂に戻った。もちろん大変だったと思う。その証拠に私は役所に行った次の日から久しぶりに風邪を引き、それは今も続いているから。けれど母と共に生き、格闘のようだったり親子関係が逆になったような介護の時間を思うと本当にあっさりと終わってしまったように思う。

先にも書いたが、火葬場に空きがなかったため、お通夜が始まるまでに数日空いた。
その間、毎日見舞うかのように母に会いに斎場へと向かった。打ち合わせの中で『お通夜の前に湯灌*(ゆかん)を行いますか?』と斎場の方から問われ、もちろん快諾した。施設でも病院でも、もちろんお風呂に入れてくれていたけれど、急いだ洗浄という印象に近い。もちろん悪い意味ではなく。けれど、永遠の眠りにつくのならきちんと髪も体もゆっくり洗い、肌も爪も整えて良い香りに包まれ、気持ち良くなって欲しいと願っていた。
湯灌は斎場のスタッフの方2名が施してくれた。丁寧に体を洗ってもらい、髪もシャンプーとトリートメントをしてドライヤーで乾かし、いつものようにひとつに結んでもらい、白装束に着替えた後は私と姉が最後の化粧を手伝った。用意してくれた口紅の色はローズピンクで、偶然にも母がいつも付けていた色と似ていた。伸びていた眉毛も切ってくれて自然なアイブロウができた。すっかり瘦せてしまった顔の輪郭もふっくらさせるため、口の内側に綿も入れてもらった。すべて終えると本当に眠っているようで、昼間、椅子で猫と一緒にうたた寝する母の顔そのものだった。

葬儀場では母が好きだったサザンオールスターズの音楽が流れていた。
母とふたりきりで話をしている時、斎場の方がいらして「好きな音楽があったらかけますよ」と仰ったのだ。突然だったので編集する時間もなく、母が気に入っていたいくつかの曲はかけられなかったけれど、その中でも大好きだった曲は聴かせることができた。
途中、司会の方と打ち合わせをして母のこれまでの半生を語るため、色々とエピソードを話し、彼女が脚本として筋立てをして改めて物語をなぞると、小説の朗読のようだった。内心、私もこうやって小説書いてるなあ、なんて呑気に思っていたが、2日目の告別式での内容は少し変えられていて、まるで私たち姉妹の心情を表しているような言葉になり、もうこれで本当に、母の亡骸ともお別れなのだと思うと、急に涙が噴き出した。姉も私も。

棺の蓋が閉められる前、お花を母の体の周りに置きながらどうしようもなく流れる涙をそのままに、いちばん大きな花束を母の胸に乗せて、最後に手向けた言葉は「ありがとう」だった。それしか言えなかった。たったひとこと。母に届いただろうか。
大好きな母、私たち姉妹を産んでくれてありがとう。


*湯灌=湯灌(ゆかん)とは、葬儀に際し遺体を入浴させ、洗浄すること。(中略)女性の場合は死に化粧が施される。病院で死亡した場合には「エンゼルケア」などと称し、看護師による簡易な清拭が行われる。


長くなりました。
上画像はいただいたお供えのお花。少し枯れかけているけれどまだまだ蕾もある。ここから数本もらい、玄関にも飾っています。母は穏やかな花のようなひとでした。

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ふと、思い立ってコンビニに行ったりする夜が好きだ。

夕方が終わり、夜が始まるとき、星空はくっきりと色付く。
コンビニまでの距離は何歩歩いたか数えきれるほど短い。けれど私は夜に抱かれているようにうとうとと歩く。夢の中にいるような不思議な感覚になる。夜の中にいると前後不覚になって、ついでに上下左右も曖昧になって、時折転倒してしまう。そして無理やり現実に引き戻される。そんなことを早起きするようになった毎日を過ごすようになってから繰り返している気がする。空を見て地面を見て、そんなに視界を急激に動かしていたらそりゃあコケることもあるよなあ、と思う。

コンビニでは突然足りなくなった調味料や、何となくおやつが欲しくなったりしたときに行くので一日の中で数回行く日もある。野菜などを買った日は「えらいねえ、ちゃんと自炊して」と仲良しの店員さんに言われて頭をかく。えらいのかな。私の歩き方を知ればしっかりしろ、と思われるだろう。

コンビニ袋を提げて歩く帰り道は買った物を守らなくてはと思うせいか、下を向いていることが多いが、それでも空によそ見する。風が強い日は星が揺れて少しだけ心許なくなる。この世が私と星空だけのように思えて、突如、私は暗闇の中に放り出される。それでも玄関まで一生懸命歩き、足を止めてからあらためて夜の空をじっくりと眺める。星は視界に入りきらないほどに広がっていて、ああ、私は夜と散歩をしていたんだなと思う。手を繋いで。

今は三つ並んだ星を見つけるのが好きだ。あれがかの有名なオリオン座と言うのだと最近知った。オリオン座というものを形成する星の中の一部なのだと。もしも星から私が見えていたら私も星の一部を形成するひとつに見えたりするのだろうか。


  

お久しぶりです
最近はこんなふうに夜に歩くことが珍しくなり、ゴミ出しのときに夜空を見上げて夜と仲良くしている。朝型になると夜が少し淋しく思うようになっちゃったかな。画像は、つつじを背中に乗せたまま毛づくろいをする、らむ子さん。夜の中でも猫はいつも変わらず猫でいてくれる。

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2021年初の更新になります。遅い(笑)
こちらを訪れてくださる皆さんはお元気ですか?
急な寒さなどで体調を崩したりしていませんか。
暖かい飲み物でも、一緒に飲みましょう。

そして、私自身ですが、
昨年失ったものが私に思いの外、大きな打撃を与えていたようで、
急速に生み出したくなった。多分、物語を。
Twitterでは、日々日常の献立などをつぶやいていて、
料理もどこか創作だとは思うし、もちろん必要で嫌いではないけど、
充実感があるのはやはり物語に没頭できたあとだった。
ある日、父に次の日の些細なことをメモに残したとき、
余白が残ったため、適当なイラストを書き込んだ。
何だかわからない生き物だったのでそのまま、
「謎のいきもの」としてTwitterに載せた。

その謎の子が、度々メモをつける中で色んな表情を発して増えて行き、
結果、名前をつけようとアンケートを取った。
謎のいきものは、にゃぞ子、と命名した。
他にも候補があり、提案もいただき、そのお名前も可愛いので、
今後登場させたいと思っている。
にゃぞ子を描くのは楽しい。下書きも何もしないで描くので、
本当に謙遜でもなんでもなくシンプルに下手なのですが、
私の指そのままに、にゃぞ子も必死に応えてくれるので幸せになる。
何より、にゃぞ子はずっと生きている。私がいくらでもエピソードを生み出せる。
猫たちと暮らした日々が残り、ぽっかりした空間に突如、にゃぞ子がやって来た。
偶然でも、いや、偶然だったからこそそれは不意に私の胸に住み着いたのだろう。

そして、つい昨日のことだが、再びTwitterにてハッシュタグでお題が流れて来た。
「あなた、桜、涙」という言葉を使って文章を作る、というものだ。
むくむくと書きたくなって、文字数が決まっているひとつのツイートでは足りなくて、
そこからみっつほど続きにしてとても短い場面を書いた。
もちろん、推敲を少しだけしたけれど送信してから重複していた言葉が気になり、
ひとつだけ削除してツイートし直したけれど完成させた。

こちらから読めます↓

思えば、物語として文章を書いているとき、すべての日常が消え去り、
「あなた、桜、涙」の場面しか頭の中になかった。
物語を作ることは、私自身のカウンセリングになっているのだろうか。
にゃぞ子も、急に参加したお題の文章も、書き終えて、
ずっと必要としていたものだと判った。

音楽や、スポーツ観戦(主にテレビ)など大切なものはたくさんあるけれど、
それらを愛して行ける器を作り、ろくろを回し、
更にたくさんのものを愛せるように器を広げて行く必要があった。
器の栄養素は物語を創作することだった。
悲しい現実も、届けられなかった花束も、創作の中では喜びに変えて行ける。
支えになって、心の器にまた少し余裕ができて栄養を注ぎ込める。
ただ時折、忘れてしまうだけだ。だからこれからも何度も忘れて、
それでもしぶとく思い出していけたらと思う。
にゃぞ子も、哀しみの小舟に乗った桜を見る「僕」も私の一部分なのだろう。

冒頭のイラストが突如誕生した、にゃぞ子です。
これからも色んな彼女を描くので、見てね(笑)
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こんな感じで色々な姿を見せてくれます。
私ですらどんな彼女が出て来るのか予想できない。

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